第3話 手紙の話

 目を開けると目の前に広がるのは白い壁、白い扉、白い床、白い天井。全てを異常なほどの白で囲まれた部屋。眩しいほどの白は小さな窓から差す光を反射させ少年の目を晦ませる。四季を感じさせない、外気から隔絶された空間は少年の心を萎えさせた。

 少年はベッドに座っていた。そのベッドすら異常なほどの清潔感を持った白。このベッドには机がついている。その机すら白い。

 白い空間をぼうっと見つめながら、少年は今まで自分が寝ていたことに気付く。よく寝ていたらしい。机に突っ伏して寝ていたせいか、少し腰が痛かった。

ベッドの横には白い備え付けの高い棚が置いてあった。その棚には少年の好きな戯曲や、文房具、衣類が入っている。その棚の一角にこれまた白い箱が二つ、いつも置いてある。少年が使っている箱は蓋にナナカマドの絵が描かれている。この絵は少年自身が描いた物だった。もう一方は何も描かれていない。少年はその箱に何が入っているのか知らない。少年にとってその白いばっかりの箱はパンドラの箱のそれだった。

 棚に置いてあるナナカマドの絵が施されている箱を見る。少年の箱の中は彼女からの手紙でいっぱいだった。今では彼女の手紙だけが外の世界の全てだった。去年彼女の手紙に同封されていたナナカマドの実はもうすっかり枯れてしまっていつの間にかどこかにいってしまっていた。少年にとってはその実はどうでもよかった。彼女が自分の身体の中にいることが確認できることが何より重要だった。彼女はまだいる。自分をこの退屈な空間から解放してくれる。そう思っていた。だから、少年は彼女に手紙を書いた。


愛しい、愛しい、美由紀へ。


 ベッドから棚を再度見る。棚に置いてあるはずのもう一つの箱を目で探す。少年は異変に気付いた。見当たらない。あの箱が。


 耳に鼓動が鳴り響く。


 ふと手元を見ると、いつの間にかペンを握っていた。腰に何かが当たると思って手で探ってみる。この腰の痛みはこれのせいか。固く、四角い。見てみると真っ白な箱。いつも棚に置いてある、白い箱。


 まさか。


 蓋がずれ、中身が出ている。白い封筒。美由紀へと見慣れた筆跡で書かれている。


 美由紀。美由紀か。やはり、この箱は美由紀のか。


 ベッドの上の不審物。絶対にベッドの上にはあってはならないもの。彼女の箱。パンドラの箱。


 頭から警告音が鳴り響く。


 白い机に見慣れないものが置いてあった。だが、懐かしいものだった。母がよくつけていた紅い玉かんざし。そして見慣れない紅い葉。細く美しい曲線を描いた葉が乗っている。一体誰が乗せたというのか。一瞬わからなかった。だが、心当たりはあった。そしてそれは俄かに信じがたかった。いや、信じたくなかった。彼女がこうも不用心に去るとは思えなかった。もし、彼女だとしても、こんな去り方は今までなかった。


 手が震える。肩が震える。足が震える。体が震える。

 机の上に乗っているのは紅いかんざし、紅い葉だけではなかった。手紙が、置いてあった。ペンを置き、手紙を読む。最後の行まで丁寧に丁寧に、読む。何度も往復する。何度も何度も、確認するように、理解するように。そして、自分の脳がようやっと理解する。


 この体にぽっかり空いた穴。まるで穴の開いた障子紙のようだ。

 風を体の中に感じる。彼女が感じていた外の風をいま、少年はひどく感じていた。

 冬の寒さを、春の温もりを、夏の暑さを、そして、秋の爽やかさを。

 目をつぶると彼女がくれた真っ赤なナナカマドの実が現れた。そこにあるかのように、少年をどこかに導くように点々とある。

 これに沿って歩いていけばいいのだ。どこに行くかはわからないが、わからないからこそ面白い。これこそ、少年にふさわしい―――

「暇つぶしだ」

 がちゃりと扉が開く。この精神病棟の医師だ。生真面目そうな眼鏡の奥の目が少年をとらえる。

「ああ、起きていたのかい。ナナカ――」

「美由紀です」

 少年はにっこり笑った。穏やかに。美しく。儚く。潔く。まるで花火のように。

 



 



拝啓 美由紀へ

 もうこの手紙は美由紀に読んでもらえないんだね。なんだか不思議だよ。

僕、退院できたよ。ああ、あとね、この前判決が下りてね、無罪だって。精神薄弱のためとか判断能力の欠如とか言ってたかな。やっぱり美由紀は僕を救ってくれた。ありがとう。

 あの手紙、読んだよ。心配してくれてありがとう。でも、大丈夫。僕のことは心配しないで。そして愛してくれてありがとう。不器用な愛だったね。お互いに愛していたのに。まったく、滑稽だ。喜劇だね、喜劇。僕たちは道化に過ぎなかったんだね。笑えるよ、まったく。

 今手元に母さんの遺した紅いかんざしと美由紀が遺したナナカマドの葉っぱがある。大事にするよ。そして、僕は美由紀として生きる。そのほうが面白いと思うんだ。暇つぶしにはもってこいの道化た人生を僕は送ってやるよ。それが、僕なりの罪滅ぼし。僕が暇つぶしに美由紀を演じることで、僕は僕から解放される。そのかわり、美由紀の全てを抱え込む。怒りも恨みも苦痛も絶望も悔恨も歓喜も希望も快楽も、何もかも。どうだい? これで満足かい?

 今、僕は久しぶりに外にいます。秋だね。銀杏があんなに色づいて。風がこんなに爽やかで。空があんなに高くて透き通ってて。近所の川辺に行くとよく赤とんぼが飛んでいるんだ。そうそう、すすき畑があるんだ。光にあたるとキラキラして綺麗なんだよ。それで風が通り抜けると、まるで黄金のカーテンがはためいているように見えるんだ。美由紀はこんな景色見てたのかな。

 僕はナナカマド。七回火にくべられても赤いまま燃えることはない。紅いままの実は地獄への道しるべ。僕をこの退屈な場所から救済してくれる明かり。紅く色づく葉は地獄への手土産。閻魔をも快楽へと誘い導く甘露。僕は僕なりの生き方でこの美しい下卑た世界を渡っていくことにするよ。ああ、絶望だ。でも、絶望こそこの道化の僕にふさわしい。すべてに絶望してこそ、この世界は美しく見える。そして下卑て見えるんだ。

 美由紀の分も美由紀として生きてやる。最期まで僕の暇つぶしに付き合ってね。

 美由紀、今までありがとう。さよなら。

2024年秋 ナナカマドより

敬具

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