第10章 交換日記の話

第1話 始まりのページの話

 あんまり汚い字だから最初読むのに手こずった。

 手元のノートの表紙は緑色だ。これは確か四冊目くらいで、一冊目の表紙はピンク色だったはずだ。桜の色。母のお気に入りの色。近所の桜並木のピンクを彼女は愛した。顔も知らない実の父はその並木の緑を愛したらしい。だからピンク色と緑色の表紙のノートを交互に使用していた。


 母が再婚して引っ越すことになったため荷造りをしていた。ようやく、というか、今更、というか。母と再婚する人は幼いころから親しくしていた人だった。康孝さんと言って、優しくて、ユーモアもあって、冷静さもあって、幼い頃はお父さんだと思っていた。実際お父さんと呼んでしまったことが何回もあった。その度、康孝さんは少しさみしげな顔をしては「君のお父さんはここにいるんだよ」と私の心臓あたりを指さしていた。何故彼が寂しそうな顔をするのか私にはわからなかったけど、それでも彼が父ではないことはなんとなくわかっていたから、聞き分けのいいふりをしていた。


 最後に書いたのはいつだったのだろう。私が持っていたのだからきっと母が最後に書いたのだろう。一二月二九日、水曜日。確か私が一四歳。ああ、と当時のことを思い出す。そしてちくりと胸の奥が痛む。おいおい、と私は仕舞っておいたはずの感情に突っ込みを入れる。

 もう整理つけたでしょ。はいはい、落ち着いて。

 それでもやっぱり痛みはひりひりして広がっていく。

 ぱたりとノートを閉じて、最初から読み直していく。




四月九日 火ようび てんき:はれ


 きょうはみどりのにゅうがくしきだったね。あたらしいランドセルはどうだった? すこしおねえさんになったみどりがおかあさんにはまぶしくみえました。これからどんどんおおきくなっていくのだろうね。

 こんどはみどりがかいてね。がっこうのこと、おともだちのこと、せんせいのこと、おかあさんのことでもいいよ。なにかきづいたことがあったらこのノートにかいておかあさんにみせてね。おかあさんもなにかきづいたことがあったらここにかくね。



四月一三日 どようび てんき:くもり


 きのうはやすたかおにいちゃんがきてくれたのであそびました。かみずもうっていうそうです。ゆびでとんとんたたくとかみのおすもさんがうごいておもしろかったです。なんかいもみどりがかったよ。やすたかおにいちゃんはしょんぼりしてた。おかあさんもやればよかったのに。

 こんどはおかあさんのばんだよ!




 おすもさんって何だ。


 紙相撲なんてもう何年もやっていない。とんとんと土台を叩く度にぴょんと飛び跳ねるお相撲さんはあまりにも薄くて頼りなかったが、そのギャップがいいのかもしれない。ぺらりとぺらりとページをめくる。日常の些細なことが書かれている。

 道端に咲いているタンポポの綿毛が揺れていたこと。バイクの上の猫と遊んだこと。東京五輪の開会式が思っていたよりも地味ですこしがっかりしたこと。近くの道が五輪のマラソンで使われることになって嬉しかったこと。


 ノートの表紙が緑色にかわる。②と大きく書かれている。相も変わらず些末なことがつらつらと飽きもせずに書いてある。段々私の書く字が整っていくさまや漢字が多くなっていくさまが面白くて読み進んで行ってしまう。

 晩御飯のメニューがカレーで美味しかったこと。明日も明後日もカレーがいいこと。それは飽きちゃうでしょとなだめる母の字に愛を感じてなんとなく目頭が熱くなる。まだ一八だってのに老いたものだなと感じてしまう。きっとそんなことを言うと母にまた何言ってんの、とどやされるのだろう。

 指は相変わらずページをめくる。隣近所のあけみお姉さんが恋人と思しき人を連れてきたこと。その部分で指が止まる。これは私が四年生の時の日記だ。

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