第4章 カウンターの話
第1話 猫とバーテンダーの話
寒い。
いや、特段寒いわけではなかったがなんとなく首を縮める。なんとなく歩を進める。どこに行く当てがあるわけでもない。軽快な足取りで気の赴くまま歩く。目的地のない旅が昔から好きだった。
向こうにいた頃もよく旅をした。大抵あのアパートの黒いバイクが俺の寝床だった。そこから、天気のいい日は川の土手に向かったり、桜並木に走りこんだりした。近所の桜並木は俺のお気に入りの散歩スポットだった。春にはピンクが空を覆い、夏には緑が風に揺れ、秋には黄や茶、橙が地に降り、冬には白が何の前触れもなく上から落ちてきた。あの光景はもう懐かしい思い出だ。
役割を終えたから、俺はここに来たのだ。
まっすぐ伸びる道には何の目印もない。地面ばかりを見ても、前を向いて歩いても、いずれにせよ同じ光景が広がっていた。その変わり映えのなさはある種の焦燥感をふつふつと湧き上がらせる。そろそろ一休みしようかと足を止める。
ふう、とため息をついた。息が切れたわけでも、疲れたわけでもない。
ふと顔を上げると向こうの方にぽつんと一つ電燈が立っていた。黄色く光る電燈が照らしていたのは一軒の店。三角屋根の白い建物。「BAR」と書かれた木製の看板が目に付いた。
雰囲気ある建物は俺の未熟な好奇心を刺激した。
軽快な足取りでその建物に向かう。
建物の前に来ると、白い壁は漆喰で塗り固められたものだとわかる。木で縁取られた曇りガラスの扉はかなり大きく、とても押すことはできなさそうだ。扉の前で右往左往する。
ちゃりん、と何かが鳴り扉が開く。中から人のよさそうな男性が出てきた。男性が身に着けている黒い服の裾が地面に付きそうなのが気になる。男性は穏やかな笑顔を俺に向けた。
「ようおいでなさいました」
俺は頭を下げ、中に入る。
床はピカピカに磨かれ、茶色く光っていた。前に進むと、四本の木の棒が垂直に立っていた。棒の上に木製の丸い盆が乗っていた。
そこを目がけて飛ぶ。
とん、と軽い音。
まず目に飛び込んできたのは、照明にぼんやりと照らされるカウンターの木目の美しさだった。その美しさに引き込まれるように俺はカウンターの上に乗る。
カウンターの後ろに飾られているあの紅いのは、確か椿と言った気がする。あそこにいた頃、あのアパートの女性が教えてくれた。ピンクのひらひらが桜。真っ赤に染まり潔く落ちるのが椿。きれいでしょ、と教えてくれた女性の微笑はひどく寂しく見えた。
印象的な紅は俺の思い出を邂逅する。
一筋の光に照らされ凛と咲く椿は真っ赤に染まっていた。カウンターの後ろの壁は黒い。それが余計に椿の紅を際立たせていた。
カウンターには初老の男と若い男が肩を寄せて座っていた。上司と部下という関係でもなさそうだ。友人かと言えば違う気がする。独特の雰囲気の漂う二人は何か親密そうに話していた。
先ほど扉を開けてくれたのはこのバーのマスターらしい。慣れた様子でカウンターに入り、几帳面にグラスを白い布巾で拭きはじめた。
改めて見渡してみると店内は意外に狭く、もはやカウンターしかないといっても過言ではないほどだ。カウンターには三脚の高い椅子しか置かれておらず、実に質素かつ品あるしつらえだった。
なんとなくカウンターに座っている異色な二人の会話が気になり耳をそばだてる。同時に二人の男は俺を見た。俺は興味なさげにマスターの方を見る。
「ここ最近寒さ増してません?」
すこし掠れた穏やかな声が空気を振動した。その呟きに若い男は目を向ける。若い男の手元にあるグラスの中で黒ずんだ紅い液体が揺れた。
「そうかもねえ」
「いや、そうですって。なんか無駄に寒いっすよ」
初老の男が言う。見た目とは裏腹の若い言葉遣いは若干の違和感を周りに与える。初老の男は少し酔いが回っているのか呂律があまり回っていなかった。
「ほう」
若い男は頷く。
「寒すぎますって」
「でも飲んでるんだから上着くらい脱いだら?」
「これ仕事着なんで。脱いだらラクダ色のシャツがお目見えしちゃうんで」
「あまりいらない情報だよね、それ」
「ラクダ色でしょ、時代は」
「私はそのまま着ちゃうからな」
「脱いだら裸っすか」
縦長の円筒状のグラスに入っているベージュの液体を飲み干す。とろみのついた液体が一体何なのか、俺にはわからない。
「裸でしょ、時代は」
若い男もグラスに口をつける。喉仏が小さく動く。ひげに付いた液体を拭いながら、初老の男はグラスをマスターに差し出した。
「マスター、ブランデー・エッグ・ノッグのホットをもう一杯」
カウンターの向こうからすっと同じ色の液体が入ったグラスが出てくる。今度は少なめの量だ。マスターが穏やかな微笑を向ける。
「できておりますよ」
「早いっすね」
初老の男はグラスを受け取り、暫しグラスの中の液体を眺めた。慈しむような眼差しはまるでわが子を見つめる父親のようだ。
「いい色っす」
「有難う存じます」
初老の男はマスターが出したグラスを手で弄んでいた。飲むと酔いがますます回ることをわかっているかのように、グラスに口をつけようとはしない。若い男はグラスに口をつける。その液体を口の中で楽しんでいるようだった。マスターがグラスを拭き終える。
「お客様、お迎えではございませんか」
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