第4話 夜7時の話

 そろそろ夕飯時だろうか。今夜のご飯は何だろうと想像する。隣のリビングから小気味よく聞こえる音が食欲をそそる。この時期だからおそらく冷やし中華。またきっと色とりどりの夏野菜が麺を彩るのだろう。喉を濡らすあの感覚を思い出す。つるりと入っていき、下へ下へと清涼さを落としていく。あの感覚が懐かしくて、味わいたくて。どうすることもできなくなる。

 

風鈴が涼やかな音を鳴らす。生温い風が部屋をすり抜けていく。扇風機で乗り切る時がまた到来したようだ。エアコンが昔から嫌いだった。東京に出てきて一人暮らしをしているときもあまりエアコンは使わなかった気がする。人工的な冷たさはどこも気持ち良くなかった。ただ寒さを感じるだけだった。それに比べて扇風機の涼しさは絶品だ。一生懸命羽根を回して風を起こすさまは見ていてとても可愛らしいし、優しい涼しさを感じることが出来た。


「ただいまー」


 孫娘の声だ。随分大人びた。成熟した女、とはいかないまでも、それなりに大人への階段を上っているのだろう。彼氏の一人や二人、出来てもいいのではないだろうかと思うのだが実際どうなのだろう。聴いてみたいところではある。娘があの年くらいの時はモテてモテて大変だった。きっとモテるのではないだろうか。わからないけれど。


 扉の向こうから聞こえる音は潔いくらいの大きい音を立てて階段を上がっていた。何かを置いた音。おそらく鞄を置いたのだろう。重そうな鞄をいつも持っている。中高の時からやたら鞄が重いのが気にはなっていたが、大学に入っても相変わらず鞄は重いらしい。重量感あるその音に心配と言う念が湧き上がってくる。リズムに乗った軽い音が連続して聞こえてくる。とんとんとん。軽やかに楽しげに、鳴る。いいことがあったのかな。何があったのかな。それを聴こうと思っても、もう私は彼女に直接聞くことは出来ない。


 扉の前まで軽やかな音は響いていた。すっとその音は止まる。ぱちっという音と同時に部屋に明かりがつく。襖が開かれた。大きくなった孫娘。来年成人式の孫。振袖は私が買ったもの。買った当初、服の上から羽織ってくれたが、そのあでやかさに目を奪われた。総柄のそれは孫に似合っていた。四季折々の花や蝶や文様が華やかに散らばったそれは見事なものだった。きっと今は小物も揃え終えたのだろう。娘と孫娘のことだ。拘りぬいた小物を選んできたのではないだろうか。娘の旦那のにこやかな笑顔を思い浮かべる。どれにする? と真剣に悩む二人を後ろから見守っている姿は私の瞼の裏を離れない。仲の良い家族というにはあまりにも強い結びつきがここにはあるように感じていた。

 孫娘が開いている網戸を手際よく閉める。夜になれば幾分か風は涼しくなっていた。閉まりゆく窓からのわずかな涼しさに心地よさを感じる。ミンミンと暗闇から聞こえるその悲鳴はその心地よさを拭い去っていく。喧しいその奇声が暑さを助長させているのではないかと思うほどである。

 迷わず私の前に来て椅子に座る。涼やかに華やかに長く伸びる高い金の音。彼女は目をつむり、手を合わせる。彼女が何を願っているのか、何を祈っているのか、何を言っているのか。筒抜けのその声は実に孫娘らしいものだった。

 なんとなくここに書くのは勿体ない。私の心のうちに留めておこう。秘密も悪くない。

 欲張りかねえ。

 私は声にならない声で呟く。すっとすり寄る温もりはやはり優しく答える。

 欲張ってもいいんじゃねえか。


 足の裏と床の着く音。遠ざかるその音すら愛しくて。ぱちんという音ともに電気が消える。その暗闇は私の全てをすっぽりと包みこむようだ。

 遠のく。

 そこにある。

 音。

 上から聞こえてきた様々な愛しい音たち。

 相も変わらず私はこの場で音を聴く。

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