第5章 自転車とバイクの話
第1話 春の話
私はバイク。
随分前からここにいる。何年ぐらい動いていないことか。動くことが出来なくなった最初のうちは歳月を数えていた。近頃はそれさえ面倒くさくなっている。歳月を数えてみたところで何が変わるというわけでもない。
ふうとため息をつき、私は私自身の身体を見る。ライトの部分は割れ、体中に擦り傷がある。
私の主人は一体どこへ行ったのか。いや、わかっているのだが、未だに私は現実を否定している。その証拠になんてことない拍子にあの感覚を思い出す。
衝撃。圧迫。緊張。混乱。
私はどうすればよかったのか。
私はここにいていいのか。
これからどうしていけばいいのか。
虚無感、無力感、無能感、存在意義の錯綜。
私の脳内はそんな陳腐でどうしようもない言葉で埋め尽くされる。
「にゃあん」
おう。また来たか。
彼の登場で私の思考からどうしようもない言葉たちが散っていく。私の長年の友人、黒猫。年配の猫らしく動きがゆったりしている。こんな春の陽だまりにそのゆったりした動きを見ると眠気に襲われる。彼は軽くジャンプし、私の上に寝そべった。艶やかな毛並みが私をくすぐる。黄色い蠱惑的な瞳が一文字になりつつある。
「日向ぼっこ日和ですねえ」
私は声をかける。この声はおそらく彼には届いていない。
彼とは種族が違う。彼は生物。私は無生物。無生物とはひどい扱いだと毎回思う。私は確かに固くて息をしているわけではない。酷い排気ガスを吹かし、疾走するだけの機械であった。今はそんなことすらできないただのオブジェに成り下がっている。それはともかく、機械であるという自覚はある。しかしもしなんらかの想いを抱えているのが生物だと位置付けたのなら、私だって立派な生物だ。
様々な想いを抱え私はここに止まり続けている。
言葉は通じなくても彼もなんらかの想いを抱えているのだろう。だからここ数年毎日のように私の上に乗りに来ているのだろう。
彼は私をその眠そうな目で暫し見つめ、かったるそうに「にゃあ」と鳴いた。「日向ぼっこ? そうだね」とか「そうかなあ」といったような曖昧な返事をしたに違いない。
風が揺れる。鳥が躍る。葉が蠢く。アパートの横のあの大きな木は確か銀杏といったか。秋になるとこの木の葉は黄色く色づく。今は緑色に生い茂っている。ここからだと錆びた鉄製の階段が邪魔して全体像を見ることは出来ない。この階段邪魔だなあと毎日思っている気がする。しかし時として階段はなかなか乙なものを運んでくる。
階段を下りる音がした。おぼつかない足取りとそれを気遣うような足取り。鉄製の階段はその足取りを音で表す。かんかんかんというその音は私の胸を躍らせる。
「気を付けるのよ」
「うん」
ショートカットの彼女。ジーンズにタートルネック、その上に赤いちゃんちゃんこという実に楽そうな格好をしている。彼女によく似た少女。可愛らしいピンクのワンピースを着こなしている。最初に会った時は彼女の腕の中ですやすや寝ていた赤ん坊だった。今ではもう歩くことに慣れ、走ることを覚えた腕白盛りの少女だ。さらさらの髪をおろし、ふわりと笑う。将来はモデルになるなと勝手に思っている。彼女らは毎日同じ時間に私のもとを訪れる。
「おはよう」
彼女が私を優しく撫でる。少女も彼女を真似て私に触る。小さな掌が私のひどい傷を癒してくれるようだった。
「おはよう。今日もいい天気ね」
今度は私の友人に声をかけたようだ。彼はその声に反応するように「にゃあ」と鳴いた。ごろごろという鳴き声もさせている。きっと優しく撫でられているのだろう。
「今年も満開よ、桜」
へえ、と私は頷く。毎日のように通ったあの道を思い出す。
風が舞うたびに揺れ動く淡いピンクはあまりにも潔すぎて、美しすぎた。私が道を通れば淡いピンクたちは道路の隅からさわさわと動いたし、上から降りる日の光はそれらをこれでもかとばかりに輝かせていた。
私の主人は淡いピンクより爽やかな緑を好んだようだが、彼女は淡いピンクの方が好みのようだ。
「君はあそこを通ったことある?」
にゃあと友人は鳴く。あるのだろうなと勝手に推測する。
「ママぁ」
少女は彼女の足をぺしぺし叩く。彼女は屈んで少女に目線を合わせた。彼女の顔が私のライトに近付く。
「なあに?」
「さくら」
「うん」
「みたい」
彼女は少女の柔らかい毛をくしゃくしゃと掻き回した。彼女の細い指に少女の絹糸のように柔らかそうな髪が絡む。きゃあと少女ははしゃぐ。
「じゃあお弁当持って見に行こうか」
大きく頷く少女の目は余りにまっすぐできらきらしていて、眩しすぎる。朝日が私のライトにあたる。眩しすぎて私からは何も見えない。
今年もきっと桜を見ることは出来ないだろう。私は過去の桜の色を思い出す。あのピンクが風の中で踊り終えたら、次の出番は緑である。主人が好んだ爽やかな緑。
そうしてまた新しい季節がやってくる。
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