第2話 昼12時の話
焼きそばは正義だと思う。
人参、ピーマン、キャベツ、ハム。冷蔵庫の中にある食材たちを適当に切り刻む。バランスのとれたそれらを麺に絡め、ソースを思いっきりかける。じゅわっとソースがフライパンの上を飛び跳ねる。フライパンから湧き立つソースの香りには旨味成分があると思う。それほどうまそうな空気を立たせる。皿にさっと盛り付けて自室に持ち込む。一人分は楽でよい。誰に邪魔されるわけでもない。誰に文句を言われるわけでもない。自分の食べたいものを思う存分食べられる。食いしん坊の私には気楽で有難い環境だ。それでも美味しいと言ってくれる人が欲しいと思わないわけではない。だから偶に二階に持っていくのだ。ようやく四歳になろうかという孫娘は私の焼きそばが好きらしく、美味しい美味しいと言って食べてくれる。娘から言わせれば味付けが濃いそうだ。年を経るごとに味の濃いものが好きなっていたように思う。あとで持っていこうかな、と考えながら箸をつける。
とんっ。天井から軽い音が聞こえる。今の音は娘にしては軽い音だった。こんな愛らしい音を奏でるのは彼女しかいないだろう。
黒髪を二つ結びにして流行の子供服ブランドの服を着こなす孫娘の歩く姿を思い返す。孫娘の奏でる音はどんなものでも愛しい。たとえそれが泣き声でも、笑い声でも。その音は私の心の中にすとんと落ちてきて幸福感を植え付ける。
彼女を初めて抱いたときその小ささに、その愛らしさに、その儚さに、少なからず怯えた。壊れてしまいそうで、そっと、そっと抱えるように抱いた。顔は拳くらいしかなくて、目も満足に開けることが出来なくて、偶にその小さな口をめいっぱい開けてあくびする仕草が愛しくて、震えた。今は立つこともできるようになったし、歩くことも、走ることもできるようになった。一緒に散歩をすると如何に走れるかを自慢するように走るので見失うのではないかとはらはらする。その想いを知ってか、知らずか、彼女は毎回どこかに走っていっては隠れようとするのである。無邪気なことはいいことではあるが、姿が見えなくなる度、誰かに攫われたのではないかと緊張する。これではいくつ心臓があっても足りない。
口の中に麺を入れる。香ばしさが鼻から抜ける。細かいと言うには中途半端な大きさの具が喉に詰まる。人参の甘味やキャベツの歯ごたえ、ハムの塩気、ピーマンの苦みが混然一体となって、喉を詰まらせながら奥へ奥へと通っていく。焼きそばは正義だ。
孫娘が生まれてもう四年になる。旦那があっちに行ったのは二年前。ようやく一人の気楽さに慣れてきた。旦那が行った直後はやはり寂しかった。寂しすぎて涙も出なかった。一日が長く感じた。それでもここまでやってこられたのは娘家族が側にいたからだ。料理上手の娘は毎日美味しい夕飯を作ってくれたし、優しい娘の旦那はさり気なく気遣ってくれた。孫娘は無邪気に私の首に纏わりついてくる。その美味しさや優しさや無邪気さが私を救っていた。有難いなあと思いながら焼きそばを頬張る。
窓を見ると白い粉がちらちらと舞っていた。外の気温はこちらより数段低いと見受けられる。
この季節に焼きそば? と娘にどやされると思うが、食べたくなったのだから仕方がない。粉砂糖の世界を眺めながら、ばくっと頬張る。きっと孫娘は大はしゃぎだろう。玄関にいびつな形をした雪だるまが数個並ぶのは必須だろう。小さいの、大きいの、中くらいの。旦那とも作ったっけ、と懐かしく思う。娘が小さい頃はかまくらも作った。温暖化なんてものがなかった時、いや、取り沙汰されていなかっただけか。雪は今より贅沢に降っていた。かまくらを作るには有り余るだけの雪が降りしきっていたものだ。真っ新な美しさは昔も今も変わらない。
とん、ととんっ、とん、ととんっ。リズミカルな音は幼い孫娘のものだ。白い世界に興奮しているのだろう。彼女が冬を経験するのは片手で数えるくらいしかない。それはそれは物珍しい光景だろう。何の跡もついてない、その美しさは神秘的としか言いようがない。どのくらい積もるだろうか。その白さはどこまで透明になり得るだろうか。この美しさはいつまで保つだろうか。
「きれいだねえ」
その声に反応してくれる人はこの部屋にはいなかった。その言葉だけが宙を舞った。誰も受け止めてはくれなかった。
仏壇に飾ってある額縁の中の旦那を見る。にっこりと笑う旦那の髪は白くて、なんとなく外の白さと被る。
雪が積もってるよ、と言っては髪を触っていた。その手を払いのける旦那はどこか嬉しそうであった。照れ屋な旦那の横顔を思い出す。
いない。隣に。
急に寂しさと侘しさがこみあげてくる。こみあげてくる感情と体の反応は連動しているらしく、目頭が熱くなる。落としてはいけない。そう思ってその想いとその液体を焼きそばとともに飲み込む。中途半端な熱を持った塊が喉をぐっと通っていく。飲み込まれる感情は胸の奥深くでくすぶっていた。いっそのこと吐き出したほうが良かったかもしれない。その考えとは裏腹に私は焼きそばを胃に詰め込む。
「ばばー」
はっとして声のした方向を見る。音が聴こえなかった。自分の思考と感情に整理をつけるので必死だった。とっとっと、という小さな足音が私に近付く。天井から連続した音が聞こえる。軽いと言うほど軽くはない音。地に足の着いたしっかりした音。その音はこちらに近付いてきているようだ。
「ばば焼きそばー」
くんくんと匂いを嗅ぐ仕草は愛しすぎて、思わず笑顔がこぼれる。
近付いてきた音はやはり私の部屋に入ってくる。
「この季節に焼きそば?」
思った通りの突っ込みは流石我が娘だった。
「食べたかったんだもん」
あれ? と私は自分の顔を触る。今、笑顔になってる? 作っていない。娘と孫娘を見る。これから外に出る気満々の格好をした二人はきっと外の白に足跡をつけまくってくるのだろう。笑いがこみあげてくる。この子たちは私を笑顔にする天才か。こみあげてきた笑いを飲み込む術を知らなくて私は笑顔を吐き出す。ずずっと焼きそばを飲み込みながら、笑顔を吐き出す。
「食べ終わったらおんも行こうね」
うわあ、と顔を輝かせる孫娘の白いマフラーは私が手編みしたマフラーだと気付く。この感情は飲み込まなくていいよね? 旦那に聴いてみる。額縁の中の旦那は相変わらず幸せそうに笑っている。
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