第3話 秋の話
私はバイク。
少し肌寒くなってきた。アパートの横の銀杏も黄色く色づき、葉を落としている。私のタイヤ周りはいつも落ち葉が広がっていた。
あの夏の日以来あさひさんは私になつっこく話しかけてきた。彼女の主人である女子大学生の話、いつも通っている道で気になる物の話、彼女自身の話。
「ヤマハ先輩、いつもの道を通っていると、なんかオレンジや茶色や黄色いものが上から降ってくるんです」
日が暮れる少し前。彼女はいつもその時間帯に帰ってきた。
「紅葉のことかな」
橙、茶色、黄色。朝日にあたる色たちは役目を終えたと言わんばかりに散り続けていた。懐かしい、光景。もうそんな季節がやってきたか。
「コウヨウ?」
あさひさんは外の世界に触れ始めたのが今年の夏だからか、知らないことが多すぎる。風を「何もないのにあたしを押す何か」と形容した時は流石に驚きを隠せなかった。生まれた頃からずっと店の中にいたから、と彼女は恥ずかしそうに言っていた。
私はアパートの木を見ながら簡単な説明をする。
「この時期になるといつも木から葉が落ちるんですよ。橙や茶、黄。偶に赤とかもあるんですけれど。あそこの街路樹に赤はないかな」
「ふうん」
赤を見たのはいつだったろうか。確か主人が彼女と同棲し始めた頃だった。主人が彼女を後ろに乗せて走らせたときだったと記憶している。燃え盛るような赤とはよく言ったものだ。山が燃えていた。紅く朱く赤く燃えていた。彼女が歓声を上げる。主人はその歓声を嬉しそうに聴きながら、私のエンジンを少し落としていた。主人はそういう人だった。彼女の楽しみを優先するような、彼女の笑顔を見る、それだけのために行動するような、そんな人だった。
風が吹き付ける。黄色く色づいた銀杏の葉がタイヤに纏わりつく。
「にゃあん」
久方ぶりの登場だ。艶やかな黒毛、蠱惑的な黄色い瞳。ゆったりとした動き。春以来の再会だ。
「やあ、久しぶりです」
「にゃあ」
「久しぶり」とでも言っているのだろうか。長年の知人の相も変わらずな素振りにほっとする。
「あの……」
あさひさんが困惑した様子で私を見る。そういえば初対面だったか。黒猫はあさひさんに構わず、軽くジャンプし私の上で寝そべり始めた。
「長年の友人、黒猫」
「よろしくお願いします」と彼女は言うが、黒猫にその声が届いているかどうかは不確かだった。心地よい暖かさから、彼の眠気が伝わる。まったりとした午後は嫌いではない。
ぴくりと彼が動く。誰かがやってきたようだ。彼の反応からして招かれざる客らしい。ああ、と納得する。肩くらいまである髪をひっつめ、丸眼鏡をかけた女性。年齢は五十代頃か。私を一瞥し、タイヤ周りに溜った銀杏の葉を見ると露骨に嫌そうな顔をした。今年も言われるのか。毎年の恒例行事のような気さえしてくる。女性は鉄製の階段を勢いよく上っていった。
しばらくしてドアを叩く音がする。どうか違う話でありますように。私は祈る。
階段から誰かが下りてくる。彼女だ。彼女の前を歩いているのは先ほどの女性だ。何か言い合っているように聞こえる。黒猫は不穏な空気を察したのか私から降りて、すっとどこかへ消えてしまった。女性と彼女が私の前に来る。女性は私を指さす。ああ、またか。
「ほら、見てごらんなさい。邪魔なのよ、このバイク。掃除する時大変なんだから」
「私が掃除しますから」
「アパートの管理は私の仕事。掃除するのも私の仕事。あなた、私の仕事を取ろうっていうの?」
理不尽というか、言いがかりも甚だしい。私はげんなりする。
「さっさと捨てちゃいなさいよ、こんな壊れたバイク。走りもしないのにここに置いておかれても迷惑なのよ。ああ、捨てられないっていうなら私が捨ててあげるわ」
そうなりますよね、と私は思う。擦り傷だらけのこの体はオブジェにするにも無理があった。いつまでもここにいるわけにはいくまい。薄々気づいていた。毎年言われるこの言葉に私はいつも再認識させられていた。かろうじて立っている体、割れたライト、へこんだフレーム。私は私を見つめ直す。そろそろ潮時か。あさひさんが私を心配そうに見ているのが分かった。
女性が私に手をかける。その手が何かによって弾き返された。パチンという音がこだまする。え、と私は彼女を見上げる。
「何するの」
女性の声。ヒステリックな声。きんきんしたこの声は私の心を掻き乱した。おそらく彼女が女性の手をひっぱたいたか何かしたのだろうことは予測がついた。確かに彼女に非があるのだろうが、それにしたってこのむしゃくしゃ感はなんだ。「すみません」と彼女の凛とした声が響く。
「では引っ越します」
引っ越す? 突然の宣言に私は動揺を隠せなかった。風が落ち葉を動かす。何枚もの銀杏の葉が私のタイヤの間をすり抜けていく。
「引っ越す?」
女性もいきなりの宣言に驚きを隠せていなかった。彼女はまっすぐ女性を見ていた。
「ええ。旦那の形見を毎年のように捨てる捨てると言われればそりゃ引っ越しますとなるでしょう」
「旦那の形見」
「毎日この子に乗って会社に行っていたんです。捨てることなんてできるわけないじゃないですか」
彼女は一息つく。
「ここの掃除が大変だと仰るなら掃除します。引っ越せというなら引っ越します。ですから捨てることだけはどうか。どうか」
彼女は頭を下げる。どうして彼女は私のために頭を下げるのか。いや、違う。私の主人のために頭を下げている。主人を守ることが出来なかったこんな私に主人の面影を見ているのかもしれない。
女性は仕方ないと言ったように彼女を見下ろしていた。
「ここの掃除頼むわ」
彼女が顔を上げる。ありがとうございます、ありがとうございますと連呼しながら、また頭を下げていた。女性が去っていく。それでも構わず彼女は頭を下げ続けていた。
「ヤマハ先輩なんか大変ですね」
あさひさんが私に声をかける。私はため息をつきつつ答えた。
「前から言われていたことなんだ」
動かない機械はただのお荷物でしかない。あのトラックが言っていた言葉を思い出す。お荷物の私はここにいていいのだろうか。偶によぎるこの想いは確かに私の心を縛り付け苦しめていた。
「私は、ほら、この通り動けないでしょう?」
あさひさんが私を見る。ぴかぴかに磨かれたフレームは私とは対照的だった。
「邪魔なんですよ。掃除するにも動かせませんしね、重すぎて」
言霊は存在するのかもしれない。邪魔、という言葉が私の思考を支配する。邪魔者、お荷物。またあの感覚を思い出す。
衝撃。圧迫。緊張。混乱。
ああ、あの時の感覚。思い出したくない、封印したい、できればなかったことにしたい、忌まわしい記憶。
虚無感、無力感、無能感、存在意義の錯綜。
「あたしはヤマハ先輩にはここにいてほしいです」
夕日があさひさんのフレームに当たる。あさひさんの言葉に私は不覚にも詰まった。きらりと輝く赤いフレームに愛しさを重ねた。
「あさひさん」
名前を呼ぶその声さえひっくり返った。存在を認められることとはこんなにも気持ちを高ぶらせるものなのか。
「もしヤマハ先輩がいなくなったらそこに移動するに決まってるじゃないですか。ヤマハ先輩の場所は嫌ですから。なんか寒そう」
期待した私が馬鹿だったよ。先ほどの気持ちの高ぶりを返してくれ。そう思いながらも気持ちが軽くなっている自分がいた。
彼女が私のタイヤ周りを箒で掃除し始めた。徐々に黄色が私から遠ざかっていく。少しずつなくなっていく銀杏は一か所に集められビニール袋の中に入れられていく。
比較的強い風が吹く。銀杏が舞い降りる。瞬く間に黄色い絨毯を作り出す。
そこにひらりと紅い葉が落ちてきた。もみじ。何処かにもみじを植えているとこがあるのかもしれない。黄色の中に交じった紅は色鮮やかに私の横をすり抜けていった。夕日が黄色い絨毯に深い陰影を落とし込む。銀杏の木のシルエットだけがこの場所から見えていた。
そうしてまた新しい季節がやってくる。
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