第4話 どこかにいったちゃんちゃんこの話
私には、かつて結婚を誓い合って、同棲までした男がいた。
二人とも働きたてで、貧乏極まりなかったというのに、無理やりアパートを借りて、六畳一間で毎日を過ごしていた。偶の休みの日には彼のバイクに乗って山を見たり、海に泳ぎに行ったりした。近くの桜並木にお散歩にも行った。忙しい平日でも、朝は一緒にご飯を食べて、帰ってきたら晩酌をして、一緒に月を見て、「月が綺麗ですね」と笑い合って、疲れた体をお互いにマッサージして、一式しかない布団でどうにか寝てみて、お互いを蹴飛ばしていた。絵にかいたような幸せがあって、その幸せに毎日感謝していた。
お腹の中に娘がいると分かった時、彼は呆気なく逝ってしまった。
交通事故だった。
愛用のバイクがめちゃくちゃになって返ってきた。それをいつもの場所に置いた時、彼の不在に初めて気づいた。それまで、葬式をしても、遺骨が手元に戻ってきても、実感が湧かなくて、長い旅に出ているような感覚でいた。綺麗に磨かれていたはずのバイクがもうバイクと呼べるのか分からないような状態だった。オブジェと言うには歪すぎるその形に、彼の遺体を重ね合わせてしまって、寂しくなって、彼を求めてしまって、苦しくなった。
大きくなってきたお腹を抱えて、ごめんね、ごめんねと何度も謝った。
あなたのお父さんを守ってあげられなくて、ごめんね。
バイクを撫でて、何度も懇願した。
この子の顔見てからあっちに行きなよ、早いのよ。
彼がくれた赤いちゃんちゃんこが優しくて、彼の腕の中にいるような気がした。冷え性の私を心配してクリスマスにプレゼントしてくれたものだった。プレゼントしてもらった日から一日も欠かさず私はそれを着ていた。
彼の爽やかな声が耳に木霊した。彼の顔を思い出して胸が締め付けられた。
あの日の朝の会話を思い出す。新しい命が宿っていることに驚きと嬉しさを隠しきれない彼に私は言ってやったのだ。
「ってことで。結婚しようね」
彼は一も二もなく答えたのだった。
「当たり前だ」
そう言えば彼がくれた赤いちゃんちゃんこは何処に行ったのだろう。彼の欠片はそこかしこ中にあの部屋の中にはあったはずなのに、夫と付き合い始めてからあの子はひっそりと身を潜めてしまった。
窓の縁にかかっているスーツに目を向ける。そこに一緒にえんじ色のニットタイもかかっていた。付き合っていた時、夫に買ったものだ。そう言えば、今日のパーティーで結んでいた。私が送ったものを夫は大事に使ってくれる。その横に今日私が着ていたピンクのワンピースがかかっている。これは夫が買ってくれたものだった。確か、結婚式に招待された時、着る服がないと愚痴をこぼしたら買ってくれたのだ。少し若めの服だけど、今日しか着る機会がないと思って、思い切って着たのだ。
「あのさ」
夫の声の方向に視線を移す。正座をして、何か言いたそうにしている。私はベッドの上に座り直す。サイドテーブルに置かれている家族写真を見る。春の日にあの桜並木で散歩した時に撮った写真だ。夫と私、娘、義兄が少し緊張気味に笑っている。バックの桜が見事にピンクを撒き散らしている。
私は春のピンクを愛した。彼は五月の緑を愛した。
バイクの疾走感を思い出す。桜並木をバイクで走り抜けた時、上から差す光が道路に零れ落ちて、その零れ落ちた光が桜の花びらと重なった。光が道路の端でさわさわと揺れているように感じた。
「明日、バイク磨こうか」
「え?」
壊れたバイクは今でも庭に置いてある。綺麗に磨かれているから、壊れて数十年経っても錆びることはなかった。
赤いちゃんちゃんこを見る。よく見ると桜の花の柄が小さく描かれていた。くすっと笑う。真剣な夫の顔を無性につねりたくなった。つねる代わりに手を包み返した。
「うん」
出会ってもう何年経つのだろう。一緒に過ごした歳月を思い起こす。この温もりに感謝する日がまた来ようとは思ってもいなかった。
痛みが痛みのままそこに留まり続ける。
時間が傷を癒すとか嘘だ。この傷だらけの状態で、あのバイクのように磨かれて生き続けるのだろう。そして赤いちゃんちゃんこのようにその傷をそっと包む。それだけだ。
私はまた今までの記憶に蓋をする。バイクを磨けばまたどうせ溢れてくるのだ。その時にまた記憶の流れに身を任せればよい。
「寝よっか」
夫の提案を受け入れる。そう言えば睡魔が私の背後をおぼつかなく揺れていたのだった。
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