第3話 母と娘の話①

 暑い。暑いという言葉では生温いくらいの暑さがこの家自体を支配していた。もあもあと煙が立つくらいの暑さ。リビングのフローリングの上で無駄に転がる。全身でフローリングの冷たさを感じる。


「いっちゃん、邪魔」


 母の声が上から降ってくる。


「あー」

「あーじゃなか。はいはい、どきんしゃい」


 ごろごろとその場を移動する。


「そこ私の行く先」

「あー」


 またごろごろと移動する。

 なぜか母は私をいっちゃんと呼ぶ。高校時代までの友人たちの呼び方が影響したのだと思う。「君もいっちゃんじゃなかね」と突っ込んだことがあったが、「あんたのお父さんと結婚する前まではいっちゃんじゃなかったとよ」とわけのわからない返答をされた。

 そういえば親からも下の名前で呼ばれた記憶がない。いっちゃんの方がしっくりくるから構わない。というより、そちらの方がよい。


「なんか帰ってきてからごろごろしてるいっちゃんしか見てなか」

「普段ごろごろしてなかよ? 健全な女子大生しとる」


 そう言ってまたごろごろする。ごつっと頭に何かがぶつかる。どうやら机の脚だったらしい。盛大にぶつけたみたいで、痛みが頭を支配する。「いって…」と頭を抱え込んでいたら「やーい」と嬉しそうな声がキッチンのほうから飛んできた。


「ごろごろするならこげな狭かリビングじゃのうておばあちゃんの部屋でしんしゃい」


 むくりと起き上がり、リビングを見渡す。食卓用の机の脚が視界を阻んだ。どっこいしょと立ち上がり、椅子に座る。母がキッチンでお茶の準備をしている。時計を確認する。圧迫感のないようにと選んだ時計は背後の白い壁に溶け込んでしまっていて探すのに一苦労する。針は三時を指していた。もうそんな時間かとぼんやり思う。カレンダーを確認するともう実家に帰ってきて一週間過ぎていたことに気付いた。もうそんなに経ったかとまたぼんやり思う。

 地方出身大学生の実家で過ごす夏休みほど暢気なものはない。これと言って教科の課題が出るわけでもない。バイトを詰め込めば忙しくなるのだろうが、地元で短期のバイトをするほどのモチベーションを持ち合わせていない。実家にいる時くらいゆっくりしていいよね、という甘えが存在することを肯定せざるを得ない。その甘えにずるずると引きずられ、時間は過ぎ去っていく。


「あれ、私明後日帰るっちゃねえ」


 カレンダーを見て愕然とする。「今更」と母が笑いながら言う。

 そうだった。向こうのバイトの関係で今年は十日間しか実家にいられないんだった。この一週間を思い出す。地元の友人にも会えたし、墓参りもしたし、親戚からお小遣い貰えたし、家でごろごろできたし、やらねばならないことはほぼ達成できたのではないだろうか。あとはお土産選定だ。明日行けばいいか。


「はい、麦茶」

「ありがとう」


 からんと、氷のぶつかる涼しげな音がリビングを木霊する。グラスに無数の水滴がつく。一筋、涙のように滴がグラスを伝う。


「そげんごろごろしててよう一人暮らしできるっちゃねえ。怠けもん」

「怠けもんなのは実家だけ」

「ほんとかいな」

「信用しんしゃい。君の娘じゃなかね」

「実際実家では怠けもんなんやろ。やっぱり怠けもんじゃなかね」

「まあそりゃね」


 冷凍庫からすっとかき氷を出してくる。近くのコンビニで買ってきたらしい。礼を言って受け取る。ブルーハワイ。


「私の趣味ようわかっとうね」

「胎内からの付き合いやからね」


そう言って母は自分用のかき氷を出してきた。


「いちごやな」

「私の趣味ようわかっとうね」

「何せ胎内からの付き合いやからね」


 スプーンを二本出してくる。一本を母に渡す。蓋を取り、かちこちに固まった表面をスプーンで刺す。砕かれた氷をスプーンでしゃくる。それを掬って口に持っていくとしゃりっという音が漏れる。その音が鳴った瞬間、それはすうっと溶ける。溶けて残るのは爽やかな冷たさと強烈な色。冷たさは喉を通り抜け、体中を駆け巡る。何度も冷たさが体を駆け巡るとその冷たさは頭を強く刺激する。この刺激は夏の暑さに対する緩和剤だ。


「で、大学ではうまくやっとうと?」

「うん、みんなかわいかよ」

「かわいか?」

「ひらひらしてて、きらきらしとう」

「いっちゃん、ようやっとるな」


 へへっと曖昧に笑う。標準語を喋って、可愛い女子たちの輪に入ってはしゃいでいる私を見たら母は何というだろうか。雑誌に載っているような服を着て、その場の流れで動く「あけみん」という人物は母の知っている「いっちゃん」とはだいぶ離れている気がする。


「で、ご近所さんとはうまくやっとうと?」

「いきなり話題変えるねえ」

「慣れとうやろう」

「まあね」


 どぎつい青に彩られた氷が銀のスプーンの上で徐々に溶け出す。溶けきる前に口に運ぶ。しゃりっという歯ごたえが口に水分を与え、喉を潤す。


「隣の奥さんめっちゃ可愛いんよ」

「この前会うたけん、知っとうと」


 そう言えばゴールデンウィークに突撃訪問してきたんだった。明日からゴールデンウィーク、遊び放題だ! と意気揚揚に大学から帰ってきたら母が洗濯物を畳んでいて、思わず扉を閉めたことを思い出した。


「娘ちゃん何歳になったと?」

「今年で四歳……?」

「可愛い盛りやねえ」

「あれ、絶対旦那さんいけめんやったろうね」


 隣に住んでいる奥さんのご主人は不慮の事故で亡くなったと聴いていた。その時既にお腹の中にあの可愛い娘さんがいたらしい。アパートの下に止まっている傷だらけの黒いバイクはご主人の愛用の品だったそうだ。未だに捨てられないの、と愛しそうにそのバイクを撫でる奥さんの横顔は、女の私でも見惚れるほどだった。


「まだバイク置いてあると?」

「うん」

「そこまで愛されて……旦那さんも男冥利に尽きるとねえ」

「でもね、最近娘ちゃんと若い男の人が遊んどるのよう見かけるよ」

「ほお! 詳しく聞かしんしゃい」


 話しながら、そう言えばこの一週間こんなに母と話したの今回が初めてだと気が付いた。くだらないこんな会話すら楽しいと感じるのはやはり気心が知れているからなのか、「あけみん」を演じていないからなのか。


「なんか休みの日にアパートの前でけんけんぱとかやっとうとよ」

「けんけんぱってお母さんの時代の遊びじゃなかね」

「もうね、和む」

「動画撮ってきて」

「やだ」

「けち」

「知っとる」

「いけめん?」

「いけめん」

「ほお!」

「お兄さんもいるみたいなんやけど、お兄さんもいけめん」

「兄弟そろっていけめんね」

「でもお兄さん目が見えないらしくって」

「でもいけめんね」


 いけめんにこだわるあたり流石我が母である。母の瞳の輝きが一層増していく。


「その人いくつね?」

「二十代中盤くらいかな」

「あれ、奥さんって」

「三十過ぎたってこの前言っとった」

「年下の男?」

「おそらく」


 うひょひょと剽軽に二人で笑う。女性にとって恋バナと呼ばれるものは何歳になっても楽しい話題なのかもしれない。そろそろ底の白いプラスチックの部分が見えてきた。透明の青い液体が爽やかな夏を演出していた。

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