第2章 かき氷の話

第1話  按摩と俺の話

 それを掬って口に持っていくとしゃりっという音が漏れる。その音が鳴った瞬間、それはすうっと溶ける。溶けて残るのは爽やかな冷たさと強烈な色。冷たさは喉を通り抜け、体中を駆け巡る。何度も冷たさが体を駆け巡るとその冷たさは頭を強く刺激する。この刺激は夏の暑さに対する緩和剤だ。

 真っ青な夏は、もうすぐ終わりを迎える。


          


 温泉には様々な効能があるという。俺は先ほど入った温泉の効能を思い出していた。確か、美肌効果があるとか、なんとか。美肌と言われても男の俺としてはさほどうれしい効果ではない。まあ、たまたま自分は美肌に興味がないだけかもしれないが。一緒に入った弟は同じことを思ったのか「美肌って言われてもねえ……」とため息交じりに呟いていた。

 温泉に入ることが新鮮だった。いや、久しく入っていなかっただけだ。新鮮というか、懐かしかった。もんもんと立つ湯気は湯に浸かっていない顔を上気させた。湯の熱さはちょうどよく体の底から温まった。夏に熱さは必要ないと思われようが、湯の熱さはたまっていた疲れを体から解放してくれる。たまの温泉はいいものだ。

 今、俺たちは伊豆に来ている。会社勤めしている弟は何かと忙しい身だが、今年は一週間の夏休みを取ることができた。夏休みには温泉に行こうと約束していたため、こうして温泉旅館にいるという次第。弟と二人旅行というのは初めてだった。料理もうまいし、温泉も気持ちいい。こんないい旅館をよく見つけたと感心する。そういえば、旅館近くの出店で食べたかき氷が美味しかった。久々のブルーハワイ。小さいころは弟と祭りのたびに食べて舌の色を見せ合ったものだ。鮮やかな青は舌の鮮やかなピンク色に不気味なほど合っていなく、気持ち悪いと言ってはお互いを指さし大笑いしたものだ。

 弟は下の階にあるお土産屋で土産の物色をすると言って部屋を出て行った。会社の仲間に渡すそうだ。弟が今の会社に勤めてもう五年になる。IT関係の新興会社だそうだが、最近ようやく軌道に乗り始めたらしく仕事も順調にこなしているようだ。このままいけば出世かもと冗談めかして言っていた。楽しんで仕事している弟がなんとなく眩しい。

 敷布団の上で胡坐をかく。敷布団の柔らかさが懐かしい。家のベッドもいいが、固くて最近肩が凝る。畳の感触もいい。足に伝わる繊維の感触は思ったより冷たい。井草独特の匂いもいい。母の実家の匂いと同じだ。親も祖父母もいないあの家は建て直されて影も形もない。知らない人があの敷地に住んでいる。思い出せばあの家で過ごした夏は夏という時間を思いっきり満喫していた。ガラスの風鈴は風が起こるたびに鳴っていたし、喧しい蝉の声は庭先の大きな木から聞こえていた。縁側に差す夏の日差しはきらきらと輝いていて、そこで食べる西瓜は真っ赤で甘かった。よく弟と並んで食べては種を飛ばして遊んでいた。そういえば、今年に入って西瓜を食べていないような気がする。家に帰ったら買ってきてもらおうか。

 横になってみる。枕を探す。ごつごつしていて高い。首が凝りそうな気もするが、意外とちょうどいい高さなのかもしれない。と、矛盾したことを考える。


「もし」


 聞きなれない声が向こうの方からした。襖を隔てた向こう側。その声は俺を過去から現在に引き戻す。明らかにこの部屋に向かって言っているようだった。男の声。年老いているようだ。その割に響く声だ。横になっている体勢を起こし正座する。


「はい」


 恐る恐る答える。随分しわがれた声を出してしまった。


「どこか凝っているところはございやせんか」


 マッサージ師か。確かに腰や肩が凝ってはいるが。マッサージは金がかかると聞く。この旅館自体いい値段がしたのだ。これ以上金をかけるわけにはいかない。何しろ弟が稼いできた金だ。俺の自由にしてはならない。そもそも見知らぬ人を中に入れることはできない。何をされるかわかったものではない。


「いや、結構です。お気持ちは有難いですが」

「いくらでもいいんです」

「え?」


 男は俺の考えを読んだかのように言葉を発する。


「一円でも十円でも構いやせん。いくらでもいいんで、この哀れな按摩に金の顔を拝ませてくださいまし」

「按摩?」


 つまりマッサージ師だよな。いくらでもいいというのはどういうことだ。独特な言葉遣いに違和感を覚えつつ返答を待つ。


「旦那、あたしめくらでしてね」

「めくら?」

「目が見えねえんですよ」


 沈黙が下りた。警戒を解く。中に入れても大丈夫だろう。料金はいくらでもいいと言っている。


「では、肩をお願いします」

「ありがとうございやす。ありがとうございやす」


 部屋の襖を開ける音がした。按摩が来るのをじっと待つ。肩に指が乗り、手が置かれた。肩の位置を確認しているようだ。すっと手が肩から離れる。何かを置く音がした。荷物だろうか。しばらくすると肩に手が置かれた。指が細いように感じた。その細い指から出てくる力は案外強く心地よかった。


「旦那、結構凝ってやすね」

「そうですかね」

「同じ姿勢でずっといるからですよ」


 確かに、いつも同じ姿勢でいるかもしれない。自宅のベッドの上を思う。何をするわけでもない。ただ時間が過ぎるのを待つだけの日々。


「旦那、一人旅で?」

「いえ、弟と」


 按摩は心底驚いたように唸った。


「仲がよろしいんですね」

「弟ができた奴なんです」


 はっはっはと按摩は笑った。何が面白かったのだろう。


「今時珍しいほどの弟思いだ」

「いや……あいつには迷惑ばっかりかけてますから」


 ふうんと納得したんだか、納得してないんだか、判断しかねるような相槌を按摩は打った。首から肩に沿って押される。痛いが気持ちいい。凝っている証拠だ。


「旦那、こっちはいねえんですか」

「こっち?」

「これですよ、これ」


 これと言われてもわからない。あからさまなため息をつかれた。


「女ですよ。お・ん・な」


 ああー、と納得する。これね、これ。自嘲気味に笑う。


「いるわけないでしょう」

「ええ? 声からして、いい男に思うんですがねえ」

「俺がですか? 冗談はやめてくださいよ」

「でも、いい年でしょ」


そういわれるとぐうの音も出ない。


「三十路は確かに過ぎました……」

「でしょ。いねえんですか、だれか」


 思い浮かべる。俺の狭いコミュニティだと、女は数えるほどしかいない。学生時代付き合っていた彼女はすでに旦那がいる。年賀状に子供ができたと書いてきたときには心底驚いたものだ。かつての会社の同僚はどうしているのだろう。音沙汰ないな。あ、と思い出す。声に出していたらしい。按摩がその声に飛びついてきた。


「いたんですね」

「近所に女性が一人」


 按摩が大袈裟なほどの歓声を上げる。


「別嬪で?」

「さあ、どうなんでしょう」

「どうなんでしょうってことはねえでしょ」

「まあ、でももう子持ちで」


 思いっきり残念そうな声を出した。


「ご主人がいらっしゃるなら話は別じゃねえですか」

「いや、ご主人はもう」

「あら」


 気まずい沈黙が一瞬下りてしまった。言わなければよかったか、と後悔する。


「じゃあ、狙い目でございやしょ」


 何をとぼけたことを言っているのか。按摩はその空気をその一言で蹴散らした。


「狙い目って」


 得物を狙っている鷹じゃあるまいし。


「狙い目じゃねえですか」

「どこが。ご主人亡くなってたった三年しか経っていないんですよ」

「お子さんは」

「三歳……って聞いてますが」

「よし、狙っていきやしょう。ほれ、顔もマッサージして、いい男にしてさしあげやすよ」


 急に頬が両手で挟まれ驚く。顔中を撫で繰り回される。おでこや、鼻、口まで縦横無尽だ。


「旦那、いい男ですねえ」

「いや、どこが」

「鼻は高いですし、筋通っているし、唇の形もいい。輪郭は瓜型。文句ねえ二枚目ですよ」

「いや、そんな」


 いい男だ、いい男だと連呼しながらも按摩は俺の顔を撫で続ける。年のいった人から頬を両手で挟まれるのは子供の時以来だろう。もうその記憶も埃をかぶっている。手のひらの感覚がダイレクトに伝わってくる。がさがさした手。年老いた手。温もりのある手。懐かしい手。手を跳ねのけようとするがのけることができなかった。

 按摩の手が俺の目を触った時、その手の動きが止まる。


「旦那」


 真剣な声だった。俺の動きが止まる。


「旦那もあたしと同じですか」

「え?」

「旦那もめくらですね。しかも俄かめくらじゃありやせんか」

「俄か?」

「ここ最近目を潰したんでございやしょ」


 何も言えなかった。按摩は俺の答えを待っていた。別に隠すこともなかったけれど、隠せるものなら隠したかった。久しぶりに目のことを気にせずに会話できると思った。知人や親戚、あるいは通りすがりの人でも、俺の目を好奇なまなざしで見ているのは気づいていた。それが嫌というわけではないが、心地いいものではなかった。対等に扱われていないような感覚があった。同じ人なのに、哀れみの目や蔑まれたような目がいつも俺に向いているような気がしていた。それは俺の気のせいかもしれない。そう思いながらも、その疑念を拭い去ることはできなかった。

 久しぶりだった。こんな風に目のことを考えずに会話できたのは。俺は口を開く。


「お察しの通りです」


 按摩は手を離した。手の温もりが目から、しばらくして肩へ移った。優しく強く、ちょうどいい力加減で押される。


「あたしは生まれた時から見えなかったんですよ」

「そうですか」

「旦那は何かあったんですか」


 忌まわしい事件。瞼の裏に残る捩れて潰された桜の色。


「ええ、まあ」


 曖昧な返事で濁す。いつもの受け答え方だった。「その目はどうなさったんですか」そう聞かれた時の答え方だった。そうすると相手は遠慮して事情を聞かない。それがお互いのためだった。相手も、俺も、気まずいのはいやだ。


「当ててあげやしょうか」


意外な一言に驚きの言葉も出ない。


「旦那自身が潰したんじゃない。潰されたんだ。しかもかなり手荒くやられやしたね」


 空白の時。頭が真っ白になった。按摩の手が止まる。肩に置かれた手は温もりを増していく。いつもならサングラスをして隠している目に残った深い傷。按摩は手の感覚でその傷の深さを知ったのだろう。思い出したくない、思い出したくない、思い出したくない。だが、もう語れるかもしれない。あの出来事を。あの春の日を。


「もう五年以上前になります」


俺は語りだす。

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