最終章 名曲の話

第1話 お祝いの話

 夢を見た。

 壁もない、床もない、窓もない、扉もない、奇妙な空間。

 眩しすぎるほどの白に包まれた空間。

 そこで私と彼が黒猫と戯れている。

 艶やかな黒毛に、蠱惑的な黄色い瞳。

 お腹が異常に大きい。

 大きなお腹を抱えたまま俊敏な動きをする。

 そのたび彼は歓声を上げる。

 私はただその様子を見て微笑む。

 ただそれだけ。




 水滴が何かにぶつかっている。ぴしゃぴしゃと細かい音がする。薄らと目を開けると、リビングの電気が煌々と光っていた。窓はぴっちり閉められていて、外の様子が一切わからない。時計を見る。木製のそれは規則正しく針を動かしていた。もう夜が更けていたという事実に遅ればせながら気づく。ふと手に視線をやると、寝ていた跡が赤くくっきり線になってついていた。リビングのソファで長い時間寝ていたらしい。


「起きた?」


 キッチンから聴き慣れた声がした。そちらを見ると、夫が手を洗っているのが見えた。まだ洗い残りの皿が重なっている。私はうん、と頷いて立ち上がる。


「そのまま! そのままで! 主賓はそのままで」


 夫が押しとどめるように手をこちらに向ける。あ、そう? と、すとんとソファに座る。手持無沙汰でテレビでもつけようかと思うが、どうせ目が疲れてしまうことはわかっているから、夫の動きを観察していた。

 ぎこちない手つきで皿を洗っている。スポンジに着いた泡がまくりきれていない袖につきそうだ。とりあえずスポンジ作業を終わらせてから水で流そうという魂胆らしい。その袖のまくり方じゃ絶対濡れるなあと思いながらも私はただ見ていた。


「疲れた?」


 夫が話しかけてくる。ううん、と首を横に振る。



 

 今宵は楽しい宴だった。

 本日ようやく還暦を迎えることが出来た。盛大に祝おうと年下である夫が言ってくれた。還暦がどういった意味かも知らないで、と毒づくと彼はにこやかに「めでたい!」と言ってきた。それだけ年を食ったということで、女はいつまでも若くありたいと思うのよ、と丁寧に説明しても「めでたい!」の一点ばりだった。

 還暦祝いの企画は私の娘と夫の兄にまで派生した。娘は一人暮らしを始めていたというのに、その話が出てきた途端、実家に入り浸った。盲目の義兄はお世話になった人、お世話した人、とりあえずたくさん人を呼ぼうと言ってきた。料理もお酒もふんだんに用意して飾りつけもして、とその企画は徐々に大きくなっていった。そこまでは流石に、と私が辞退しようとすると義兄が無言の圧力をかけてくるものだから一溜りもない。


「お義兄さんだって還暦じゃないですか」


 そう言ったが最後。絶対的に逆らえないような穏やかな声で一言。


「だから?」


 ラジオのパーソナリティとして一線で活躍してきただけある。説得力ある声に私や私の家族は一瞬にして負けてしまうのである。悔しい。


 今日は朝から大忙しだった、らしい。私は義兄と共に外に追い出されて準備段階にある家の中には入れさせてもらえなかった。

 準備が終わったと知らせを受けて家の中に入ると、招待していた人たちが家の中でひしめき合っていた。歓声が上がって、なんだか照れくさくなった。


「お義兄さんもお祝いされてるみたいですね」


 その歓声に義兄も照れているのか、色のついたサングラスを少し指で動かして咳払いをした。

 それからはただ楽しいだけの時間が過ぎて行った。かつて住んでいたぼろアパートの仲間とママトークをしたり、その仲間の旦那さんに謎の本を貰ったり、義兄の職場の人が即興でラジオ番組を作ったり、夫のお手製のカクテルを飲んだり、娘が私との交換日記を半ばやけっぱちに音読したりと、明るい出来事が次々と波のように押し寄せていた。今そこに溢れかえっていた話題の波を整理することすらままならない。

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