第9章 声色の話

第1話 青い声の話

「あっつい」

「あ、つい?」

「え?」

「つい、何です?」

「いや、珈琲が熱かっただけなんだけど」

「なんだ」


 仕事仲間で後輩のゆいちゃんがくすりと笑う。


「戸山さんと按摩さんの会話って微妙に噛みあいませんよね」

「その噛み合わなさが俺たちの友情」

「仕事仲間なだけなんだけど。勘違いするなよ」

「またまた照れちゃって。よくないですよ、戸山さん」


 仕事場が和やかな笑いに包まれる。戸山は按摩の言葉に苦笑する。

 声を届ける職場について長い月日が経った。ラジオの仕事を始めようと思ったのが二十年前。バイトに入ったのは二十五年前。制作会社に入ってそれなりの経験を積んで、フリーランスに転職したのが十年前。この盲目のラジオパーソナリティに出会ったのが三、四年前。

 色のついたサングラスにハット、白シャツに紺地のジャケット、茶色のスリムなパンツでこのスタジオに入ってきたときのことを思い出す。穏やかな笑みを浮かべていた。本当に盲目なのかと疑うくらいに飄々と歩いてきたのが何より印象的だった。思わず目の前に原稿を置いてしまうくらいだった。


「じゃあ、今日の反省会しよう」


 はい、とスタッフが集まってくる。丸いテーブルにラジオディレクターの戸山、ラジオミキサーの須藤、アシスタントディレクターのゆいちゃん、ラジオパーソナリティの按摩の四人が座る。いつもなら放送作家の山崎もいるはずだが、体調不良か何だか知らないが欠席している。

 

 按摩と番組を始めて随分な月日が経ったようだ。ここまで長く続く番組だとは思わなかったし、ここまで長く続くということは固定リスナーがついたということだ。

 最初はピアサポートの一環として始めた番組だった。番組の収益の半分を視覚障がい者の団体に送るシステムになっている。今もそのシステムは変わらないが、ピアサポートの一環として紹介されるより、ラジオパーソナリティ按摩の看板番組として紹介されることが多くなってきた。そうなればこちらのものだ。あとはより面白く番組を構成していくだけだ。

 この番組はカクテルとジャズを紹介している。夜十時から三十分の生放送だ。三十分の番組で気を付けなければいけないのは時間配分である。視覚のない按摩は時計を読むことは出来ないし、時間を確認することが出来ない。最初にぶつけた質問はそれだった。その時の按摩の解答を今でも覚えている。


「俺の体内時計の正確さはそこら辺の時計よりも性能いいですよ」


 実際その通りだった。五分というと正確にそれを計測する術を持っていた。按摩曰くそれは社会復帰準備期間の一年で習得したスキルだという。本当に習得できるものなのか、それが嘘か本当かわからないが、確かにそのスキルを持っていることに間違いはなく、ラジオパーソナリティとしての資格を十分備えていた。十分というより、十二分と言った方が正確かもしれない。


「今週の『カクテルに願いを』ではキールを紹介したんだったよね。時間配分はいつもの通り文句なし」

「一年かけて磨いた俺の体内時計に感謝ですね」


 くだらねえなあと戸山はつっこむ。


「今日はあまり大きなミスはなかったかなって思ったんだけど、どうだった?」

「イヤホンの聞きづらさは解消したと思うんですけど、どうでした?」


 ゆいちゃんが不安そうに按摩を見る。

 盲目のラジオパーソナリティは原稿を読むことができない。点字が読めるわけでもない。この番組は偶にリスナーの手紙を紹介するコーナーがあるのだが、その手紙を誰かが按摩に伝える必要があった。そのために導入されたのがイヤホンだった。スタジオのマイクからイヤホンに直接指令がいくようになっている。ヘッドホンで指令を聴くと、全神経がヘッドホンに集中してしまうため自分が正確に話しているのか確認が出来ないと主張した。確かに一理ある。その指令手段であるイヤホンの調子が先週急に悪くなったらしく、ラジオの番組進行が上手くできてない気がしてはらはらすると嘆いていた。

 按摩は爽やかに笑う。


「ええ、上々でした。ありがとう、ゆいちゃん」


 按摩の穏やかな口調と飄々とした語り草は時として女性の心を虜にしてしまう。羨ましい。今もゆいちゃんの心をほんの少しぐらつかせたようだ。茶色の柔らかそうなボブの髪を一生懸命耳にかき上げている仕草は明らかに照れていることを表していた。白シャツの上に羽織っている若葉色のカーディガンが背中で揺れる。胸元の赤い実がついているブローチがまたアクセントになっていて、お洒落さんなんだなあ、と戸山はわが娘のように見てしまう。結婚もしていないというのに。

 照れを隠すようにゆいちゃんが先を促す。


「今日紹介したのはなおすけさんの手紙でしたよね」


 なおすけさんの手紙は少し風変りだった。彼が自分の名前を呼んでくれないという相談だ。どういうことなのかよくわからないが、按摩の答えが聴いてみたいばっかりにそれを紹介した。按摩は少し風刺を効かせて、相変わらずの飄々さで彼女の相談に答えていた。どんな答えをしていたか具体的には覚えていないが、ただその答えがすとんと心のどこかに落ち着いた気がしたのは覚えている。


「そうそう。いいアンサーだった」


 按摩は曖昧に笑う。按摩は直接的に褒められることがあまり得意ではないらしく、いつもこうして褒めると決まって曖昧に笑う。そう言えば、手紙を募集しようと言ったのは按摩だったな、と唐突に思い出す。もやっと何かが体の中に立ち込めるような気がしたが珈琲で誤魔化す。熱い塊がそのもやっとしたものを焦がしていく。

 須藤が眼鏡をかけなおしながら按摩を心配そうに見る。この寡黙なラジオミキサーは、腕はいいが、何故ラジオミキサーになったかいまいち不明だ。読者モデルだとか、街を歩く度にスナップを撮られるだとか、スカウトされるだとか、様々なうわさが飛び交っている。そのくらいハイセンスだし、容姿も端麗である。今かけている眼鏡だって最近はやりの黒縁伊達眼鏡だろう。黒髪を後ろに撫でつけていて様になるんだから、感心するしかない。


「按摩さんは何ですか、恋に対してなんかすごくシビアですよね」

「彼女になんかされたんですかー」


 戸山が軽い調子で聴く。


「元カノに年賀状で子ども生まれたって書かれたくらいで他には」

「お、おう……」

「声が青くなってますよ、戸山さん。引いてるでしょ」


 按摩は声を色で表現する。恋をしているとピンク色、怒っていると赤、悲しいと水色。青の場合はドン引きしているときに使用するらしい。他にも色々あったような気がするがよく覚えていない。

 珈琲を飲んで誤魔化す。どうせ見えていないんだから誤魔化す仕草だってわかりゃしない。極力音をたてないように珈琲を飲む。


「誤魔化すのよくないですよ、戸山さん」


 むせた。


「戸山さん戸山さんって俺のこと大好きだな」

「大好きです、戸山さん」

「やべえ、十も下の男に告白された。女の子だったら歓迎だったのに」

「セクハラ発言だ」

「なんでもかんでもセクハラって言うのよくない風潮だと思う」


 マグカップに口をつける。按摩も誤魔化し始めたらしい。戸山はもっぱら珈琲派だったが按摩は紅茶派らしく、この反省会ではどうしても紅茶と珈琲の匂いが混在してしまう。

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