第8章 足音の話
第1話 午前10時の話
障子から透ける光りは柔らかで私の身体をすっぽりと包みこむようだ。柔らかさの中に確かに存在する朝の爽やかな鋭さは体の細胞を目覚めさせる。朝食を食べてもまだ起きないこの身体を叩き起こすのは間違いなく朝日だ。
障子を開ける。真っ先に目の中に飛び込んできたのは美しいとしか形容できない青だった。突き抜けるような空の青さは何処か神秘を感じる。天高く馬肥ゆるとはよく言ったものだなと何処から仕入れてきたかしれない知識を心の中でだけ呟く。
ニュース番組は相変わらず碌なニュースを流さない。世の中はやはり事件で溢れているし、課題が山積みだ。見慣れたアナウンサーの顔がそこはかとなく疲れているように感じる。チャンネルを変える。穏やかな音楽、のどかな光景がゆったりと流れる旅番組は、日常の慌ただしさを忘れさせてくれる。どこかの里山を旅しているようだが、金色に光るそれは豊穣をこれでもかとばかりに主張する。さわさわと風がなびく度、きらりと輝き、テレビの前の私にその輝きを届ける。高尾山は今頃赤く、黄色く、茶色く、色づいているのだろうか。随分行っていない。何処から来たかわからない落ち葉が窓の外を過ぎ去っていく。オレンジがかったその葉は所在なさげに飛んでいく。
台所から水の流れる音がする。我が家の、というべきか我が部屋の、というべきか。その台所は二人で使うにはあまりにも狭いものだった。一人入るのが精いっぱい。部屋の構造上仕方がないこととは言え、二人で立てないと言うのは効率が悪いような気がしていた。また一人に負担が掛かってしまうのもよくない気がしていた。しかし慣れと言うのは恐ろしいもので、今ではこのコンパクトサイズが私たち夫婦にはちょうど良いサイズだったと思える。移動しやすいし、偶に旦那にあからさまに頼れるのもなかなかよい点なのではないだろうか。
皿と水がぶつかってはじけ飛ぶ音。少しすると止まり、布の擦れる音が響いてきた。そろそろ緑茶の準備を始めるはずだ。金属と水がぶつかった。かちっと回す音。炎の燃える音。少し室温が上がる。湯のせいか、蒸気のせいか、それともこの感謝の想いのせいか。
緑茶の香りが鼻をくすぐる。朝食を終えたあと、必ず緑茶を飲む。旦那が好きだから、という単純な理由だ。休日ともなると旦那は家事を手伝ってくれる。この家に来てから緑茶を淹れるのは旦那の仕事になりつつあった。以前までは私が淹れていたが、新居になって新しい台所を見た途端旦那が台所に立ちたがった。この世代で旦那を台所に立たせるのはタブーとされている節があったが、すんなりと私は受け入れてしまった。立ちたいなら、立てばいいんじゃない? そんな調子で答えた気がする。
とん、と目の前に二つ湯呑が置かれる。ざらっとした手触り。赤と言うより緋色。青と言うより藍色。仲良さげに並ぶ。湯呑から湧き立つ湯気がうねり空気と交わる。妙にくねりながら透明の空気に溶け込んでいく。
「ありがとう」
礼は忘れず言う。それは私たち夫婦が一番最初に取り付けた約束だった。今は約束と言うか、それはもうすでに習慣になっていた。
長年夫婦として生活していると、やってもらうことが当たり前になってきてしまう。当たり前はない、とどこかで思っている不安が私たちに約束を取り付けた。若い頃はたくさんの約束を取り付けた気がする。
朝ごはんは一緒に食べること。
仕事帰りの酒はほどほどに。
帰れなくなったら連絡を必ず寄越すこと。
何度その約束が破られたことか。その度に喧嘩して、ついには喧嘩もしなくなって。仕事を引退してその約束は習慣になった。約束が約束として機能しなくなったのはある意味喜ぶべきことかもしれない。そう思いながら緑茶をすする。
緑茶と言うには渋すぎる味が熱を帯びて口の中に入り込む。熱という塊が喉を通り、胸で拡散する。熱は柔かな暖かさに変わる。内側からの温もりが体を支配する。支配すると言うにはあまりに優しい感覚だ。
「うまいか?」
すこし心配そうに見る旦那の顔は何度拝んでも整っている。若い頃の旦那も確かにいい男だった。私好みの顔だから、見合いした後すぐ結婚を決めたと言っても過言ではない。年を経ても私は旦那の顔に飽きることはなかった。深く刻みつけられた皺や、頬に散らばった染み、白くなってしまった髪は、私と一緒に生きた証。すべてが愛しかった。若さに憧れなくなったと言えば嘘ではあるが、この老いも悪いものではない。
旦那の不安に私は笑いながら返す。私の顔に刻まれた皺がより深く刻まれる。これを幸せ皺というのだろう。
「うまいよ」
安心したかのように、旦那も自分でいれた茶を飲む。
天井から規則正しい音が聞こえた。似たような、それでいて質の違う二種類の音。トンとも、ドンとも取れる音がリズムを刻む。微妙な二重奏が食休みのこの時間のBGM。毎週この時間に流れるBGMは毎回違う曲を奏でる。バラエティに富んでいて、面白い。何を思って奏でているのか、想像するだけで愉快だ。
二人して天井を見上げる。
「起きたかな」
旦那が私の言葉に苦笑いする。
「遅すぎないか」
二階には娘夫婦が住んでいる。この家は最近娘夫婦が建てたものだ。娘の旦那はなかなかよくできた男で、声をかけたのは私の方だった。寒い夜、トレンチコートの襟を立てて帰っていく姿が印象的で、未だにその話をすると「そんなときもありましたねえ」と感慨深そうな顔をする。借金まみれで金がないと言っていたあの子がよくこれだけ立派な家を建てられたものだと感心している。最早感心ではない。感動している。だから一緒に住もうと言われた時は純粋に嬉しかったが、旦那と二人だけで過ごす日々に別れを告げなければならないのは少し惜しい気もした。なんとなく気恥ずかしいこの想いは心の中に留めておこうと思う。少しくらい秘密ごとがあってもいい。
天井の木目が新しい。何年生きた木をこの天井に張り付けているのだろう。年が経てばこの木目も日に焼けて茶けてきてしまうのだろう。埃一つない鴨居にはどんどん埃が溜って、生活感のあまりないこの空間に生活が染みついていくのだろう。
木目の年輪の数を数える。この年輪を超えられるくらい生きたいと思うのは欲張りだろうか。もう少し欲を言うのであればその年輪以上に隣で茶をすすっているこの人と過ごしたい。
「欲張りかねえ」
何の気なしの独り言が空中を舞う。枯れることのない想いが言の葉に乗って、まるで落ち葉のように、ひらり、ひらりと。この独り言はどうやら旦那の耳に届いていたらしい。ちらりと私の顔を見る。
「欲張ってもいいんじゃねえか」
ずずっと茶をすする。トン、ドン。天井から音が漏れる。
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