第2話 夏の話

 私はバイク。

 新しい出会いというのは春ばかりではない。

 彼女は突然やってきた。どうやらこの春移り住んできた女子大学生の新たな相棒らしい。

 彼女は私の右隣で赤く輝いていた。ピカピカに磨かれたフレームから世間知らずで世間慣れしていないことが窺えた。毎朝決まった時間に彼女は女子大生を乗せて走り出す。軽快な走りは何に対しても全力で事をする新人を思わせた。

 私もあんな時代があったなと思い出す。初めてあの並木道を通った時の記憶がまだ残っている。確かこんな夏の日で、主人は私に乗りながら大声を出していた。吹き付ける風を全力で、全身で感じていた。私はそんな主人を誇らしく思った。そうだ。あの時、彼が私の主人であることを認識したのだった。赤いフレームの彼女はいつあの女子大生を主人とみなすのだろう。もうみなしているのだろうか。


 幾日も経っているというのに私たちは会話の一つもしなかった。ちらりと彼女は私を見る。私も視線に気づいて彼女を見る。そうすると彼女は視線を逸らす。その繰り返しだった。微妙な空気感。話したいけれども、何と声をかければいいか迷うその一瞬が、躊躇という心の変化を生んでいた。

 

 その日は突然やってきた。

 ぎらぎらと照りつける太陽がアスファルトを焦がす。序に私の黒いボディも焦がす。熱を吸収しやすい材質で作られ、熱を最も吸収する色で塗られている私にとって、夏は灼熱地獄そのものだ。所謂生物諸君は発汗したり水を飲んだりすることで熱を下げることもできようが、世間一般でいう私たち無生物にそんな芸当ができるわけがない。私は照りつける太陽を恨んだ。序にその熱を吸収し続ける私の身体も恨んだ。

 熱が籠る。熱いという感覚は最早ない。ぼうっと私はアスファルトを見つめる。熱風がタイヤの間をすり抜けていく。どこかで風鈴がちりんと鳴った。あの彼女と彼女によく似た少女の家からだといいなと頭の片隅で思う。


「初め……まして」


 か細い声。右の方から聞こえた気がする。空耳か。熱は私の思考能力をそぎ落とす。


「初め、まして」


 二度目。今度ははっきりした声だ。聞きなれない声。右を向くと自転車が私をじっと見ていた。


「あ、初めまして」


 熱に浮かされた私は無気力な返事をしてしまった。今までの躊躇という現象は熱という問題の前に消え去っていた。


「あのなんて呼べば……」


 彼女の声は少し震えていた。緊張のせいか、はたまた不機嫌な大人に絡んでしまったことへの後悔のせいか。ちらりと彼女を見る。どうやら緊張している。後者が原因ではなさそうだ。

 遠くのアスファルトを見る。水が張っているように見える現象を確か逃げ水といったよな、とどうでもいいことを考える。追いかけても追いかけても辿り着くことのできない、水。幻の水を見ながら私は声を絞り出す。


「ヤマハとでも」

「ヤマハ先輩」


 そういえば初めて己の名前を呼ばれた。しかも先輩という接尾語付きで。感動的な場面ともいえるこの瞬間を私は何の感慨もなく「うん」と曖昧な返事で終わらせてしまった。実感が湧かなかったのだろうし、何しろ熱が私の思考を鈍らせていた。


「あたしのことはあさひと」

「あさひさん……ね」

「はい」


 赤いフレームが太陽に反射しきらりと輝く。汚れひとつないサドル、張りつめたタイヤ、細めのハンドル。あさひと名乗る自転車は実に涼やかにそこにいた。


 あの並木道は相変わらず熱風が吹きすさび、ぎらつく光を容赦なくアスファルトに叩きつけているのだろうか。追いかけても辿り着くことのない逃げ水を追いかけて、バイクや、車、自転車たちは走り続けているのだろうか。きっとこのあさひさんならあの並木道を通っているからわかるだろう。ひとまず、この熱がどこかに消えたら聞いてみることにしよう。そう思いながら、私は溶けそうなほどの熱さに身を任せた。

 そうしてまた新しい季節がやってくる。

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