第3話 紫の声の話
不覚にも見惚れた。ラジオ局の地下駐車場までは指示棒を叩きながら、その指示棒は意味があるんですか、と言いたくなるような速さで、慎重さすらかなぐり捨てて歩いていた。どこに何があるか見えているかのような歩き方だった。そこまでも見惚れてはいたのだが、問題は車の乗り方だ。車までは戸山の腕に捕まって歩いていた。プリウスの前に来て、戸山が扉を開けると、扉の端を慣れたように確認し、車の天井まで手を滑らせ確認し、少し微笑んですっと乗り込んだ。車の床の高さくらい指示棒で確認しろよ、と言いたくなるくらいの手際の良さだった。一瞬ぼおっとして運転席に乗り込むのが遅れたくらいだ。
暗い夜道に黄色い街灯が点々と光っている。この光景はもしかしたら四六時中按摩が見ている光景なのかもしれない。助手席の按摩のサングラスが街灯の明かりに反射する。と、思ったら何の反射もなかった。あれ、と思うが如何せん運転中だから横を向くわけにもいかない。丁度よく信号が赤になる。ブレーキをゆっくりかけて止まる。
ちらりと按摩を見るとやはりサングラスをかけていなかった。
ハッとする。
見てはいけないものだったと後悔する。
街灯に照らされた按摩の横顔は男の戸山が惚れ惚れするくらい凛としていた。閉じられた、というか閉じさせられている目に深い影が落ちていた。刻み込まれている。悲しみや、苦しみや、怒りが、深々と、その両目に、刻み込まれていた。
「そろそろかなって思いましてね」
按摩が穏やかに話す。
「そろそろ」
「戸山さん、信号」
按摩に言われて前を見ると信号が青く光っていた。ブレーキから足を離し、アクセルを踏む。
「サングラス反射して眩しいでしょ。だから夜、車の助手席に乗った時はサングラスを外すようにしているんです」
「はあ」
はあ、としか言いようがない。
誰だよ、人と話す時は相手の目を見て話せって言った奴。
若造のように戸山は知らない誰かに悪態をつく。
「目、見えない理由わかって頂けました?」
「……うん」
「ならいいんです」
車内に沈黙が漂う。その沈黙は戸山が破ってはいけないようだった。その空間を支配しているのは明らかに按摩の方で、戸山ではなかった。
これがラジオパーソナリティとしての十二分の素質を備えていると言わしめた所以だ。空間を音だけで支配するのがラジオの武器だし、弱点だ。人間はどうしても視覚情報の方が得やすい。聴覚情報は聞き流してしまうことの方が多い。
だが、偶に現れるのだ。声のみでその場を支配してしまう者が。
「戸山さん、聴いていいですか」
「何?」
「ゆいちゃんの服装」
唐突に何を聴くのか、とはやし立てようとしても空気が許さなかった。なるべく詳細に話す。白いシャツ。若葉色のカーディガン。デニム生地の緩いパンツ。胸元の赤い実のブローチ。
「赤い実のブローチ」
そこで反芻する。空気が凍った。威圧感で押しつぶされそうだ。按摩がこんな空気を出すのも初めてだった。怒っている? 違う。そんな単純なものではない。
「今日の曲、リクエストしたリスナーの名前は何ですか」
「何でリスナーって」
「戸山さんと須藤さんの声の色が紫だったんで」
「紫?」
紫が一体どういった感情を表しているかわからずに聞き返す。その質問に按摩は返答する様子を見せない。きりりと胃が痛む。あのはがきを思い出す。
「匿名だった」
「どんなはがきでした?」
「どんなって……ただ『Moon River』を流してくださいって。字はきれいではなかったけど」
「白いはがき?」
「うん。真っ新なはがきに鉛筆で書かれているみたいな」
アクセルを踏む。六十キロを軽く超えるスピードで走り抜ける。夜のこの道は空いているからスピードを出したくなる。それ以前にこの空気から逃れたい思いもあったかもしれない。
「あたしですよ」
「え?」
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