第4話 闇色の声の話

 穏やかさと飄々さはいつも通り。艶も深みもいつも通り。だが、こんな声なはずはない。しわがれてなどいないはずなのに。隣から聴こえる声はお世辞にも三十代とは言えない。胃の痛みが激しくなる。カフェインの飲み過ぎが原因ではなさそうだ。

 按摩、君は誰だ?


「戸山さん、と言いやしたか」

「え」


 なんだこれは。

 隣に座っているのは、誰だ。


 混乱して運転どころではなくなってしまう。事故を起こす前にウィンカーを出して路肩に止まる。

 隣を見ると確かにそこには按摩がいた。ただ、その穏やかな笑みは何か不気味さを纏っていた。あのはがきの纏っていた空気と同じだ。按摩が戸山を見る。按摩だ。だが、表情は按摩ではない。


 なんだこれは。


 ぞくりと背中に何かが這う。寒気とか、恐怖とか、畏怖とか、そういった類の得体のしれないもの。

 按摩が口を開く。


「旦那にお伝えください」

「え」

「あたしの出番は、まだでございやす」

「按、摩?」

「現は夢幻。魅せるも打ち砕くも旦那次第。まるで鏡花水月。現は川面に映る満月のようなものでございやす。旦那が求める時に、あたしは出て参りやす」


 何を言っているんだ。


 訳が分からないが、何かを伝えようとしているのは間違いない。とりあえず頷く。按摩は見えない目で戸山を見つめ、穏やかに笑った。街灯が按摩の顔を照らす。整った顔についた乱暴な傷があんまりアンバランスで鮮やかなものだから、目を惹いてならない。


「またのご贔屓に」

「え」


 すうっと何か抜けたように按摩の首ががくりと落ちる。戸惑っているといきなり顔を上げるものだから飛びのいてしまう。


「すいません、寝てました」

「いや」


 寝てません、とも言えないし、何だこれは。混乱した頭の中、戸山は言葉を探す。路肩に止まっていることに気づいたのか、按摩はきょろきょろと見えないにもかかわらず首を動かした。


「なんで止まってるんですか」

「えっと、その」


 とりあえず、家に送らねば。日付を越えてしまう。

 エンジンをかけ、ウィンカーを出し、交通状況を確認する。やはり車は通っていないからスムーズに出られた。


「なんか、伝言頼まれたんだけど」

「伝言? 誰から?」


 そう言えば名前聴くの忘れた。己の致命的なミスにおののいた。こんなに社会人として生活してきたというのに、どれだけ動転したら伝言する人の名前を聞き忘れるというのか。


「ごめん、名前聞き忘れた」


 とりあえず正直に謝る。


「なんだそれ」

「こっちがなんだそれだよ」

「いや、よくわからない」

「うん、俺もよくわかってない」

「戸山さんがわからないんじゃ俺もっとわかんないですよ」


 だよなー、とぼやく。大通りを右折し、家電量販店の前を通り過ぎる。そうすると踏切が見えてくる。踏切を渡って左折すれば、もう按摩の家である。まさか最後の最後にこんなわけのわからないことになるとは思っていなかった。もっと楽しい、というか、くだらない与太話に話を咲かせる素敵な男同士のドライブになると思っていたのだが。いわゆる、男子会、みたいなノリになると思っていたのだが。


「ほんと、最後の最後にぶっこんでくるなあ」

「何をぶっこんだって言うんです?」


 とりあえず家の前に車を止める。按摩はジャケットの胸元からサングラスを取り出し慣れた手つきでかけた。

 ふうっと息をつき、戸山は投げやりに話し始める。


「あのな」

「はい」

「夢を魅せるのも打ち砕くのも旦那次第だって」

「え」

「まだ出番じゃないって」

「え」

「以上です」


 按摩が黙る。戸山も黙る。沈黙の威圧感を今は感じなかった。


「そうですか」


 何もかも承知したように穏やかに、いつもの調子で言った。


「送ってくれてありがとうございます」

「いや」


 運転席から降りて助手席の扉を開ける。乗った時と同じように車の天井を確認し、扉を軽く手で撫でる。指示棒を地面におろし、滑らかに降り立った。按摩の家は木造の平屋だった。なかなか広い家だ。外からでは見えないが、庭も広いみたいで苔むした石が置かれている。


「じゃあ、水曜日あたりに」


 按摩の声で我に返る。


「あ、ああ。連絡するよ」


 じゃ、と手を挙げて挨拶する按摩には戸山の姿は見えていない。運転席に乗り込もうとして戸山は何かを思い出したように按摩を見た。門を開けて中に入っていくようだった。


「按摩」


 按摩が振り向く。


「俺の声、今何色になってる?」


 ううん、と首を傾げる。庭の寂びれてぼやけた雰囲気が妙に先ほど出てきた得体のしれないしわがれた声と重なっていた。

 月が光る。サングラスが反射する。

 戸山を見据えて言う。


「暗くて見えないです」


 ひゅうっと風が二人の間を吹き抜けていく。寒いな、と戸山は身震いをした。

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