第3話 弟と按摩と俺の話
「さいでしたか」
按摩はまた肩を揉みだした。そして愛おしむようにさする。
「あの男は、どうなっているか知りません。警察にはもう報告はしないでくれと言ったんです」
「さいですか」
「辛かったんです。思い出したくもなかった。弟に俺の口からこの出来事を話したのは随分あとのことでした。話すと、目の傷がうずいて痛む気がして。いやだったんです」
「さいですか」
按摩は優しく相槌を打つだけ。俺の告白はまだ続く。
「前は彼を恨んでました。視覚を奪われ、職を失い、人間関係も壊れました。毎日ベッドの上で過ごし、たまに外に出たとしてもサングラスをつけて出てました。この深い傷を隠すために。俺には見えないひどい傷を隠すために。何もかも彼のせいだと思って、恨んで恨んで」
「さいですか」
「でも、もう今は恨み疲れまして。今の生活にもだいぶ慣れてきましたし、弟もいますしね。今はただ、更生してほしいの一点です」
「さいでしたか」
少し間があった。按摩は相変わらず肩をさすっている。徐々に温もりを増す。温もりは心のしこりを溶かしていく。この温もりがなかったらきっとこの出来事を弟以外に打ち明けることはできなかった。そんなことは意味がないと思っていた。でも、本当は誰かに聞いてほしかったのかもしれない。すべてを受け止めてくれる誰かに。もちろん弟も受け止めてくれたが、他の誰かに話したかったのかもしれない。
「はい、できやしたよ」
肩を回す。驚くほど軽かった。
「ありがとうございます」
「いえいえ。これがあたしの仕事でございやすから」
襖の開く音がした。軽快な足取り。弟だ。
「兄さん、ビール買って……ってどなた?」
不審そうな声を出す。
「按摩さんなんだって。按摩さん、これが弟の」
「康孝です」
弟がはきはきと答える。
「康孝さん。いい名前でございやすね」
ビニール袋の擦れた音が近付く。中から缶が小突く音もしている。ビニールが置かれる。くしゃという音、こんという音。俺の隣に弟が右隣に座ったらしい。体温を感じる。
「この人もしかして」
頷く。
「俺と同じだ」
「そっか」とため息交じりに弟は答える。何かをあさっている音がした。ビニール袋の擦れた音だ。激しい。唐突に音が消える。
「按摩さん、外は暑いでしょう。どうぞ、食べてください」
「これは」
二人の会話をじっと聞く。しびれてきた足を崩して胡坐をかく。
「かき氷です。いや、この旅館の外で食べたかき氷が美味しくて。それは旅館で売ってたやつなんですけど、美味しそうだから買ってきちゃいました」
「でも、お兄さんと食べるやつだったんじゃ」
「内緒で食べようと思ってたんです」
なんだと。
「おい、やす。今のは聞き捨てならんぞ」
「快楽の独占は獣の本能だよ、兄さん」
「何言っているんだよ」
按摩と弟は楽しそうに笑った。それにつられて俺も笑う。久々に声を出して笑った気がする。
「では、有難く」
「どうぞ」
プラスチックの蓋が開く音。こつこつとスプーンと氷のぶつかる音。しゃりっという冷たくも懐かしい音。しゃりっという音は次第に連続して聞こえてくる。喉の奥がごくりと鳴った。若干喉が渇いた。ぷしゅっと馴染みの音が二回。誰かの手が俺の手を持つ。この皮膚の感覚でいうと弟だ。まだ若いその手は、張りがある。俺の手に冷たい円筒型のものを持たせた。キンキンに冷えている。
「乾杯」
円筒型のものに振動が伝わる。この振動が好きだ。俺の手の中にある円筒型の中。そっと円筒型に口をつけ、穴を探す。あった。少し傾けると独特の麦の香りと苦みが口の中に広がり、はじけ飛ぶ。喉をその液体が過ぎれば、残る後味は爽やかさのみ。この液体も喉の中で、体の奥で乾杯と言っている。相変わらず、しゃりしゃりという音は続いている。
「これは何味でございやすか」
唐突に按摩が聞いてきた。弟が答える。
「ブルーハワイです」
「ブルーハワイ? はあ、これが。あたし、初めて食べやした」
「ああ、そうなんですか」
ブルーハワイと言えばかき氷の定番だ。首を傾げる。弟も疑問に思ったのか、台詞の一番最後に疑問符が付いていた。
「あたしが小さい頃は苺が定番でしたから」
苺の赤。赤というよりあれはピンクだ。毒々しいピンクは夏の熱い日差しに映えていた。覚えている。あの華々しいほどのピンク色。按摩の時代にはブルーハワイはまだなかったのかもしれない。
「なんというか、爽やかなお味で」
按摩は穏やかに言った。しゃりしゃりと音は続く。ごくりという音も時節聞こえてくる。俺も穴を探しながら、飲み込む。
「ご馳走になりやした」
口に水を含んだような喋り方。がさごそと荷物をまとめいているような音がした。
「按摩さん、料金は」
俺は問う。
「いえ、このブルー何とかで十分」
「いや、そういうわけには」
「季節の顔を拝ませて頂きやしたから、これ以上のものは頂けやせん」
「ですが」
肩だけでなく心まで軽くしてくれた。金の顔を拝ませろと言っていたではないか。釈然としない。
「ああ、いいんでございやすよ。このめくらに夏を感じさせていただき、ありがとうございやした」
どっこいせ、という声。按摩が立ち上がったようだ。畳と足の着く音。少し引きずっているように思える。声をかけようか、かけまいか。惑う。すごく世話になった。この短時間の間に。感謝の言葉を言いたかった。喉まででかかっている。言えばいいのに、言えない。ありがとう。その五文字を言えない。
「また、ご贔屓に」
襖を閉める音。とんという軽い音は今までの時間がまるでなかったかのような感覚にさせた。按摩が先ほどまでいたとは思えない、軽さ。弟に缶ビールを渡し、胡坐を更に崩す。手を後ろにつく。体の重心が後ろに行く。少しアルコールを入れたせいか、眠気が襲ってきた。あくびが出る。随分酒に弱くなった。缶ビールを机の上に置いたらしい。立て続けに二回、かんという音が部屋に響いた。
「あ、ちょっと残ってる」
弟が残念そうな声を出す。
「何が」
「かき氷。あーどうしよう」
心底困ったような声。他人が口をつけたものに対する抵抗は無理もないが、残すのは勿体ない。
「食べようよ。勿体ないし」
提案する。安堵したような空気が流れた。
「そう? じゃ、はい、スプーン。これカップ」
「お前は?」
「いいよ、食べて」
「獣の本能は?」
「僕は理性的な人間だから。本能を抑えられるのさ」
相変わらず適当なことを言って。小さく笑う。この適当さが俺には有難い。そう、有難い。こんな時にこそあの五文字を言えばいい。
「ありがとう」
按摩には次会ったときに言えばいい。なんとなくこれで終わる縁ではないような気がした。また、会える。その時にはまたあの細い手で肩を揉んでもらおう。首の凝りを取ってもらおう。ついでに心のしこりも取ってもらおう。そして感謝の言葉で報いよう。
右手につるっとした平らな小さい板を持たされる。おそらくよくおまけについてくるプラスチックのスプーンだ。左手には背の低い円筒を持たされる。スプーンを慎重に動かしてカップの中に入れる。さくっという感触がスプーンを通して伝わってくる。慎重に、慎重にスプーンを上に持ち上げる。青い青いシロップ。脳裏に甦る人工的な青。口の中に吸い込まれる、青。
それを掬って口に持っていくとしゃりっという音が漏れる。その音が鳴った瞬間、それはすうっと溶ける。溶けて残るのは爽やかな冷たさと強烈な色。冷たさは喉を通り抜け、体中を駆け巡る。何度も冷たさが体を駆け巡るとその冷たさは頭を強く刺激する。この刺激は夏の暑さに対する緩和剤だ。
真っ青な夏は、もうすぐ終わりを迎える。そして真っ赤な秋が始まりを告げる。
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