第3話 続きのページの話

一二月二九日 水曜日 天気:雪


 随分寒いね。そりゃそうだね、雪降ってるんだもんね。おせち料理手伝ってくれてありがとう。みどりが作る田作りはやっぱり美味しいね。康孝さんも美味しいって言ってくれてたよ。

 この日記をつけて随分経つね。確かみどりが小学校入学した日にこれをつけ始めたんだよね。もうそれから七年経つのか。早いなあ。

 昨日久々に日記読み返しました。色んなことがあったんだなあって思ってさ。懐かしくなっちゃった。最初のうちはひらがなばっかりで読みづらいのなんのって。こんなに漢字が書けるようになってね。当たり前か。もう中学二年生なんだもんね。大きくなったなあ。

 みどり、最近好きな人いるでしょ~。誤魔化したってだめだからね? 今度教えてね。まあ、教えたくなかったら別にいいんだけどね。みどりの好きな人ならお母さん応援するよ! 

 お母




 ここで終わっていた。


 何を、書こうとしたんだ?

 私、この日記読んでる。


 ぱたりと閉じる。

 ひりりと痛む。

 指先を見るとうっすらと血が滲んでいた。紙で切ったのだろうか。ぺろりと舐めると鉄の味が舌の上を這った。

 絆創膏を取りに台所に行く。台所の近くの棚を開けると几帳面に並んだ絆創膏があった。一枚取り出して指先の傷に丁寧に貼る。ゴミをゴミ箱に投げ入れる。明日は可燃物の日だったなとぼんやり思い出す。

 お母さん、この続き何書こうとしたの?

 そう聴こうと何度もした。


お母


 その文字列を指でなぞる。未だにこの続きはわからないな、と思う。

 この時期だった。母を女性の先輩として意識し始めたのは。

 母一人、子一人。この狭いアパートでやって来た。仕事に家事に忙しい母だったが、私との時間は大事にしてくれていた。土日の午後のティータイム、というにはあまりにも優雅な表現かもしれないが、その時間はいつも暖かいものだった。沈黙が包むときもあれば、会話が弾むときもあった。確かその時だ。実の父の話をしてくれたのは。

 実の父の存在はあまりに遠すぎてわからなかった。バイクが好きで、五月の緑が好きで、登山用のリュックで会社に行っていたこと。母が今でも直しながら着ている赤いちゃんちゃんこはその父が贈ってくれたものであること。母は父を深く愛していたし、父もまた同様であったこと。

 母の話す父は穏やかに揺蕩う川の流れのように緩やかで爽やかな人物像をしていた。それでも遠い存在であったことに違いはなかったし、アパートの階段に置かれているひしゃげたバイクを薄気味悪く思ったことは幾度もあった。康孝さんがそのバイクを見るたび私は康孝さんの横顔を見た。その横顔は、敬意を表しているようにも、見てはいけないようなどす黒い感情が渦巻いているようにも見えた。そして私も同じような表情をしているのだろうと思っていた。

 視界の片隅の、脳の片隅の、心の片隅の、あの横顔を払いのけようとする。女性の顔を払いのけようとする。


 ノートを勉強机の上に置く。とりあえず置いておこう。今までの感情をぶり返さないように他のことをやることにする。押入れを開ける。布団と段ボール、プラスチックの箱がテトリスのように綺麗に入っている。プラスチックの箱の中には夏、秋、冬用の服がごちゃ混ぜになって入っている。そろそろ服整理しようかな。箱を慎重に引っ張り出す。

 その布地が視界に入った時の私の表情は見ものだったに違いない。


 サテン。ほんのりピンク。母の愛する色。女性の顔。


 蓋を開けて、それを取り出す。

 あの結婚式で母が着ていたあのドレス。こんなところに仕舞っていたのか。皺が寄っちゃうじゃないか、と畳の上にそっと置く。折り皺以外目立った皺はないようだ。

 身体にあててみる。鏡の中の私を見る。これはぴったりかもしれない。着てみようかなと服を脱ぎ始める。デニムと灰色のニットを畳の上に投げる。あとで畳もう。

 チャックを開けてスカートの部分から頭を突っ込む。するりと入る。サテンのこする音が妙に爽やかだ。腕を後ろに回してチャックを閉じる。

 鏡の前に立つ。


 半袖というにはあまりに短い袖が私の肩をそっと包んでいる。首元はそこまで開いていない。膝丈より少し上のスカートはふんわり広がり、春を連想させる。一つにまとめていた髪を降ろす。肩より少し長めの髪を右に流す。鏡の中の私がにっこり笑う。陽光がスポットライトのように私に差す。くるりと意味もなく回るとスカートが花のように広がった。


 ひとつ、息を吸う。ひとつ、息を吐く。


 勉強机の前に座る。スカートに皺が寄らないように丁寧に。閉じていたノートを開く。近くのペンを取り、私はその交換日記の続きを書きだす。すらすらと書き進めていく。この交換日記、母は覚えているだろうか。最後に書いた日記を覚えているのだろうか。お母さんの上に乗った線の存在を、その時の感情を覚えているのだろうか。

 ぽたりとページに水滴がつく。泣いているのか、とどこか冷めた気持ちで私は書き進める。

 痛みが引いていく。水滴が落ちるたび、その水滴に治癒力があるかのようにひりりと痛んでいた箇所が和らいでいく。押しのけていた感情が出てはすっと消えていく。

 ペンの動きが止まる。続きが思いつかなかった。どうしよう。

 ノートの上でペンが泳ぐ。変なところで止まってしまった。何を書こう。何を書こうとしたのだろう。少し前の自分に問いただしても何も出てこなかった。


 ま、いっか。


 それを書いたところで私は小さく笑った。

 きっと母も同じだったのだろう。

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