天ノ川連邦見聞録【分割版】

苫澤正樹

一 突発(一)

(おい、何なんだ……この妙ちきりんなありさまは)

 漆黒の闇の中、ひたすらいな啓一けいいちは困惑し続けていた。

 これが普通の闇ならばもっと恐怖するのだろうが、いかんせん天地も左右も分からないままに浮いているというのでは、恐怖より疑問ばかりが先に立ってしまう。

 手足を動かしてみると、まるで宇宙遊泳のようにふわりふわりと泳ぐことが出来る。さながら闇の海というところだ。

 余りに不可解過ぎて逆に冷静になってしまい、啓一は足場の悪い中にあぐらをかき、手を組んでじっと考え込む。

(……ううむ、もしや死んじまったのか?)

 普通の状況ならまず考えそうなことだが、啓一はそれに思い切り首を振った。

(待て、すぐ近くで事故が起きたのは確かだが、俺自身は一切巻き込まれなかったはずだ。落石なんぞもなかったし、こけそうでこけなかったしな……死んでるわけがない)

 このことである。

 つい先ほど出先で崖下を歩いていたら、巨大なダンプが眼の前で崖の法面に衝突するという大事故に出食わした。

 しかし完全な単独事故で、啓一は直接被害どころかゆうに百メートルは離れた場所から目撃しただけである。落石や土砂崩れなどの二次災害も起こらなかった。

 唯一何かあったといえば、地面に衝撃が走ってつんのめったくらいのものなのだが、それとて数歩歩いた程度で踏み留まって転びもしなかったのである。

 当然頭を思い切り打つなどのこともないため、死んでいないのは明らかなのだ。

 そしてさらに、自分の生を確信することがある。

(躰や頭のはたらきが、全部生きてる時のままだ)

 死ねば当然脳も死ぬものだし、そうなれば何にも出来ないどころか感じられもしないはずだ。

 だが五感も思考能力もしっかりあるのだから、これが生きていなくて何だというのか。

(生きてるんだから、今頃現場で大騒ぎになってるのを見てたり、警察に事情訊かれてたりしてるはずだろ。闇の中で無重力体験させられる筋合がそもそもないぞ)

 交通事故を目撃したら、奇妙な闇に浮いていた。

 事態を要約すればこうなってしまうが、全くもって理屈も道理もあったものではない。こんな理不尽な話はなかった。

 しかし何より、啓一には腹の立つことがある。

(もしや、四次元空間か何か異空間にでも迷い込んだってのか?……ふざけんな、今の生活から解放されたいと思っちゃいたが、世界そのものから解放されたいとまで思った覚えはないぞ)

 このことであった。

 実は啓一は、先月仕事を辞めている。

 勤め先は出版社の編集部だったのだが、社内上層部の紛争が数年前から絶えず起こるようになって職場環境が劣悪となり、ついに過労でドクター・ストップがかかってしまったのだ。

 療養後即座に求職を開始したものの、この不況のご時世にあって三十二歳を拾ってくれる奇特な企業なぞそう簡単に見つかるはずもない。

 この日も職安で電話をかけてもらっては断られるを繰り返され、

(それでも、今の生活から解放される手段がまだあるだけまし……)

 そう無理に言い聞かせながら、失意に肩を落としたまま自宅へ帰る途中だったのだ。

 そこへ来てこのざまである。到底承服しかねるというのも当然のことだ。

(……ああ、それより問題があった。原稿脱稿してなかったな、糞ったれ)

 そして渋面を通り越して悔しげに血も出よと唇を噛みしめ、組んでいた手足を解いて再び闇をくるりと一回転した時であった。

 いきなり躰が急降下し始めたのである。

(なッ!?)

 ばたばたともがくが、全く意味をなさない状態だ。今までの無重力状態はどこへ行った、と言わぬばかりに一点に引きずられる。

 そして一瞬光の点が見えたかと思うと、という衝撃とともに何か固いものに背中から打ちつけられたものだ。

(………!!)

 背中と尻に走った痛みに、声にならない声を上げる。

(何……で、落、ちる……?)

 そう考えたのが限界で、あとはひたすら意識が朦朧とするばかりだ。

「え、人が倒れてる!?……えと、生きてる、わよね。救急車!」

 ペーヴメントを走る音とともに、女性のあわてた声が響いて来る。

「こ、これ……まさかとは思うけど、警察案件?そっちにも連絡しないと」

 そして女性が電話で話す声を遠くに聞きながら、啓一の意識はそれきり途絶えた。

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