第3話 午後3時の話

 リビングから拝借してきたウエストのクッキーを口の中に入れる。さくっという歯ごたえが口の中の水分を持っていく。水分の補給は欠かせない。水を口の中に含む。生温い微妙な温度の液体が喉の中を伝う。そろそろ冷たい水が飲みたいような気もする。しかし、まだ寒い日があるから氷を入れて冷やした状態で冷蔵庫に入れようとは思わない。まあ、どちらでもいいかとベッドに寝転がる。この時期特有の気怠さが身体を締め付ける。動きたくない。テレビをつける。この時間帯のテレビは碌なものをやっていない。馬鹿なタレントが大騒ぎしてはしゃぎまわる何の生産性もない番組の再放送。くだらないと一蹴しテレビを消す。しん、と静まった部屋。


 平日のこの時間は大抵静かだ。娘はちょうど一休みのために昼寝をしているだろうし、娘の旦那は仕事に行っているし、孫娘は学校に行っている。孫娘はそろそろ受験らしく、去年あたりから塾に通い始めている、らしい。帰りが遅くなるのだけが心配だ。まあ、孫娘のことだ。すっと受けてすっと受かってくるだろう。「うちの孫東大なんだあ! って言いたい」と孫娘に言ったら「ごめんね」とにこやかに言われたことを思い出す。将来はどうなるのだろう。せめて成人式までは生きていたいが、向こうの方が楽しそうだなと思うことが多くなってきた。

旦那はとうにあっちに行ってしまった。親友もあっちに行ってしまった。友人もあっちに行ってしまった。親戚もあっちに行ってしまった。知り合いがどんどん向こうの世界に行ってしまう。この世界にいる知人よりも向こうの知人の方が多い気がする。


 三味線が目に付く。三味線を覆っている山吹色の布は着物を改造したものだ。さらっとした手触りは手にフィットしてさわり心地がよい。久々に弾こうかと、手を伸ばす。ちょうど娘は昼寝しているようだし、今なら誰も聴いていないだろう。布を外す。

 長年付き合っているこの子を棺に入れるのは勿体ないと思っている。この子は祖母のおさがりでもうそろそろ百年経つ年代物ではないだろうか。幼い頃祖母に手ほどきを受け、またしまいこんでいたが、何かをきっかけにしてまた弾きだした。確か大学卒業してから本格的に習い始めたような気がする。

 もし棺に入れるなら孫娘が昔弾いていたもう一つの三味線を入れてほしい。練習用に私が買い足したものだ。この子と比べればそこまでの値打ちものでもないし、孫娘が少しでも触れたものなら一緒に入ってもいいかな、と思っている。それを孫娘に言ったら「了解でーす」と軽い返事が返ってきた。実に孫らしい。

 そんなこと言わないでよ、もっと先のことでしょ、なんて言う常套句は彼女の中には存在しなかったらしい。それもそうだろうな、と思う。幼いころから経験してきた死別はおそらく人より多いだろうし、その死別体験により少し変わった死生観を持っていることは薄々気づいていた。いずれ人は死ぬ。なんら不思議なことではない。太古から生き物は生まれたら死ぬと言う当たり前のサイクルを続けてきた。それを彼女は物心ついたときから知っていた。知っていたと言うか理解していた。


「死んでも天国直行じゃん。天国っていいところっていうイメージが勝手にあるんだけどさ。もし今よりいいところだったとしたらさ、その人にとっては喜ばしいことじゃね」


 ああ、そうかと納得したものだった。だからなのか、彼女は仏式の葬式を嫌った。それ以来私も仏式の葬式に疑問を持つようになった。死んだ後の事なんぞ誰が知るわけでもない。ただこの世という舞台から退場するだけ。死に恐怖を持たなくなったのは随分前のことだったけれど、死に対する楽天的考えを持つようになったのは彼女のおかげかもしれない。



 三味線が姿を現す。長年使ってきたからか手に柄の部分が馴染んでいる。糸の張り具合を調整する。そろそろ糸を変えるべきだろうか。三本の糸を指で軽くはじく。

 とん、てん、ちん。

 響く繊細な音は上の階にも届いているだろうか。天井から聞こえてくる音は皆無なのできっと平気だ。どんなに鳴らしてもきっと聴いてはいないだろう。遠慮がちに鳴らしていた音を少し大きめに鳴らす。楽譜の入っている箱を取り出し、何を弾こうかと選び出す。

 ああ、懐かしい。

 孫に最初に弾かせた長唄が出てきた。短い曲だが、単純な音階とその独特の歌詞が好きで最初に弾かせたのであった。確か祖母に一番最初習ったのもこれだった。指慣らし程度に弾くことにする。爪と指の間で糸を押さえる。はじく度に伝わる振動が指を食い込ませる。何度ここから血を滲ませたことか。もう痛みは感じない。感じるのはその音の響きだけだった。

 暖かで優しいその音は昔を思い起こさせる。

 三味線を初めて弾いたときの楽しさ。大学に入って出会ったあの人。今思えば何でもないようなことで苦しんで。久々に触れた三味線の音。あの人との突然の別れ。初めて三味線の舞台に上った時の緊張。免許皆伝した時の喜び。旦那との出会い。慌ただしい日常。偶に喧嘩してでも仲直りして。娘が生まれて、育てて、彼女も恋をして、結婚して。孫娘が生まれて、みるみる成長していって。随分充実した人生だったと感慨深く思う。


 最後の一音をはじく。はじかれた一音は透明な空気に溶けていく。ぱちぱちと上から音が降ってきた。拍手? 賞賛のそれに嬉しさと同時に聞かれていたと言う気恥ずかしさが湧き上がってきた。


 ふと窓を見ると薄桃色の欠片が躍っていた。ひとひら。上がったり下がったりしながら、ゆらりゆらりと。川の流れにたゆたう儚さのように。穏やかな風が地上を駆け巡っているのだろう。暖かな日差しが部屋の中にまで入り込んでくる。

 上から降ってくる音はまだ続いていた。

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