第3話 バーテンダーと客と猫の話


「でもそれ何杯目?」

「んー、地球上にいる子どもたちの人数分くらいっすかね」

「地球上にいる子どもたちの人数分くらいの疲労感が溜っているんだね」

「単純計算してもそうなりますよね」


 いつの間にかキッチンを拭き終えたマスターは白い布巾を綺麗に畳みながら二人を見た。


「お忙しいようで」


 穏やかな口調。柔らかい声。マスターは確かにこのバーのマスターであるには違いないが、不釣り合いな気がした。深い緑色の瓶も、黒ずんだ紅の美しい液体も、ベージュ色の温かい液体も、カウンターに照らされる黄色い照明さえも、マスターには合わない。


「ええ、まあね。でもマスターの方が大変でしょ。このバー年中無休じゃないっすか?」


 唯一合うとしたらカウンターの後ろに飾られている一輪の椿。凛と咲く姿が背筋のいいマスターの姿とだぶるような気がした。


「こちらに来てから疲れ知らずでございますから。ほかにやることもございませんし」


 そしてお馴染みの穏やかな微笑を見せる。漆黒の衣服が波打つ。


「でしょうね」

「マスターが作るカクテル美味しいし。マスターが来てくれてよかったっすよ」


 ふああ、とまたあくびをする。


「あれ、もしかして君飲んだことないのかね? ここのワイン」

「そう言えば飲んだことないっす」

「実にうまいんだよ」

「それはあなたの奇跡によるワインではなく?」


 この三人、何かがおかしい。俺には関係ないが。


「違うよ。バーで仕事はしたくないね」

「そりゃ確かに」


 唐突に静寂が降り立つ。無音のバーに響くのは喉を潤す音、液体が揺れる音、グラスがカウンターに降り立つ音。

 あくびが頻繁に出る。抑えようとも思わない。


「そういや、あの人来てないですね」


 若い男が思い出したようにマスターに声をかける。初老の男が何のことだとでも言うように若い男を見た。


「親方様のことでございますか?」


 マスターは相変わらずその相貌を崩さず答える。

「そうそう」

「今宵は奥方様と妹様とお過ごしになるとか」

「へえ」


 若い男が楽しそうに言う。


「あの人過激で面白いから結構好きなんだよね」


 グラスを手に持ち飲み干す。


「なんだっけ、この前舞ってくれたんですよ。なんて踊りだったかな」


 手振り身振りをする。首をひねりながら、思い出そうとしながら、若い男は悩む。初老の男は今更ながら納得したように、何でしたっけなどと便乗して悩んでいる。

 俺には酔っぱらいのくだらない絡みに見える。


「敦盛でございますか」


 マスターは二人の扱いに慣れてるかのようにさらりと答えた。明らかにその場を最も楽しんでいるのはマスターだ。


「そう、それ」


 二人の珍妙な動きは滑稽そのものに映ったに違いない。俺には理解できないが。ああ、そういえば、と今度は初老の男が思い出したように言う。


「あの人は相変わらず来ないんすか? ほら、えーっと」


 猿じゃなくて、とまた悩み始める。マスターの眉が寄る。


「太閤殿下でございますか」


 先ほどから一寸も崩さなかった相貌が一瞬だけ崩れた。長い袖を無意識のうちにいじっている。


「そうそう」


 初老の男が指をさし頷く。若い男が肘をカウンターに付き、手の上に顎を乗せ、怠惰そうに言う。


「日本人の名前って難しいね」

「名前というか肩書でございます」


眉を下げ、困ったようにマスターは返答する。


「なんとのう気まずう思うておられるのでしょう。私は別段構いはしませんが」


 マスターの顔に微笑は消えない。寂しくても辛くても苦しくても、マスターはこうやって微笑んで来たのだろう。


「人間って面倒ですねえ」


 そういう若い男も微笑んでいた。


「あなたは人間だったでしょ」


 初老の男はグラスを空にする。微笑を浮かべ、彼は彼らを見つめる。

 三人の微笑の裏に隠れている感情は俺には理解しがたい。ただその微笑は俺の心を揺らし、彼らの手元にあるグラスの中のそれを揺らす。


「君もね」


 なんてことないかのように若い男は呟く。その言葉は空中に分散し、消え去る。若い男は空になったグラスを照明に照らしながら、その輝きを楽しんでいた。初老の男はその呟きに答えず名残惜しそうにグラスを眺めている。お馴染みの微笑を口元に、目元に浮かべながら、マスターは若い男の持つグラスのきらめきを見つめていた。

 三人が三人とも何かに思いを馳せていた。

 心地よい無音空間は思考の流れを止めようとしない。寧ろ促し、流れさせ、迸らせる。俺はその流れに身を任せる。春のピンク、夏の緑、秋の黄や茶、橙、冬の白。思い出が脳を駆け巡り、感情が血管を通り、色彩が瞼に映る。


 寂寥感。孤独感。


 心地よい無音空間はいつしかそういったもので覆われていた。

 俺は気づく。そしてあくびをする。

 その感覚を飲み込むように。

 体の底に、腹の中に、押しこめるように。


「マスター。いつものを」


 初老の男が口を開く。空のグラスを差し出す。


「はい」


 何もかもわかっているかのようにマスターは頷く。


「マスター、私も」


 若い男も初老の男と同じように言う。


「はい」


 にこりと、マスターはまた頷く。


「マスターもなんかお飲みくださいよ」

「では同じものを」


 カウンターキッチンを覗き込むと黒い器が三つ置かれた。漆黒に光る円筒の入れ物から慣れたように渋い緑色の粉末を入れる。重そうな鉄瓶からお湯が注がれる。湯気が舞い上がり、周りに熱を伝えていく。見たことのない道具が出される。それは一見箒のように見えるが、箒というにはあまりに小さく、用途も違うようだ。どうやら粉末を溶かし、湯に万遍なく混ぜるためのものらしい。マスターとそれは指を通し一体化する。しゃっしゃっと軽快な音がバーに響く。

 二人の前に器が出された。マスターの前にも同じ器がある。


「この子にも何かあげてやって」

「ミルクでも温めましょう」


 俺は顔を上げてマスターを見る。器が目の前に置かれる。黒く鈍く光るその器の中に純白の液体が波打っていた。甘い香りが俺の心を躍らせる。

 カウンターの二人は俺の様子を見て柔らかい微笑みを見せた。


「では」


 若い男が手元の器を持つ。両手で丁寧に持つ仕草はその器を愛でているかのようだ。初老の男も器を持つ。マスターもそれに倣う。


「メリークリスマス、サンタ」

「メリークリスマス、マスター利休」

「メリークリスマス、アンド、ハッピーバースデイ、イエス」

「にゃあ」


 三人は器をそろりそろりと二回ほど回しぐっと傾けた。ふと外を見るとここにはないはずの白いものが舞っているように思えた。

 三人が一息つく。俺はぴちゃりと純白のそれを舐める。

 


とろりと

ほろりと

甘くも

苦い

夜。


月は

今宵も

優しい。



「あったかい」

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