第6章 さるすべりの話
第1話 女子大学生の話
三味線の音が鳴り続けている。窓から零れる日差しが背中をあたためる。畳の繊維が足の甲に食い込む。痛くはない。ふと窓から差しこむ柔らかい光の在り処が気になる。目でその光を追う。庭に植わっている濃いピンクの花がちらりちらり舞い輝く。遠くから、いや、近くからだろうか。誰かの声が音となって耳の中に滑り込む。
赤いな、赤いな、さるすべり
いつもこの木は笑います
お指でこちょこちょくすぐると
ちりちりちん、ちりちりちん、ちりちりちんちんちん
根から枝から笑います
ちりちりちん、ちりちりちん、ちりちりちんちんちん
懐かしい、切ない、愛しい、空間。穏やかで、静かで、優しい声。
私は唄っている誰かの名前を呼ぼうとする。その声をずっと聴いていたくて、もう一回唄ってよ、とねだろうとする。
そこで途切れる。そこで目を覚ます。夢と現実のはざまは私を妙に混乱させる。誰だっけ。誰が唄っていたんだっけ。
私は不愉快な音を鳴らし続ける目覚まし時計を止める。
◇
赤い自転車に跨り走り出す。きらりと光るフレームが眩しすぎて顔を背けずにはいられない。
さわさわと風が通り、夏のぎらつく太陽が道路に影を落とした。これでもかとばかりに濃い陰影を落とし込むので、くっきりと私の影を見ることが出来る。私は私の影を追いかける。
くるくると回るタイヤが滑らかに動く。額からじわりと汗が滲み出る。暑さが足元から伝わり、風がその熱を奪い去って私の後方に流れていく。拭い去られたはずの熱さがまた足元から這い上がってくる。その無限ループが夏の始まりを感じさせた。
大学に入ってもう一年以上経過する。赤い自転車での通学も慣れてきて、今では足の筋肉痛に悩むこともない。ひらりと水色のブラウスが風になびく。
大学の駐輪所は正門の前にある。ずらりと並んだ自転車の隙間を通る。いつもと同じ場所。銀の少し錆びたフレームの隣。スタンドを下し、止める。前の籠に無造作に入れたバッグを引っ掴み、私は走り出した。
前期最終日、つまりこれから期末試験と言うことで、食堂にいる学生たちは手元の資料と睨めっこしながら、友人と騒ぎながら、思い思いにその場にいた。女性陣の無意味な奇声が耳をつんざく。
「あ、あけみん、おはよう!」
聴きなれた声。大抵行動を共にする女子大生たち。ひらひらのスカートをはいて、眩しいくらいに肌を出す彼女らの周りは華やかだった。目の周りを縁取った黒い線やほんのり赤い頬は彼女らを女子大学生として演出させるには十分なアイテムだった。少女漫画のコマの背景に描かれる花が脳内で描き出される。そのコマの中に私も含まれているのかと思うとげんなりしてしまった。
「おはよう」
笑顔で挨拶を返す。とりあえずその場に荷物を置き、本日行うはずの試験の資料を見る。
「ねえ、勉強した? よくわかんないよねえ」
「何言ってるんだって感じだよねえ」
似たような会話があちらこちらで行われていると思うと、とんだ茶番だなと毒づく己がいる。そんな些細なことで騒ぐことが出来るなんて可愛いじゃないか、と宥めすかす己も同時に存在した。二律背反の感情の処理が上手くいかなくて、私は資料を覗き込む。
とりあえず、今日の試験が終われば夏休みだ。そうすれば懐かしい実家に帰ることもできる。母の手料理をご褒美に兎に角今は頑張ろう。よくわからない叱咤激励を己に飛ばし、私は先ほどの茶番に付き合うことにした。
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