第7話 赦しの話

 美由紀。


 唐突に浮かんだ名前に動揺する。声に出したら彼女が何か言ってくれるかもしれない。そう思っている自分に嫌気が差して、口を押える。そして呆気なく倒れる。冷たい空気が頬を纏わりついて、破れたシャツの中に入ってきて、気持ちいい。


「馬鹿ね、ナナカマド」


 声のした方向を見ても誰もいなかった。曼珠沙華が杖をついて立っていた。ふらつきながら立つしかなかった。


「美由紀」


 弱り果てたナナカマドにその声はあまりに残酷だった。ずっとずっと求めていた声だった。

 ゆいと声が被った気がした。ああ、そういえばいつだったかゆいに言われた気がするな、とぼんやり思い出す。茶色のボブ。柔らかい微笑。春。少し首を傾げ、ナナカマドの目をまっすぐ見てくる。見上げるように見てくるものだから、黒目がちのその目がくりくりして、小動物を思わせる。そう言えば、ナナカマドが少し微笑んでその会話を終わらせることを知っている。そして、ナナカマドがため息をついて許すふりをしているのも知っている。まったく、頭のいい女だ。

懐かしいな、と目を細める。しかしそこで彼女と離れて懐かしいというほど時間が経っていないことを認識する。

 ぼんやりと思い出すくらいにナナカマドは今までの思考がどうでもいいものと思えてしまった。ナナカマドをナナカマドたらしめていたはずだった。一番大事だと思っていた部分だった。そう思っていたのも過去の出来事だ。


 馬鹿。そう大馬鹿だ。


 こんな女の一言で今までの時間を壊してもいいと思えるとは。


 頭を掻く。

 今まで何をやっていたのか。

 やっぱり人生は死ぬまでの暇つぶしなんだ。

 曼珠沙華を見る。白い霧が晴れだす。そろそろ時間らしい。

 口を開く。


「君と按摩は何処で知り合ったの?」

「肩をほぐさせていただいたんでさ」


 にっこりと笑う。いつもの微笑とは筋肉の動かし方が違う気がした。

 ナナカマドは首を横に振って言う。


「君はとんだ名マッサージ師だな」


 白い霧が半透明になっている。曼珠沙華の体も薄まってきている。按摩の体が濃くなってきている。美由紀を探す。それでも、長年待っていたあの声が聴けたことは何を差し置いても素晴らしいことで。

 ヒリヒリした。


「では、またのご贔屓に」







 波の音が戻ってきた。按摩が座っていた。すっと顔をあげて立つ。深く刻み込まれた怒りや悲しみを彼は慣れた手つきで隠した。サングラスと言う壁は大きい。七分丈のチノパンに麻の白いシャツはやっぱり爽やかでため息が出る。


「どうだった?」


 その声を独り占め出来ることに少しばかりの優越感を覚える。按摩の穏やかさは曼珠沙華に似ているような気がした。

 首を撫でる。少しざらついている。横に振る。少し前髪の白が目立つ。

 ナナカマドが口を開く。


「とんだ遺言遺しちゃったよ」


 按摩が口を開く。


「君は生きていていいんじゃないか」


 ナナカマドは笑う。人生で初めて笑った気がした。

 ぱっと手を開けると数粒の紅い実がころころと踊っていた。びゅおっと風が吹くと、その実たちを攫って行ってしまった。

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