第2話 女子大生と白い人の話

 期末試験はどうにか無事に終えられた、らしい。白い解答欄を真っ黒にしてみせたからおそらく単位はくれるだろう、と信じたい。


「あけみん、どうだったあ?」


 ほら来た。お決まりの質問。彼女の化粧で彩られた顔を見ながら私はお決まりの文句を返す。


「やばいよー」


 「やばい」という三文字は私の中で大変重宝されている言葉の一つだ。まずい状況もよい状況もすべてこの言葉一つに収めることが出来る。


「そんなこと言って、あけみんのことだからできたでしょ」


 あけみんのことだから、という台詞が気に食わないが、とりあえず呆れた顔を作る。ここで重要なのは半笑いだ。冗談っぽく、軽くその場を乗り切るために必要な表情を瞬時に形成する。


「何言ってんの、もう」


 女は女優だ。

 唐突だが、「あけみん」と呼ばれることにまだ慣れない。高校時代まで、私の仇名は苗字から来たものだった。「いっちゃん」とか、「いー」とか、一部からは「直弼」と呼ばれていた。私のアイデンティティーは苗字にあったと言っても過言ではない。それが大学に入ってから、下の名前で呼ばれることが多くなった。というか、苗字で呼ばれることがほぼなくなった。

 最初に「あけみん」と呼ばれた時をいまだに覚えている。がらがらと何かが崩れる音がした。そして私はその感情を悟られないように「あけみん」を演じた。


 そう言えば「女は女優」という言葉を教えてくれたのは誰だっただろうか。周りの友人たちの会話に交じりながら、ぼやけたその人物像を晴らそうとするが、やはり失敗した。とりあえず私は「あけみん」を演じるために小道具の一つであるスマートフォンを取り出す。

 



 だだっ広い食堂。規則正しく並ぶ木製の机、椅子。大きい窓から差しこむ光。微妙に開いている窓から流れ込む風。その風に揺れる少し長めの黒髪。白いシャツ。白いズボン。何かの象徴のような胸元の赤い実と赤い葉。題名の書かれていない白表紙の本。栞代わりの赤い玉かんざし。

 友人たちを先に行かせ、私は彼に近寄る。


「おはよう」


 整った顔が私を振り返る。にこりと彼は笑う。いや、彼と言うか、何と言うか。


「おはよう」

「試験は?」

「途中退出してきたの」

「流石美由紀だね」


 曖昧に彼は微笑む。

 彼は自分のことを美由紀と呼ばせる。所謂性同一性障害というやつなのか、わかりはしないが、おそらくそういうことなのだろうと勝手に納得している。

 彼と話すようになったのは二、三週間前からだっただろうか。英語の授業で英会話の練習のために席替えをして隣になったのがきっかけだった。彼はまるで聖域のような人だった。話しかけるのさえ畏れ多いと言うか、そんな空気が漂っていた。それ故に彼の周りには人がいなかった。清潔感漂う白い服装はあまりに眩しすぎた。

 いつしか私は彼の神秘的な空気に魅せられていたのかもしれない。彼を見つければふらふらと近付き、畏れ多いという感情を押しのけて、無意味に話しかけていた。今日も、だから、炎に近づく蛾のように、彼にふらふらと近づいてしまう。


「明日から実家だっけ?」

「あ、うん。そう」


 玉かんざしを開いているページに挟み、本を閉じる。美由紀はふっと口を緩めた。閉じた本を机の上に置く。題名が書かれていないと思ったらそれは白いブックカバーで包まれていたらしい。


「お土産楽しみにしてるわ」

「福岡だからなあ、明太子でもいい?」

「生ものじゃないの」

「宅急便で送ればいいんだよ」

「私の住所知らないでしょ」

「ああ、そうだった」


 ちらりと私は彼を見る。住所を聴こうかと一瞬悩むが、何かが私をその質問から遠ざけた。


「じゃあ」


 美由紀は少し目を伏せた。何を考えているのかわからない。何を求めているのかわからない。それでも、何か楽しんでいるようには見えた。


「あなたのルーツがほしい」

「ルーツ?」


 その発言は私をひどく動揺させた。しかし同時に突き上げる高揚感があった。何を期待しているのか。何を私は彼に求めているのか。内から湧き上がり迸る感情にますます動揺した。

 美由紀はすっと席を立ち、にっこりとその綺麗な顔を歪めた。


「気付いてない? 最近口ずさんでるのよ」

「口ずさむ?」

「私の知らない曲。おそらく誰も知らない曲」

「知らない曲?」


 ふふっと美由紀はますます顔を歪めた。


「赤いな、赤いな、さるすべり」


 粟立った。

 穏やかな抑揚。静かな口調。優しい声。ああ、あの曲だ。ここ最近よく見る、夢。あの夢に出てくる、あの曲。

 いつの間に私は口ずさんでいたのか。彼の前だけなのか。いや、もしかしたら。


「知りたいわ、その曲。あなたのルーツだと思うの」

「何でそう思うの?」


 声が震える。

 彼は私という人物を見抜いていた。考えてみたら彼は私を何と呼んでいる? 私は彼から名前を呼ばれたことがない。もしかしたら彼は、本音の私と言う存在を実に正確に見抜いていたのかもしれない。あえて私の名前を軽々しく呼ばなかったのは本音の私を引き出すためだったのか。

 本音の私。それこそ、大学にいる「あけみん」のルーツ。

 何故、知りたいのか。また妙な高揚感が私を支配した。落ち着け、自分。

 彼はふわりと笑った。


「楽しみにしてるよ、お土産」


 彼は机に置かれた本を手に取り、そこに笑顔を残して私の目の前から去った。ぎゅっとバッグの持ち手を握り締める。まるでそこにいなかったかのように、彼は、消えた。風がすり抜ける。ああ、そういえば窓が開いてたんだったな、と私は脈略もなく考えていた。

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