第2話 モスコミュールの話

「マスター。テキーラ・サンセット」

「覚えてるんじゃないか、カクテル言葉」

「覚えてませんけどォ、慰めてくださいよォ」


 覚えてるじゃないか、と僕は宙を見る。慰めてという心の声はどうやら僕の喉元を熱く乾かしたらしい。


「マスター。ブルームーン」


 できない相談。


「やめて。やめてください。相談に乗って。お願い」


 チッと舌打ちをしてマウントフジを頼み直す。もしも願いがかなうなら。

 願い、か。もうそんなものを願わなくなって久しくなった。願うくらいなら、行動を起こすようになった。そうしたら望むものはすべてとは言わないまでも、満足するくらいには手にできるようになった。


「彼女出来たんすけどね。見合いなんすけど」


 桃太郎はおもむろに話し出す。とりあえず驚くでもなく相槌を打ってみる。


「結婚考えてるんすよ」

「おお」


 まあ、見合いだからな、考えるよな。


「でも僕彼女に名前で呼ばれたことないんすよ」


 白い液体が喉に詰まりかける。嫌な予感がする。


「それで?」

「喧嘩しました」

「それで」

「以上です」

「くだらね」

「ひどい」

「もう一回言う。くだらね」

「ひどいってば。なぐさめて? ねえ、僕今テキーラ・サンセット呑んでるの。ねえ」

「待って、君その喧嘩の報告のために僕を呼んだの?」

「ねえ、なぐさめて?」

「それだけ?」

「なぐさめてってば」

「黙って。黙して。口を閉ざして」


 一気にマウントフジを飲み干してかん、とグラスをカウンターに置く。ビールジョッキだったら叩きつけているところだった。


「マスター、モスコミュール」

「なんていうカクテル言葉でしたっけ」

「喧嘩したらその日のうちに仲直りする」

「マスター。ブルームーン」

「はい、だめ。マスター作らなくていいから。マスターとカクテルで遊んでんじゃないよ」

「遊んでるのはやすさんも同じでしょォ」

「ギムレットください」

「いやーだめーいやー長い別れとかいやだー」

「黙って。頼むから、その口閉ざして」


 結局モスコミュールを頼むことにした。マスターが穏やかな笑顔を浮かべながら作っている中、くだらない与太話は花を咲かせる。


「それで、君はどうしたいの。仲直りはしたいんでしょ」

「したいっすよ。だって仮にも結婚を考えているんすよ。そりゃ仲直りしたいっすよ」

「仲直りすりゃいいじゃん。ごめんねって言えばいいじゃん」

「名前呼んでほしい」

「呼んでって言えばいいじゃん。っていうかなんて呼ばれてるの?」

「桃太郎」

「彼女にも桃太郎って呼ばれてるの?」

「やってられないでしょ?」


 透明な液体の中の無数の気泡が喉の中ではじけ飛ぶ。くくっとはじけ飛ぶものを押し殺す。


「いいじゃん。桃太郎に会った奴なんて、そうそういないんだから」


 桃太郎は童話に出てくるような桃太郎に会ったことがあるらしい。その話を当時聞いたとき、あまりの突拍子のなさに仇名にしてしまったほどだ。出会い方も実に奇妙で彼自身が桃の中に入ってしまって川を流れ、その桃を拾ったのが童話の桃太郎らしい。

 確か飲み会の席で聴いた気がする。「『桃の中って居心地よくないっすか』とか言ってきてェ」と絡んできたような気がする。おぼろげな記憶が色を伴って脳裏に甦る。やっぱりくだらなくて無駄で馬鹿馬鹿しくてまた笑い声を押し殺す。

 桃太郎は指さす。指さしてる方向を見ても何もない。上気している頬と呂律のまわらない舌と焦点の定まらない視線。いい感じに正気ではない。


「別にね、大学のメンツには桃太郎って呼ばれてもいいっすよ。でもね、でも仮にも彼女なんすよ。いずれ僕の嫁さんになるかもしれない人に桃太郎って、桃太郎って」


 そして突っ伏す。衝撃がグラスの中の液体を揺らす。グラスの淵のライムから細い筋が流れる。


「君は彼女のことなんて呼んでるの?」

「直弼」

「はあ?」

「彼女の苗字が井伊だから、直弼」

「ギムレ」

「だめ、頼ませない、だめ」


 モスコミュールが底をつく。カクテルの淵のライムの皮を指の腹で撫でる。ころっとグラスの中に入れるとくるりと回っていい格好で止まる。わかってやがるな、とほほ笑むとライムまで笑ったような気がする。いい感じで僕も正気ではない。

 ライムのなくなった淵を指でなぞりながら、僕は正気な振りをして言う。


「君が彼女の名前を呼ばないならそりゃ彼女だって呼ばないわな」

「だって彼女のアイデンティティは苗字にあるっていうから」


 指を少しなめると爽やかな苦みが鼻を抜ける。


「結婚しても直弼って呼ぶつもりなの? 馬鹿なの?」


 指を眺めながら言うと、桃太郎の悲しそうな顔が視界の端にちらつく。


「ひどい」

「でもそうでしょ」

「はい。そうですね」


 うなだれながら彼は彼のグラスに手を伸ばす。その軽さも悲しかったようで、伸ばした手を引込め、膝の上に乗せる。


「僕も君のことを名前で呼ばなかった、ごめんね、これからは君のことだって名前で呼ぶよ、だから僕の名前呼んで、っつってハグの一つでもかましてやるんだな」


 しばらく沈黙が続く。膝の上に乗った桃太郎の手がグラスに伸びる。軽くなったグラスをすっと前にだし、何か決意したように彼はマスターに勢いよく頼む。


「マスター。ブラッドメアリー」

「断固として勝つとかぬかしてるんじゃねえぞ」


 ひい、と息をのむ姿は学生の時のままだ。


「やすさん、こわい」

「酔ってるからな」

「お兄さんそんなに怖くないのに」

「兄さんは本気出さないだけ。兄さんには到底追いつけないよ」

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