第2話 バーテンダーと客の話

 グラスを両手にマスターが初老の男に言う。どうやらカウンター越しにある扉の外を見て言ったらしい。初老の男が後ろを振り返って扉の外を確認する。曇りガラスのためぼんやりとしか見えないが、赤い光がちかちかと光っていた。

 あんな明かりあっただろうかと俺は首を傾げる。

あちゃーと、初老の男が声に出す。眉を下げ、手元のグラスを意味なく回す。たぷりと中の液体がその回転に影響され回る。


「そろそろそんな時間かい」


 若い男が心配そうに初老の男を見た。迎えが来るとはいいご身分だ。初老の男が首を振る。


「今日は遅くなるって言ってきたんすけどね」


 弄んでいたグラスに口をつけ、少しばかり飲む。


「ちょっと行ってきます」

「ああ」


 カウンターや壁を伝いながらよろよろとふらついた足取りで扉に向かった。ちゃりんと、扉についた鈴が鳴る。若い男は心配そうに扉を見つめる。


「ようこの時期にいらっしゃいますな」


 マスターが声をかける。心地よい声が空気を振動する。グラスをしまう棚はカウンターキッチンの下に隠れているらしい。いつの間にか両手に持っていたはずのグラスがなくなっていた。

 若い男は頭の飾りを少し抑えながらマスターを見る。


「お互い、仕事が終わるのがいつもこの時期でして」


 グラスに残った液体をぐいっと飲み干す。マスターはどこからか深い緑色をした瓶を出してきてグラスに液体を注ぐ。黒ずんだ紅が照明に反射して光る。その光が俺の目を細めさせる。


「ありがとうございます」

「お口に合えばよろしゅうございますが」


 若い男はグラスを鼻に近づけその液体の香りを楽しんでいた。照明に当て色を見る。そして先ほどと同じように口の中でその美しい不気味な液体を転がした。満足そうにマスターを見ると、マスターも嬉しそうに若い男を見返している。

俺はカウンターに顎をつけ相変わらず二人を観察し続ける。

 ちゃりんと扉についた鈴が鳴る。扉を見ると先ほどの赤い光はもう点いていなかった。初老の男が寒さのせいか酔いのせいかわからないが、赤い顔をますます赤くして帰ってきた。カウンターに手をかけマスターに言う。


「燃料足しといてくれますか。あいつらそろそろ燃料不足とか言っていたんで」

「承知致しました」


 マスターはそういうとしゃがみ込んでしまった。冷蔵庫もカウンターキッチンの下にあるらしい。初老の男はその様子を見て安心したように己の椅子に座り直した。ベージュの液体はまだ温かそうだ。初老の男の手の中で温もりが増していくように見える。


「迎えは大丈夫なのかい」


 若い男が尚も心配そうに聞く。初老の男は手をひらひらさせ、大丈夫、大丈夫と繰り返した。そう、と若い男は納得したような、してないような、曖昧な表情をする。

 その様子を俺は横目で見る。

 初老の男は饒舌に話し始める。


「あのね、僕は仕事が終わってもう解放感で一杯なんすよ。その仕事の疲れをですよ、このカクテルに託して飲み干すという作業中なんです。きついなあというこの気持ちを押し込むための作業なんすよ」


 わかります? と初老の男は聞く。大きくない目は眠気のせいか、酔いのせいか、ますます小さくなっている。左手の人差し指が指している方向を見れば、そこにあるのは一面の黒い壁だった。

 なあんだ、と俺は手の上に顎を乗せる。

 マスターが青い葉をカウンターキッチンに出してくる。


「私の仕事もなかなかにきついがね」


 若い男がグラスの中の液体を見ながら言う。初老の男は若い男のその言葉に半ばあきれながら言い返した。


「僕に比べればまだ楽じゃないっすか」


 その言葉に若い男は頷くでもなく何をするわけでもなくただ液体を見つめる。黙りこくった時間は意外に長く、その間二人は己のグラスを弄んだり口をつけたり思い思いにしていた。

 ふああとあくびが出る。

 カウンターの下に目を向けると綺麗にオレンジや緑の野菜が白い皿に盛り付けられているのが見えた。色鮮やかな野菜が俺の食欲をそそる。マスターはその皿を持ってバーを出た。

 バーには俺と二人しかいない。


「まあ、ここに来る前頑張っていましたからね」


 沈黙を破ったのは初老の男の方だった。若い男は小さく笑う。

 ああ、ところで、と若い男は声をかける。


「君に引退の二文字はないのかね?」


 扉の鈴がちゃりんと鳴った。マスターが静かな足取りで入ってくる。


「あったら苦労しませんよ」


 初老の男はベージュの液体を舐める。


「こどもは?」

「奥さんいません」

「あー……」


 マスターがカウンターの中に入ってくる。カウンターキッチンを片付け始める。またどこからか白い布巾を取り出し、台を拭きはじめる。


「誰か紹介してださいよ」


 初老の男がそういうと若い男は笑いながら答えた。


「それ私に言うか?」

「まあ、無理っすよね」

「わかってるじゃないか」


 同じタイミングでグラスを傾ける。カウンターの奥の椿が揺れる。


「ところで今年で何歳になるのかね?」

「さあ。想像してみてください」

「まあ、お互いに知らないよな」


 ええ、と初老の男は頷く。少し酔いが醒めてきたようだ。眼鏡のズレを直す。豊かな白いひげを初老の男は撫でた。


「私へのプレゼントはないわけだな?」


 すこし残念そうに若い男は尋ねた。眩いばかりの白い服の裾が揺れる。


「あなたの名前はリストに載ってませんからね」


 もう大人でしょ、と初老の男は言う。それでも納得いかないように若い男は口を曲げた。少しウェーブがかった長いこげ茶色の髪が流れる。頭の上の飾りは相変わらず痛そうだ。


「くれてもいいじゃなか。私の誕生日なんだし。世間的には」


 グラスの中の液体を飲みながら初老の男は尋ねる。


「実際はいつ誕生日なんです?」

「生まれた日が誕生日」

「そりゃそうでしょ」


 若い男は悪戯っぽい笑顔で初老の男を見る。


「プレゼント貰った日が誕生日」

「まだくれって言うんっすか」


 初老の男がグラスを傾ける。ははっと若い男は軽く笑った。

 そういえば俺も俺自身の誕生日を知らないなと思う。いつの間にかあのアパートにいて、黒いバイクの上で寝ていて、たまに俺の頭を撫でる女性がいて、ちびっ子がいて。それがつい先日までの俺の日常だった。誕生日なんて関係なかった。

 誕生日。

 祝われた記憶はない。祝うという概念もない。

 ふとマスターを見ると寂しそうに二人を見ていた。マスターには誕生日と呼べるものがあるのだろうか。


「冬の空は寒いんだろうね」


 若い男が口を開く。グラスの中がそろそろ空く。


「さっきから言ってるじゃないっすか」

「でも星綺麗だろう」


 唐突に若い男は言う。頭の上に乗っている飾りを触りながら、グラスを回しながら。若い男も少しばかり酔っているのかもしれない。

星。夜に瞬くあれ、のことか。


「ついでに月もきれいっすよ」


 月。夜を照らすあれ、のことだろう。


「ついでとかいうと私の父親が泣くよ」


 若い男が愉快そうに言う。初老の男は口元を緩ませて若い男を見る。


「すみませんって言っておいてください」


 悪戯っぽい目に愛嬌がある。万人に親しまれるような面立ちはよく考えてみればこのカウンターには不似合いな気がした。


「なんか聞いた話だと君、あまり飲めないらしいじゃない。いいのかい? そんなに飲んじゃって」


 一方若い男は俺が出会ってきた人間の中でも飛びぬけた何か得体のしれない畏怖感を周りに与えていた。この畏怖感もこのカウンターには似合わない気がする。


「いいんすよ。今日くらい飲ませてくださいよ」


 二人の会話は続く。マスターの手は忙しなく動く。俺の観察は続く。


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