第7章 カクテルの話
第1話 ギムレットの話
ギムレットには早すぎる。
何の作品で書かれていたのか忘れてしまったセリフ。きっとこんなオレンジ色の照明の中でぽつりと呟かれたセリフだろうし、僕がそのセリフを言えるかといえば言えるわけがなかった。僕がいるこのバーは確かにそのセリフに似合っているのだろう。舞台は揃っている。役者が揃っていないだけ。
手元のマルボロはもう吸うには短すぎた。黒の光沢を放った灰皿に押し付けるとじゅわりと小さな火花が散った。指先がひりりと痛む。
「マスター、ジプシー」
しばしの別れ。別れ? 何と? 誰と? 僕は惑いながら自分の指を絡める。手放したくないものが多すぎて僕は強く手を握る。
シェイクの音は煙のように心地よい揺れのリズムを生み出す。店内を白い煙がくゆる。このリズムと共鳴しているみたいだ。
少しの時間、考えることをやめる。忙しなく考えることで感情が奪われていくような気がして、怖かった。この時間は考える僕とのしばしの別れ。うん、これか。問題が解決したような気になってにっこりほほ笑む。
透き通った深く穏やかな色がカクテルグラスを染める。すっと目の前に出されて、小さくありがとう、と呟く。この色みたいなマスターはやっぱりこの色の雰囲気を纏った笑顔で小さく頭を下げた。
小さなバーに入る客は少ない。気怠い空気はジャズの音によるものか。立ち並ぶアルコールの瓶が、オレンジの照明できらめく。カウンターの木目を数えれば、途方もなくて数えるのをあきらめる。ここまで生きたくないなと思ってしまって彼女に、兄に、申し訳なくなる。
僕はどうしたいのだろう。悩んでいる。何に悩んでいるかよくわからないが悩んでいる。
柄ではない感情が僕を支配しようとする。その感情にしばしの別れを言うために、ジプシーを舐める。ウォッカベースのカクテルは、僕の願ったとおりに、忌々しい感情からしばし別れさせてくれる。
「やすさん」
数年前まで毎日のように聞いていた騒がしい、懐かしい声に顔がほころぶ。よれよれのチェック柄のシャツにジーンズが彼のスタイルだったはずなのに、今彼が着ているのはタイトなスーツだった。ネクタイはニットか。もうこいつも社会人かと思うと感慨深い。
「元気そうじゃないか、桃太郎」
「懐かしいなあ、やすさんにそう呼ばれるの久々っす」
「そりゃそうだな。会うのも久々だしな。俺が卒業した後、忘年会行った時以来か」
僕が桃太郎と呼んだ彼が僕の隣に座る。背負っていたリュックが登山用のリュックのように見えて一瞬心臓が掴まれる感覚がした。驚いたようなそぶりを見せたくなくて、ジプシーを飲み干す。
「僕も何か頼もうかな」
「そうしろよ」
マティーニ、と彼は頼む。相変わらず強い酒を頼む奴だ。
「何か話したいことあるのか?」
僕は桃太郎に聞く。
「相変わらず好きっすね、カクテル言葉」
曖昧な笑顔は桃太郎には合わない気がした。心の声はそのまま彼の口からついて出るもののはずだった。社会人になってそうもいかなくなったのか。
透明な液体の中に丸い個体がつるりと沈んでいる。刺さった銀の針を弄ぶ手は微かに震えているような気がした。その震えは僕自身の震えかもしれない。
「カクテル言葉、覚えてる?」
「何年前の話してるんすか」
「だよなあ」
暫しの別れを飲み干す。桃太郎は心の声を舌で転がしていた。
「なんかやらかしたのか?」
転がすように飲んでいたはずのそれをいきなり飲み干した。空になったカクテルグラスを前に出す。
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