第3話 ちゃんちゃんこの話
寝室に入ってパジャマに着替える。お風呂に入ることも面倒になっていた。時計の針もとうに重なり合うことを止めている。ぼおっと夫が部屋の隅で漁っている姿を見ていて閃きがあった。閃き、というか、思い出した、というか。あっと私は声をあげる。
「あの子に餌やるの忘れちゃった」
我が家には常に猫が付いていた。我が家というか、娘にというか、私にというか、バイクにというか。娘がお腹にいた頃からずっといた。ぼろアパートのあの一室から階段で降りてくると壊れた黒いバイクが立っていて、その上でいつも日向ぼっこをしていた。私が今の夫と結婚してこの家に引っ越してきたら、その子も一緒についてきた。度々庭に現れてはやはりあのバイクの上で日向ぼっこをしていた。艶やかな黒毛に、蠱惑的な黄色い瞳。今ではその黒毛も白くなってきていて、黄色い瞳も少し淀んでいた。猫にしては随分長生きだ。バイクの横に野菜や魚や米を煮たものを置いておくのが習慣だった。大抵無くなっているから日向ぼっこに来ているのだろう。
その餌やりを今日うっかり忘れていた。
もしかしたら娘があげているかもしれないと言うと夫はいつもの穏やかな笑顔でそうだね、と返してくれた。夫はいつも私の言うことを否定しない。
温もりの中に行こうとして掛布団をめくる。しかし、掛布団はすぐベッドの上に収まって私の上にかぶさることはなかった。力がかかった方向を見ると夫がベッドの上で正座している。ラッピングされた何かを私の目の前に突き出していた。
「お、お誕生日、おめでとう」
少し緊張したように言う。毎年同じ日に夫はこうして少し緊張した面持ちで私にプレゼントを渡してくるのだ。特に今年は緊張しているように見受けられる。
プレゼントを受け取る。夫の手が私の手に当たる。そう言えばハンドクリーム塗るのを忘れていた。がさがさの手を知られたくなくて、手を引っ込めるようにプレゼントを抱える。ぎゅっと抱きしめると妙な弾力性があった。抱き枕みたいだな、と思う。
「ありがとう」
こくりと頷く夫が愛しくて、白髪交じりの頭を撫でる。絡まってくる髪の毛は少し硬い。何度も撫でてきた頭は撫でられることに慣れている。それでも嬉しさが垣間見える。垣間見える感情が私の感情を揺さぶる。
開けていい? と聴くとやはりこくりと頷いた。丁寧にリボンを取って布地の袋を開ける。オレンジの間接照明がプレゼントの正体を穏やかに解き明かす。
酷い既視感に襲われる。鮮やかな赤が目を傷つける。柔らかな質感が心を蝕む。ちゃんちゃんこ。
「還暦には赤いもの、でしょ」
「うん」
あふれ出てくるものを抑える。一つ大きく息をつく。
袖を通してみる。柔らかな温かみが包んでくれる。懐かしかった。この温もりが私を寂しさから遠ざけてくれていた時期があった。この温もりに感謝していた時期があった。
「一度見たことあって」
「うん」
「よく似合ってたから、似合うと思って」
「うん」
頷くことしか出来なかった。夫はやはり不安そうに私を見ていた。その不安は、このちゃんちゃんこが気に入るかとか、似合うかとか、そう言ったものではない。もっと複雑で、感情的で、それで。そこまで思って私は混乱する。あの人を思い出しそうで、あの人との暖かい日々を懐かしんでしまいそうで、戸惑う。
夫は、きっと私が混乱することに不安を覚えていたのだと、気付く。気付いてまた、混乱は深まっていく。
手に力が入る。布団を握る。皺が寄る。その手に手が重なる。
「がさがさしてるでしょ」
自嘲気味に言うと、夫の手は優しく私の手を包む。オレンジの柔らかな光が夫の顔を照らす。影が顔に移りこむ。毎日見ているはずの顔なのに、見飽きることがなかった。夫の顔が縦に振れる。
「……ずっとこの手を握ってて」
私は自分の言葉に驚く。
そこであの日の朝を思い出してしまったことに気づく。もうどうにもならない。
夫が軽く息を吸う。
「当たり前だよ」
当たり前だ。あの人の声を思い出す。想うことすらいけないと、自分に言い聞かせてきたのに、今更になって。
夫の口が開いた。
「よく似合うよ」
あんまりその声が優しいものだから、うっかりほだされて、うっかり泣きそうになった。ぐっと堪えてしまうのは私の悪い癖かもしれないけれど、そうやって生きてきてしまったから直すことも出来ない。不器用だなあ、と思いながら、何も変わっていない私を私は愛しく感じる。
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