五 筋違橋にて(一)

「あー、やっと終わった」

 そう言うと、啓一は眉間にしわを寄せて万年筆を置いた。

「お疲れさま。結構、大変なものなのね」

「レイアウトの調整込みだとこんなもんさ。ともかく、これでいいはずだ」

 そう言った啓一の前には、校正が終了した所内報の初校ゲラ(初回の校正刷り)がある。

 あの日、サツキに引っ張られる形で総務部へ向かった啓一は、担当者に所内報の校正とレイアウトの修正をやらせてもらえないかと頼んだ。

 研究員の助手から来た意外な申し出に、担当者はひどく驚いたようだったが、

「……いいんですか?手伝っていただけるなら助かります、非常に困っていたので」

 すがるようにそう言い出したのである。

 話を聞くと、サツキの予想通り前の担当者が定年退職してしまったのが原因だった。

「引き継ぎでやり方を教えてもらっていたんですが、忙しくなってしまって……。とりあえず用意されていた枠にテキストを流し込んで、校正するくらいしか出来なかったんですよ」

 この言葉からするに、どうやら仕事の合間をぬってようやく編集作業を行っていたようである。

 編集というものには、本来テキストの調整や文字組みの改善や空白埋め、さらにはレイアウトの見直しなどいろいろな作業が含まれるため、専念して出来ないのは致命的だ。

 とりあえずということで朱を入れた件の所内報を渡して修正してもらったところ、その力が認められて校正とレイアウト修正がこちらに移管されたのである。

 それも救いの手を逃すまじと思ったのか、自分の上司の総務部長のみならずサツキの上司の第一研究部長の許にも向かい、正式な許可を取ってのことであった。

「部長に許可取って来るとはな……さすがに困惑したぞ」

「まあ自分の仕事を他の部の人に渡すわけだから、一応筋は通さないと」

「そりゃ分かるが、あの生き生きした顔……厄介払い出来るぞと言わんばかりだったじゃないか」

「まあまあ、そう言わないであげてよ」

「とりあえず、反映をうまくやってくれりゃいい。しょっぱなから豪快にミスって、三校を出してもらう羽目になったからな。今度は再校で校了(校正終了)させる」

 編集作業においてゲラは最初に印刷して出したものを「初校」と称し、以下校正で入れた朱字を反映して出した順番に再校・三校・四校……と数える。

 ただし、通常よほどのことがない限り校正は何度もやるものではなく、再校で校了させるくらいが適切だ。三校でぎりぎりあり、四校以降になると印刷所にあれこれ言われても文句は言えない。

 殊にこのような部内向けの発行物なぞ再校止まりにしておくべきだろうに、担当者が慣れていないために三校まで出かねない可能性があった。

「ちょっと戻して来る。南無三、三校出るなよ……」

 そう言いながら、啓一は総務部へゲラを戻しに向かう。

 それを見送りながら、サツキは息をついた。

(とにかく元気出してくれてよかった……)

 このことである。

 このままでは、続けさせるも辞めさせるも出来なくなってしまうからだ。

 シェリルに報告したところ、

『状況が一転したんですか……それならまだ何とかなりそうです。引き続き見てあげてください』

 そう言われたため、特にそれ以降相談などはしていない。

 さて……。

 ややあって、啓一が戻って来た。

 何やらひどく困惑したような顔なのに、サツキが意外の顔となって問う。

「……どしたの?何か問題でも?」

 啓一はそれに対し軽く肩をすくめたかと思うと、

「……空きが一段出来たんでどうしようかって話をしてたら、連載小説はどうかって言われたんだが。しかも、俺に頼みたいって」

 思いもよらないことを言い出した。

「え、連載小説!?」

「ああ。今さら確認するけど、所内報って完全に内輪のもんだよな……?」

「う、うん。元々うちの職員だけが見る前提で作ってるものだし」

「確かに文芸欄はあるけどさ、ちょこちょこ川柳とか俳句が載ってるくらいじゃないか。内輪で楽しむならそれが限界だろうと思ってただけに、連載小説と来るとはねえ……」

 所内報に連載小説。何ともアンバランスだが、あちらは本気らしい。

「多分、自己紹介で小説家目指してたみたいなこと言ったからかも。しかし無茶振りするものね」

「ああ、結構無茶だよ。小説も文芸だから載せるのは百歩譲っていいんだが……あれ、そう簡単に書けと言われて書けるもんじゃないんだぞ」

 まさに啓一が困っているのはこれだった。

 ちょっとでも創作をしたことがある者なら分かるが、小説というのははい出来ましたと右から左に出るようなものではない。

「それで、どうしたの?」

「せめてコラムにと言ってみたんだが、間に合ってるからって言われてさ。しょうがないんで、とりあえず書いてから原稿見てもらって、駄目そうならやめって条件で受けたよ」

「大丈夫なの?」

「隔週だし、文字数も勘定した感じさして多くないから慎重にやれば……。しかし連載という形態がね。まさか有名になる前に頼まれるとは思わなかった」

 啓一は、まだ一度しか雑誌に載ったことがない。

 それも市民が原稿を持ち寄って作るような地元の文藝誌なので、載ったところで大した栄誉があるわけではなかった。しかも最近はそれですら数年落ち続けだったのだから、どだい話にならぬ。

 本人に言わせれば「三文文士ならぬ一文文士」、きちんとデビューした作家がやるような連載をやれと言われて慎重にならぬわけもなかった。

「それに、この世界の知識もまだ足りないからな。こりゃきっちり勉強と取材せな……」

 盆の窪をかいてそう言うと、サツキが、

「あ、ごめんなさいね。話の途中だけど、そろそろデータ取り始めないと残業になっちゃう」

 急いだ声で言って立ち上がる。

「そうか、のデータな。今回は四号機だっけか?」

「そうね。三号機が終わったかと思ったら、すぐに来ちゃうなんてね……」

 サツキはそう言うと、研究室の入口の台の上に鎮座していたトランクのようなものをかついだ。

 この研究所は、人にもよるが研究室の隣に実験室が与えられている。学問によっては同室も有り得るところだが、重力を扱う実験となると結構な広さがいるので別室が原則だ。

「ねえ、今度は中に入って見てみない?」

「何も出来ないで突っ立ってるだけじゃないか。それに、心得のないやつがいると危ないの分かってるわけだし。自分のことに集中しなよ」

「気にしなくたっていいのに……」

 実験の時、いつも交わされる会話である。

 啓一とて学問をした身、未知の実験に興味がないわけではなかった。

 だが一回誘われて入ったところ、うっかり反重力場に接触してしまって吹き飛び、結果的に実験を駄目にしてしまったことがあったのである。

 しかもその時、サツキが、

「し、素人さんがうかつに触っちゃ……!!」

 思わずそう叫んでしまったものだからいけなかった。

 当然大失言となり、以後啓一は一切実験室に立ち入らなくなったのである。

「じゃあいつも通り、入口で見てるよ」

「分かったわ……」

 啓一が入口横に移動したのを見て、サツキは実験を開始した。

「えーと、連邦暦一六二年九月二十八日土曜日十五時三十五分、天候雨後晴れ、気温摂氏二十三・六度、湿度六十五パーセント、気圧一〇一九・五ミリバール。データ入力確認完了」

 実験室の中養生テープで「×」印がついたところに立って年月日や気象状況などを喚呼し、自動で空中ディスプレイの中の表に内容が入るのを確認する。なお「連邦暦」とは、建国を元年とする天ノ川連邦独自の紀年法で、連邦暦元年=西暦二一〇六年である。

「『ディケ』起動」

 件のトランクのような「ディケ」なる装置をボタンを押して起動すると、果たしてサツキの周囲に円筒状の薄いシールドが現れた。

「反重力場、直径二メートルまで拡大完了」

 紙を一枚シールドの中に浮かべると、ふわりと浮き上がる。反重力場がうまく出来ている証拠だ。

「測定開始、っと」

 そう言いつつ計器を反重力場の中へ差し込んだり出したりしては、空中ディスプレイに入力する。

(片手でよく出来るよな……実質暗算してるじゃないか)

 サツキが今使っているのは、専用のソフトだ。相対性理論の知識を持ちある程度計算が出来ることを前提にしたもので、全くもって得体の知れない代物である。

 それを時折画面を見るだけで扱ってしまうのだから、サツキの常人離れぶりが分かろうものだ。

「展開地点を前方五十センチ地点に移動」

「展開地点を前方一メートル地点に移動」

「実験者より前方二十センチ離して展開」

「続いて展開地点を後方五十センチ地点に移動」

 確認のためかサツキはいちいち喚呼しながら、養生テープの上で「ディケ」のボタンをいじったり、自分の立ち位置を確認したり周囲を見渡したりと忙しく立ち回る。

 小さな女性が耳と尻尾を整える間もなく実験にいそしんでいるのを見ると、何とも心苦しいものがあるが、逆に迷惑になるのは先日のことで分かっているのだから仕方ない話だ。

「よし、終わり……ああ、疲れた」

「お疲れさま」

「いやあ、安定してるわねえ……いろんな意味で」

「やっぱりそういう結論になりそうかい」

「そうね。個体差がない、条件に左右されない、反重力場の発生にぶれがない。しかも場の発生位置を前後左右いろいろに動かしてもびくともしないとなったらね」

 感心したように言って耳の間をぽりぽりかきながら、サツキは「ディケ」を台の上に戻す。

「しっかし、反重力発生装置ってこんな小さくなるもんなんだな」

「応用技術担当してる第四研究部の努力の賜物ねえ……私が入る前から苦労してたらしいもの」

 実はこの「ディケ」なるトランク型の装置、これだけで反重力場を発生し制禦することが出来る携帯用反重力発生装置なのだ。

 「アストレア」のシステムを使った反重力発生装置は、何もあの反重力プールで使われるような巨大なものばかりではない。中型や小型の装置もしっかり存在し、それこそ日常生活でも使われあちこちで目にするようになっているのだ。

 これにより、この世界では市民生活に大きな利便がもたらされている。

 一番大きいのが、高所からの人や物の落下事故が防げるようになったことだ。

 例えば工場や工事で高所作業を行う場合、足場や作業台の周囲に軽く反重力場を発生させ一部無重力状態を作っておくと、作業者の転落事故や工具・資材の落下事故が防げる。また鉄骨や特大の鋼板など重量のある資材を高所へ上げる際にも反重力場を作ってうまく制禦すると、落下が防げるどころか自分から持ち上がってくれることすらあるので上げやすくなるのだ。

 場所によってはこんなことにも使われる。屋上など露天の高所の周囲に常にある程度の強さで反重力場を発生させることで、人が入って転落しても押し返すことが可能だ。これは単なる転落事故だけでなく、飛び降り自殺防止にも効果を発揮している。

 むろん命綱をつけたり荷崩れしないようにきちんと縛ったり柵を整備したりと、物理的に安全対策を取ることは必須であるが、これだけでも随分落下事故が防げるものだ。

 このようなものなので、人命救助にも活用出来るのは言うまでもない。救助隊員を持ち上げて作業を補助したり瓦礫を取り除いたりけが人搬送を補助したりと大活躍し、助かった命は数知れぬ。

 また関連技術である光線欺瞞も、行政や企業などで頻繁に使用されている。専用の装置を使えば、立入禁止場所への通路や企業秘密となる物品を視覚的に隠すことが簡単に出来るからだ。しかも音波や電波なども遮蔽出来るので、何か音がする場合でも問題ないし、対応するレーダーでも使わないと見つからないと来ているため、事故や機密漏洩を防ぐことが出来て万々歳もいいところである。

 むろんこれだけ便利だと悪用する者が出るわけだが、見逃すほど警察も甘くないものだ。相手の反重力場制禦を無効化したり光線欺瞞を破ったりと対抗し、日々取り締まりに走り回っている。

 実はこの辺のことは、啓一が研究所に最初来た日に見た展示室にも解説があった。

 重力学の説明の難解さに煮つまってしまったのを見かねたサツキが途中で切り上げたため、見たのはこちらへ通うようになってからである。

「ディーゼル発電機くらいまで小さくしたのかよ……」

 展示を改めて見てやはり驚いたのは、これであった。

 百年ほど前から市販が開始された反重力発生装置は、年を経るごとに小型化が進んでいる。

「もっと小さくして、トランク型を実用化する予定でいるわ。ただどうにも調整が済んでくれなくてね、多分うちでも実験頼まれるかも」

 その言葉の通り、やって来たのがこの「ディケ」であった。なおこの名は「アストレア」と同一神とされる女神の名前に由来し、反重力発生装置開発時に必ず使われる開発コードだ。

「それにしても大変だよな。最終調整のためにまた初期実験の繰り返しだなんて」

「みんなうんざりしてるんだけどね……でもやらないと、いつまで経っても実用化出来ないのよ」

 実は正直なことを言うと既に「ディケ」はもうほぼ実用化の一歩手前まで来ているのだが、かなり長い間そこでくすぶり続けている。

 ここの発明品としては異例のことなのだが、その理由は、

「余りにも『ディケ』の機能が強烈すぎて制禦が難しい」

 このことにあった。

 ありったけの叡智をつめ込み、大型の反重力発生装置にしかついていないような機能まで盛り込んで造ったはいいが、設計者も驚くほどの万能かつ大出力の装置となってしまい、このままではじゃじゃ馬がすぎると研究所総出で調整中なのである。

 実際に危険と判断されて実験中に封印されてしまった機能も多く、四台造られた本体にはいくつかのスイッチに封緘がされているほどだ。

「うっかり怪物誕生なんて本当にあるもんなんだと思ったぞ、こいつの話聞いて」

「か、怪物って……確かに間違ってはいないけどね」

 啓一のもの言いに苦笑しつつ、サツキは壁のカレンダーを見た。

「あ、そうだ……明日から連休だけど、あなたどうする?」

「ん……市内に行ってみようかな、って。目的地は決めてないが」

 あれから啓一は、折に触れてサツキの案内を受けながら新星市内を見て歩いている。今では、大体街の構造も分かるようになった。

長治ながはるちょうの古本屋でも行ってみるかねえ」

 長治町は、地球の東京の神田神保町に相当する街である。

 同名だと混乱するため、「神保町」の由来となった旗本・神保長治じんぼうながはるの下の名前を取って命名したものだ。

「それとも……小説のねたでも探すか」

「さっそく動くのね」

「そりゃそうだ、二週間以内に頭を書き出してなけりゃいけないんだからさ。……とりあえず、残りの仕事仕事。やらにゃ始まらん」

 そう言うと、啓一はデータ整理の仕事を再開した。

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