第2話 中学生と俺の話
あの日、俺はいつも通り夜の散歩を楽しんでいた。仕事から帰って、近所を散歩するのが俺の日課だった。
久しぶりに川の土手に行くことにした。そこは見事な桜並木で有名な場所だ。今はちょうど四月の頭。桜が見事な時期だろう。桜見物にでも行くか。弟は就活で忙しく、今日も遅いと言っていた。少しくらい遅くなってもいいか。じっくり桜を見て、弟に自慢してやろう。そう思ったような気もする。
ぽつぽつと照らされる電燈が俺を桜並木へ導いていた。アパートを通り過ぎる。そのアパートの駐車場に止まっている黒く光るバイク。綺麗に磨かれている。よほど大事にしているのだろう。たまにバイクの持ち主と話すがなかなかの好青年で、最近彼女と同棲し始めたらしい。バイクで旅行したとか、ちゃんちゃんこをあげたとか、そんな話を聞くとほほえましく思う。彼女を見たことはないが、彼の話曰く気立てのいい美人らしい。彼には幸せになってほしいと思う。
歩き続けると、狭い道が出てくる。幅が狭い割に周りに家がないため広く見えるという不思議な道の先に桜が咲き誇っていた。ぶわっと風が舞い、花びらが舞う。白い小さな花びらたちはくるりくるりと宙を踊っていた。電燈のせいか、いつもほんのりピンクに見えるはずの花びらが白く見える。上を見上げると電燈の明かりに負けぬ白さで月が煌々と輝いていた。
鈍い音と悲鳴。たまに聞こえる笑い声。この美しい光景に似つかわしくない音。聞き間違いかと思うがどうもおかしい。変な空気だった。声のする方向に向かってしまった。無駄な野次馬根性が足を動かしてしまった。桜が近付く。それとともに音も大きくなる。川の土手が見えてきた。土手を見ようとすると上からのぞく形になる。電燈の光が土手まで届いていないためか、何かが蠢いているようにしか見えない。
闇に目が慣れてきた。女性が殴られている。複数の男に。男たちは詰襟のようなものを着ていた。川のせせらぎと、皮膚と皮膚が衝突する音。緊張で体と思考が硬直する。視線を移すと、土手の奥に一人男が立っていた。その光景をじっと見ている。ここからではよくわからないがその男も詰襟を着ているようだ。遠くからでも異様な雰囲気が伝わってくる。だが、俺の視線は複数の男の方に行った。あのまま暴力をふるわせておけば、取り返しのつかないことになる。無駄な正義感が俺の口を開けさせた。
「おい」
一瞬男たちの動きが止まった。階段を下り土手におりる。
「何しているんだ」
男たちは実に幼い顔立ちだった。中学生ぐらいか。殴り疲れたのか息を切らしていた。
「助けてください」
か細い声。よく見てみると女性が血だらけで倒れていた。白かったであろうシャツは赤い斑点がつき染み込んでいた。乱れた長い髪が顔を隠している。女性のもとに行き、立たせる。男たちは突然の俺の登場に動揺したのか、その様子を黙って見ていた。
「歩けますか」
女性は頷く。俺に捕まりよろめきながら、立つ。
「あーあ」
場違いな声。さも残念そうな幼い声が空気を揺らす。そしてその場の空気を異質なものにした。
「お兄さん、ちょっと邪魔かな」
え? と振り向くと拳が飛んできた。小さな拳は予想以上の力を持っていた。足が地面についていなかった。俺、飛んでいるのか。強い衝撃が背中を伝わり、体中に駆け巡る。衝撃が痛みに変わり、痛みが熱に変わる。不快な熱が体を支配した。動けない。殴られた頬が熱を帯びてくるがその比ではない熱さが体の自由を奪う。
今の衝撃に耐えるために瞑った目を開けると女性の顔が見えた。女性は俺を見ていなかった。俺から見えるのは女性の下あごの部分のみ。何かを見て、怯えている。さっき遠くにいた男だ。何故そう思ったかはわからないが直感的に思った。起き上がり、女性の肩を持つ。がたがたと震えている。その震えは収まりそうもない。異様な空気を真後ろで感じる。女性の肩を持った俺の手も気づけば小刻みに震えていた。
「逃げてください」
「え?」
「いいから早く」
女性は俺の言葉に必死に頷いてよろめきながらも、走った。複数の男たちが追いかけようとするのを止めようとして立ち上がる。だが、男たちを止めたのは俺ではなかった。異様な空気を身にまとった男。右手を少し上げただけで男たちは止まった。男たちの表情が一瞬にしてこわばる。
男は随分可愛らしい顔をしていた。一見すると素直で賢い少年だ。目は大きく鼻はすっと通っていて口はさくらんぼのような可愛らしさだ。丸っこい輪郭が幼さを強調している。容姿からはわからない、この異様な空気。にっこり笑う。可愛らしいのに恐ろしい。無邪気だからこそ何をしでかすかわからない。
「お兄さんさ」
声までも可愛らしい。だが、声に体温を感じない。まるで人ではないかのような無機質な声。
「なんであの女助けたの? 知り合い?」
「いや、ただの通りすがりだ」
「へえ、そうなんだ」
興味なさそうに相槌を打つ。じりじりと男は近付く。
「あの女さ、僕の担任なんだよね。うざいから懲らしめてやろうと思って」
「殴らなくてもいいじゃないか」
「体で教えてやんないとわかんないじゃん」
気づくと男は俺の目の前にいた。体は小さく俺の肩あたりまでしかない。緩やかなウェーヴのかかった髪が春の風でさあっとなびく。
「それにあいつがいなくても誰か他の先生がスペアで入るでしょ。いらないんだよね」
「そういう言い方はよくないと思うけど」
「じゃあお兄さん教えてよ。あの女の存在意義を」
にこにこしながら、何も知らない子供のように男は俺の手を掴む。俺はその質問に答えなかった。いや、答えられなかった。そこにあるのは、自分勝手な正義感でしかない。
「じゃあ、お兄さん」
「何かな」
「僕の存在意義は何かな」
ああ、そうかと納得する。この異様な空気は周りや自分に対する絶望的な諦めから来るものだった。頭から血が出ている。グラグラする。それでも俺は大人だから、子供の彼には、希望を持って欲しくなってしまった。これも、自分勝手な正義感から。
なんて、傲慢なことか。
「君は生きていていいんじゃないか」
男はまたにっこりと笑った。心底嬉しそうに。だが、俺の手を潰すような強さで握った。顔をしかめる。
「あの女と同じこと言った。生きていていいんじゃないか。そんな答えはいらない。僕がほしい答えじゃない。そんなの答えじゃない!」
男は高い声で叫ぶ。俺の手を握りつぶしながら。泣きそうな顔で。今度は心底悲しそうに。
男は呼吸を整えて俺をまっすぐ見た。
「ねえ、通りすがりのお兄さん」
男は俺の手を乱暴に離した。手をさする。尋常じゃない痛みが手を支配していた。骨折れたかもしれない。
風が舞う。花びらが散る。男は無邪気に花びらを追う。そして両手で花びらを掴むと俺にわざわざ見せにきた。そして右の手のひらに丁寧に置く。ぐしゃりと容赦なく握りつぶした。ぱっと開くとくしゃくしゃになった花びらだったものがぽとりと地面に落ちた。
「無駄な正義は身を滅ぼすよ。お兄さん」
え? と聞き返すと二本の指が俺の目に向かっていた。
暗い。真っ暗だ。闇になれたはずの目が映すのは何もないただの黒。淀んだ黒が広がっていてる。いや、この黒は淀んでいるのか。そもそも黒なのか。赤なのか。白なのか。何色なのか。どうしたことだ。ここはどこだ。痛い。痛いじゃない。ただの痛みじゃない。痛いなんて生ぬるいものじゃない。熱い。熱いでもない。なんだこれは。今の自分の状況に当てはまる言葉を探すが見つからない。なんだこれは。なんなんだ。俺は、なんなんだ。声にならない叫びが喉の奥から湧いてくる。見えない。何も。暗い。どこも。思考が、精神が、感情が、錯綜し、混乱し、制御不能になる。
「兄さん、今年も花火見に行こうよ」
そう言った弟の声が聞こえたような気がした。
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