第5話 昔の話




「こんにちは」


 垂れ流していた映像を止める。後ろを振り向くと彼がいた。彼がそこにいても何の不思議もなかった。

 白い霧があたり一面を覆っている。波の音が掻き消える。はためくシャツが落ち着きを取り戻す。ひんやりした空気がシャツの破れたところから流れ込んでくる。彼の白いシャツが目に付いた。相変わらずの爽やかさにうっかり溜め息をついてしまう。

 サングラスは外れていた。この傷には覚えがある。この男から光を奪ったのはナナカマド自身だ。


 覚えている。

 川の土手。桜が舞い散るそこで、ぐしゃりと潰してやった。

 にっこりと笑う。


「按摩さん、僕のこと知ってるでしょ」


寂れた空気が漂った。按摩の口元が穏やかさを纏ったものになった。


「旦那からあなた様のことを聴いたんでさ」


 ぞくりとした。声色が変わった。言葉遣いも変わった。空気も変わった。しわがれて枯れてそれでも穏やかなその声にうっかり浸かりそうだ。

 目の前の彼の様相が変わっているのに気が付いた。細い棒で地面を叩いている。藍色の手拭いが頭を覆い、ぼろぼろの布を身にまとっている。着物と言うにはあまりに薄汚く、使い古しているというより汚していると言った表現の方が正しい。

 ナナカマドの目に、最早按摩は映っていない。穏やかな老人がすっくと立っていた。


「へえ。そいつは面白いね」

「面白ぇでしょ」


 これだ。


 ナナカマドはこれを望んでいた。

 現実と非現実の交差した、欲に忠実な世界。

 様々な欲求があったが、ナナカマドが最も望んだのは、このスリルだ。これだ。望んでいたのはこれだ。


「世界が暗くて羨ましいよ」

「あなた様にそこは明るすぎやしょう。曼珠沙華に照らされる光くれえがちょうどよかろうと」

「生憎僕の明かりはナナカマドって決まっていてね」

「あたしの世界を照らすのは曼珠沙華でございやすよ」

「へえ」


 老人は言葉を紡ぐ。言葉の意味は一つも理解できない。

 しかしナナカマドは予感する。彼は、救おうとしている。

 ナナカマドのことを。 


「地獄の道は遠うございやすよ」

「一緒に行こうよ」

「めくらのあたしには一人だろうが誰かがいようが関係ねえ」

「君の傍には彼がいるじゃないか。僕は消えてしまったけど」

「あなた様の中のもうひとりは、そこにいらっしゃる」


 ああ、と声が出た。


 わかっている。わかっていた。


 ナナカマドの中のもう一人。美由紀。

 君はそこにいるのか? 美由紀と言う甘美な響きがナナカマドの脳内に木霊する。


美由紀、美由紀。


 名前を呼ぼうとして思い留まる。これで呼んでしまったら、どうなる? 楽しみはまだこれからだ。

 すぅっと息を吸って何を言うか考える。


「なんて君のことを呼ぼうか」


 ううん、と彼は悩む。


「曼珠沙華とでも」

「曼珠沙華。少し長いな」

「我慢なすってください」


 うふふと笑う。世界の霧がより濃くなる。世界には二人だけだ。いや、四人か。ナナカマドと、美由紀。曼珠沙華と、按摩。

 曼珠沙華をよく見てみれば、按摩に似ているような気がした。数十年後の按摩の姿なのかもしれないな、と思う。急に寂しさを感じた。


「ねぇ、曼珠沙華。僕の話聞いてくれる?」

「いいでしょう」


 ぐっと握り締め、もう一度開く。そこに、確かに存在している紅い実を見て空いている手で撫でる。


「按摩はあの番組をあたためようと言った。知っている?」


 あの番組は結局あの時は放送されなかった。按摩がまだ時期ではないと押し返したからだ。そして、やはり誰も反論しなかった。うっかりナナカマドも反論し忘れた。


「目が見えないのに、何故彼は僕が僕だって気付いたんだろう」

「声でございやすよ」

「声?」

「ラジオ、でしたっけ。そのお仕事をなされているんでござんしょう。声は商売道具でございやす」


なるほど、とナナカマドは頷く。


「あの後、相変わらず僕の宗教は成長を続けて、海外進出までしたんだよ。笑えるよね。それで、按摩から連絡を取ってきた」


 曼珠沙華の閉じられた目は緩やかなカーブを描いていた。見えていないはずなのに、心の奥深くまで見据えられているようだ。


「旦那からあたしに連絡を取ってきたのもその時でございやすよ」

「なんて来たの?」

「あなたの出番です、と」


 うふふと笑う。

 連絡を取ってきたとき、ちょうどナナカマドはいつの間にか始まっていた企画が違う方向に向かっているような気がしてならなかった。ナナカマドの教えは実に単純で、着実に欲に向かっていたはずなのだ。

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