第6話 懺悔の話

 ナナカマドの宗教が浸透するにつれて、社会は虚ろになって凶暴になっていった。だが、それは最初の十数年のみだった。


 こんなはずではなかった。


 確かにナナカマドに視線は集まった。その視線は最初虚ろなものだった。時が経ち畏怖の対象として見られるようになった。そしてそこに敬意が交じるようになったのを見逃すことは出来なかった。社会が、ナナカマドのその考えやその純粋な欲求によって、穏やかになっていってしまった。様々な社会問題がその間に起きた。その度、より生きやすい社会を作り出していってしまった。

 おかしい。欲に従順になるなら、もっと争うはずだ。何が彼らをそうさせてしまったのか。わからなかった。誰かに聴こうかと思った。

 ゆいに聴こうかと思った。だが、ナナカマドのその純粋な欲求に関して一言も話していなかったことに気づいた。その時だ。歯車がかみ合わなくなってきたことを実感したのは。

 そして、按摩から連絡があった。


「なんで連絡してきたのかな」

「番組の打ち合わせでござんしょ」

「馬鹿な」

「長年あたためてきた番組でございやす。馬鹿で片付けないでくだせえよ」

「何を話せばいいって言うんだい」

「遺言を」


 ああ、とナナカマドはため息をつく。達成できない欲求が結局のところどうでもいいことに気が付いた。己のどうしようもない寂しさがここまで来させたことに絶望した。


 自分に、絶望した。


 いつもの微笑を浮かべようとして失敗する。手を広げる。風はなかった。手を握る。実が手のひらに食い込む。痛くはない。

 曼珠沙華を見る。この微笑に胸を掻き毟られる想いがした。

 ナナカマドが声を上げる。


「一緒に逝こうよ」

「いえ、お先にどうぞ」


 彼の言葉は確かにナナカマドの心を蝕んでいた。いつだって他人の心を燃やしていたはずのナナカマドの本領が発揮できないほどの毒だった。ナナカマドは曼珠沙華の毒には弱いらしい。

 曼珠沙華に近づく。頬を両手で挟む。深く刻み込まれた皺が暖かで、泣きそうになる。自分らしくなかった。今更、この年にもなって自分を見失った。だからかもしれない。自分らしくなく思考を垂れ流していた。


「ねえとち狂ってるって思わない? 僕の望んでいた世界ではない。僕はこんなの望んじゃいない。人助けなんて御免こうむりたい気分なのに、皆して僕のことを救世主のように祀り上げて、二十年だ。もう二十年経った。狂ってる。僕は狂ってる。知ってる。でもこの世界も狂ってる。おかしい。壊したい。殺したい。ぐちゃぐちゃに争い合う社会を見たかった。美しいものをもっと愛でたいと思うのはまっとうな欲求だろ? それが、おかしいじゃない。僕の宗教は確かに僕の考えで出来ているけれど、あんなのただの手段にすぎなかったはずだ。暇つぶしだったはずだ」


 おかしい、おかしいと何度も呟く。

 そう、おかしいのだ。目の前にいるはずの按摩が、曼珠沙華と名乗るのも、老人に見えるのも、こんなに縋りたくなるのも、おかしいのだ。


「僕は、どこで、間違った?」


 何が言いたかったのか自分でも分からなくなっていた。何が何だか分からなくなっていた。

 調子が狂っている。僕は狂っている。世界が狂っている。

 曼珠沙華の手がナナカマドの頬を触る。がさがさした手。年老いた手。温もりのある手。両頬がその手によって温もりを取り戻していった。


「この世界はとち狂っておりやすよ。矛盾、無秩序、混乱、様々なものがぶつかり合って、交じりあって、世界は成り立っている。ごちゃごちゃに交じりあったスープに味をつけて飲み干さねばならないのに、誰も味をつけようとしない。誰かが味をつけてくれると他人任せにして、それを平和と名付けて。狂っておりやすよ。ええ。その狂いを正常と言う。穏やかと言う。あなた様は気付いていた。最初から。この矛盾を。その矛盾という玩具で遊ぼうとなすった。そしてあなた様は、味をつけなすった。宗教という形で」


 曼珠沙華を見る。やっぱり穏やかに慈しんでいる。


 疎ましい。愛しい。哀しい。美しい。


 様々な感情が、ナナカマドを蝕む。


 苦しい。寂しい。辛い。悲しい。


 曼珠沙華の口が開く。


「そして、あなた様は今、飲み干そうとしている」

 

ぱん、と曼珠沙華の手を跳ね除ける。


 駄目だ。こんなの駄目だ。

 不動であったはずのナナカマドのその欲求や感情が今揺れに揺れている。


「もう、どうでもいい」


 駄目だ。駄目だ。いらない。こんな世界、どうでも。


 先ほどまで垂れ流していた映像が走馬灯のようにまた流れ出す。


 学校。教師。凡人。春。川。猫。火。白。赤。ゆい。宗教。救世主。ラジオ。按摩。曼珠沙華。美由紀。


 白い霧が一層濃くなっている気がした。風も太陽も何もかもをすっぽり覆い隠していた。せめて自分の周りくらいは、と腕を振るい、霧を裂く。しかし裂くことは出来ず、より濃くなっていくような気がしてしまう。それでも、と振るい続けるが、ただ息が切れるだけだった。足がふらつき始める。あまりに体を動かし過ぎたのか意識が朦朧としはじめる。

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