第4話 冬の話
私はバイク。
つい先日まで着物に身を包んだ人がここらへんを往来していたが、最近は見なくなってきた。着物と言えば、男性二人、おそらく兄弟だと思うのだが、その二人が着物に身を包んでいたのは新鮮だった。男着物はなかなか見かけるものではない。彼女と彼女によく似た少女が彼らに声をかけた気持ちもわかる。
今日は朝から雪が降っていた。黒いボディに白い雪が積もっている。あたりもうっすら白くなってきた。
「なんか降ってきましたよ」
あさひさんが声をかけてきた。そうか、雪に触れたことなかったな。
「雪ですね」
私は答える。
「ユキ?」
「ええ、雪」
ふうん、とあさひさんは納得したのかしてないのか、微妙な反応を返した。ちらりとあさひさんが私を見る。彼女の視線の先は私のライトだった。そろそろ話さなければならない時期が来たか。
「あの、ヤマハ先輩」
「はい?」
私は素知らぬふりをして聴く。
「前から気になっていたんですけれど」
「はい」
「その傷は痛まないんですか」
くすりと笑う。あさひさんは何故か知らないが慌てたように言葉を付け加え始めた。
「いや、ほら、寒いから。ぱりんとかいかないのかなって。そ、それに熱くなる季節もあるじゃないですか。その時もまたなんか、でろんとかならないのかなって」
擬態語の意味がよくわからないが、大方傷が疼くことはないのかと聴いているのだろう。
「もう三年以上前になります」
私の視界は白から緑へと変わる。
◇
あの街路樹は確か緑に覆いしげっていた。私の主人は何があったかわからないが嬉しそうに私に乗り、疾走していた。灰色のスーツを着て、黒いスニーカーを履いて、登山用のリュックを背負って、ヘルメットを被って。いつもの通勤スタイルで。おそらくだが、彼女の妊娠が分かったのではないだろうか。主人の浮かれようったら、その走りで分かった。いつもより少しスピードが出ていたような気もする。
そうだ。確か道路の真ん中に猫がいた。
微動もせず、あの猫は道路のど真ん中で座っていた。艶やかな黒い毛、蠱惑的な黄色い瞳。長年の友人、黒猫にそっくりな猫。だが、その猫のお腹は膨れていた。このスピードでは確認できないはずなのに、何故かその腹に命が宿っていることは一発で分かった。主人も同じことを思ったのか、スピードががくんと落ちた。
猫は避けない。
そこに、ただ、いた。
私は近付く。エンジンが唸る。ブレーキが少しかかる。主人は私を右に傾けた。猫の横を走り抜ける。主人は右に傾けたままそのまま疾走した。
なかなか体勢を整えない。いや、違う。一瞬の判断が遅れたのだ。お腹の膨れた猫を主人はもしかしたら彼女に重ね合わせていたのかもしれない。
目の前にトラックが近付いていた。
「避けろ! ブレーキをかけろ!」
トラックの悲鳴が聞こえた。迫りくるトラックに対する恐怖は一切なかった。あったのは焦りだった。
「私は私の意思で動いているわけではない。そんなこと、お前だってわかっているだろう!」
トラックにそう叫んだ。
そう、一瞬の出来事だった。
主人が前を向いた時には、私はすでにトラックにぶつかっていた。
衝撃。圧迫。緊張。混乱。
私は主人を守れない。
先ほどまで私をあれほどかわいがってくれていた主人は横に投げ出され、私は倒れていた。先ほど起こった出来事を反復していた。
私はどうすればよかったのか。
私はここにいていいのか。
これからどうしていけばいいのか。
「おい」
トラックが声をかけてくる。私は倒れこんだままトラックを見た。その巨体に恐れ戦く余裕すら私にはなかった。
「お前ひどい怪我だぞ。もう動かねえんじゃねえのか」
薄々そんな気もしていたが、やはりか。前の部分はひどくひしゃげ、ライトは割れ、ボディは傷だらけ。エンジンが傷つかず、炎上しなかっただけ救いだ。私は力なく頷く。トラックはぶっきらぼうに言った。
「動かねえ機械はただのお荷物でしかねえ。覚悟決めたほうがいいぜ」
覚悟。ああ、そうか、覚悟か。主人を見る。主人は倒れたまま動かない。トラックの運転手が必死に応急処置をしているが、きっともう駄目なのだろう。赤い液体がアスファルトに染みつきどす黒く変化する。
もう私に乗る人もいない。そもそも私はもう走れない。覚悟を決めるしか、私にできることはない。しかし覚悟を決めることすら、できなかった。
あの時の想いを抱え込み、トラックに言われた言葉を心に突き刺したまま、自分を誤魔化し、ここに存在し続けた。春を夏を秋を冬を何度か経験し、私は無為に過ごした。何をするわけでもなく、私はここにいた。
◇
「そうだったんですか……」
ため息をつくようにあさひさんが言う。何か言うべき言葉を探しているように見えた。
「今はもうこの傷は痛みません。心配してくれてありがとう」
私の返事にあさひさんは曖昧な表情を浮かべる。この曖昧さはあさひさんの優しさだ。言葉を見つけられず、それに付属される感情すら見つけられない、その不器用さが私を癒してくれている。
有難かった。あさひさんという存在が。いや、今まで出会ってきたすべての存在が今の私を形作ったのだと思うと感謝以外の何物でもなかった。
無為に過ごしていた割に様々な大きな出会いがあったかもしれない。いや、あったのだ。何故今まで気づかなかったのか。気付けなかったのかもしれない。
主人の彼女と彼女によく似た少女。毎朝私に会いに来てくれる。彼女は赤いちゃんちゃんこを着て、少女は可愛らしい服を着こなして、優しく挨拶してくれる。
長年の知人、黒猫。何をするわけでもない。ただ私の上で寝ているだけだが、その温もりは確かに私を救っていた。
相変わらずかけるべき言葉が見つからない様子の自転車、あさひさん。今年の夏に初めて会った時はどうなるかと思ったが、今ではこうして突っ込んだ会話も出来るほどの仲になった。
なんだ、無為ではないではないか。
「春になるとこれと似たような光景が街路樹で見れますよ」
急に話題を変えたことであさひさんの反応は少し遅れた。
「ユキを、ですか」
ちらちらと、しんしんと降る雪は止むことを知らない。あさひさんの赤いフレームや、傷一つないサドルの上に雪。粉砂糖のように降りかかっていた。
「いいえ。桜です」
淡く、儚く、優しく、潔く、美しく、咲き、散り、舞う、桜。
「サクラ?」
「淡いピンクが舞いますよ」
青い空を覆い尽くす淡いピンク。
風が舞うたびに揺れ動く淡いピンクはあまりにも潔すぎて、美しすぎた。私が道を通れば淡いピンクたちは道路の隅からさわさわと動いたし、上から降りる日の光はそれらをこれでもかとばかりに輝かせていた。
もう通ることのない道。
もう見ることのない淡いピンクたち。
「淡いピンク」
春になりあの道を通ったあさひさんは私に聴いてくるだろう。
淡いピンクが空を隠すんです。あれは何ですか?
興味津々で私を見てくるあさひさんを想像する。
「楽しみです」
にこりとあさひさんが笑った気がした。自転車が笑うなんてな。
裸になった銀杏の木に舞い降りる白は寒さを助長させていた。風が吹き付ける。舞い踊る白は、さながら桜のようにも見えた。春の陽だまりが恋しい。擦り傷に白が触る。優しく、撫でるように。傷を癒すように。
私はどうすればよかったのか。
私はここにいていいのか。
これからどうしていけばいいのか。
まあ、今はとりあえず春を待つことにしよう。
また新しい出会いがあるかもしれない。
春だけに。
「また新しい季節がやって来ますよ」
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