二十八 街の灯り(二)
参集殿に集まった一同を待っていたのは、立食会であった。
市制記念日に関係者一同と家族が来ると聞いた百枝が、市民がこの日を狙って花見の準備に宴会の準備にと駆け回っているのを見て、せっかくだから便乗してぱっとやろうと企画したのだという。
「白桜十字詩」の話にちなんだ
「まあ細かいことはともかく……乾杯!」
実に百枝らしい音頭とともに乾杯すると、各人料理に手をつけ始める。
「しかしまあ、この街でこれだけしっかり宴会が開けるようになるとはな。仕出し業者もろくになかったとこに、新規で店開いてくれてありがたいったらない。……こういうとこを絶対に潰さないよう一生懸命使って成長させないとってんで、市民みんなでがんばってんだ」
「そりゃいいことです。どんどん経済回して行きませんとね」
「そうそう。前はかたぎの者が商売してもどうにもならないもんで、業者も店もないなんてのざらだったからさ。意地でもあんな状態に戻しちゃなんねえ」
事件前の緑ヶ丘の経済はほとんどが反社会的勢力と一新興国産業、そこにつながる不逞の企業や業者たちに掌握されていた。
このため一般人は商売がなかなか出来ない上、してもすればするだけ損をするという状態が続き、結果的に健全な発展が妨げられる状態となっていたのである。
それだけに、こうやって経済を正常化するためには力を惜しまないつもりのようだ。
「そういえば、周防通はどうなりました?あそこも荒れに荒れましたけど」
サツキが、ふと思い出したように訊ねる。
「手間かかったけど何とか復興したよ。……いやほんと、始末悪いなんてもんじゃなかったぜ」
「やっぱりそうでしたか。ライフラインが全面的に致命的な損傷受けてましたしね……」
大門周防通騒乱の現場の一つである周防通も、火のかからなかった南北両端のごく一部以外の家屋が全て取り壊され、住民による再建を待つばかりとなった。
だが、それを遅らせたのが電気やガスや水道などのライフラインの復旧工事である。電気の復旧は早かったものの、ガスや水道は都合三本の通りでペーヴメントを全部はぎ取って掘り込み隅から隅まで全部取り替えたため、一ヶ月以上にわたって道路が全く使えなくなってしまった。
また騒乱の元凶となった掘削跡を完全にふさぐ工事も、さらに再建を遅らせたという。何せ周囲を数十メートル掘る必要がある上、龍骨という基礎部分に触れるため、たとえ住民であっても余人を近づけるわけに行かなかったからだ。
このような事情からなかなか再建に着手出来ず、復興が桜通より遅れてしまったのである。
「鎮圧の際ご迷惑をかけたおわびに、マスターと私でお手伝いさせていただきました」
これは実際に現地で騒乱の鎮圧を手伝ったエリナであった。
「よかったんだぜ?不可抗力みたいなもんだし……」
「いいんですよ。せっかく技術ありますし、腐らせても仕方ありません」
こうやってどんどんと自分たちの持てる技術を提供しようという気持ちになった辺り、随分ジェイやエリナも変わったものである。
「あと残るは東郊外なんだよ。広い上に田畑がなあ……」
今回実質的な内乱の場となった東郊外の復興については、道路の修復やライフラインの復旧は何とかなったものの、家屋や田畑の被害が百ヶ所以上に渡っており、工事が間に合っていない状態だ。
住宅地より外に出れば出るほど被害が大きくなるありさまで、田畑の中には踏み荒らされたり土地がえぐれたり、ガソリンや薬品をまかれて土が全部駄目になったりと、数年単位で耕作が出来ない場所が大量に発生している。
下手をすると復興前に廃業する農家も出かねないほど厳しい状況で、補助金の支給や地産地消活動で一生懸命に支えている状態だ。
「それと龍骨出入口がいくつかぼろぼろで、欺瞞装置も新品に変えるって言ってるから……もしかしたら、近々またサツキさんや啓一さんに来てもらうことになるかもなあ」
「今度はきちんと役目を果たさせてほしいですね。こないだみたいなのはちょっと」
サツキが半年前のことを思い浮かべ、思わず苦笑する。
結局件の反重力プールに関しては、技術専門の第三研究部の研究員が出張った。
しかし次は、仕様を知っているということでまたこちらにお鉢が回ることだろう。
もっとも、今の緑ヶ丘なら喜んで行かせてもらうところだが。
「そういえば、大門町や南原はどうなってるのかしら?あの二ヶ所はその、犯罪の拠点になった場所だから……。あと公売にかかった部分も売れたのかしら?」
私兵のアジトがあった大門町、一新興国産業本社があった南原。いずれもいまだに立入禁止のままになっていると聞いている。
「そのままになっていますね。いずれは全て取り壊して土地も処分される運命ですが、手続きがややこしいんですよ。今年中にはと思いますが、もう警察の手の届かない場所まで行っちゃってますから確実なことは言えません」
答えたのはシェリルであった。
土地などの不動産をはじめ犯罪者の財産については、没収が定められているものを除きそのまま所有が認められているが、今回に関しては早々に整理されることが決定している。
「あと公売にかかった土地ですが、結局売れなかったそうです。次の公売で他の物件と一緒に売るつもりでしょうが……残念ながら、一般の個人や会社が買うとはまず思えないですね」
「そりゃそうだ、二軒三軒隣の家の地下で人体改造実験あったんだぞ。清香さんにゃ申しわけないが、気味悪がって誰も買わねえだろうと思ってたよ」
「でしょうねえ……」
「これから処分される土地だって、多分買いたいってやつはまずいないと思うぞ。兇悪犯罪者がもろに居座ってた場所なんだからぞっとしねえっての。誰が使おうと思うってんだい」
百枝が空の麦酒瓶を脇に避けながら、ため息をつくように言った。
普通の犯罪でさえ関係する土地にはけちがついて、長くその事実が亡霊となってつきまとう。
ましてや今回のように歴史に残るような犯罪となっては、それが永遠に消えることはないはずだ。
「……ただ、もしかするとだけど市が買う可能性があるんだよな。実は、犠牲者を弔うために慰霊碑を建てようって話があってさ。そんなら事件のあった場所に建てるのが一番だろうし。まだ案だからどうするのかは具体的に決まってないが」
「そういう話があるとは聞きました。四十一人も殉職していますので……もしこちらでも懇ろに弔っていただけるならありがたい話です」
シェリルがしんみりとした顔になって言う。
かなり大規模な殉職だったため、思うだに心が痛むと言っていたのだ。
「あと同じように、ヒカリさんの慰霊碑を単独で建てようって機運もあるみたいだ。ファンの人らが言い出してるんだよ。息がつまるような生活してた中で、心の支えだったからって」
ヒカリは事件後速やかに荼毘に付され、現在は新星の市営墓地に眠っている。
ファンの手によって常に香華が絶えることはなく、人気を超えた彼女の人徳を物語っていた。
「私も賛同している一人です。看取った以上、このまま何もしないでは気が済まなくて……」
エリナが神妙な顔で言う。元々自分の憧れの人物であり「推し」でもあったのだから、それくらい考えてもおかしくなかった。
「いずれにせよ、まだまだ先が大変ですね。俺たちとしても早く済むことを祈ってますよ」
「ありがとう。お上もまだまだ荒れてるからなあ、なるたけうまく収まってほしいもんだ」
百枝が言うのは、緑ヶ丘市当局の責任問題である。
今回、市当局は三件もの不祥事を立て続けに起こしていた。しかも全て直接的にも間接的にも市を滅ぼしかねなかったという、まったくもってしゃれにならないものである。
市長は引責辞任し、復興がある程度落ち着くまで副市長が市長代理を務めることになった。
そして不祥事を起こした都市保全部は、部長と不祥事を起こした職員が自主退職に追い込まれ、他の職員も左遷されてしまったという。
現在は新市長の許で復興が進められているが、元市長や元都市保全部部長たちを相手取って市民たちが損害賠償を求める民事訴訟を起こしており、まだまだ市政の混乱は収まりそうになかった。
「あそこまでのことになったのに、よく市が訴えられなかったもんですよね……」
「話はあったみたいだぞ。だがいかんせん復興の最中だからな。人ならまだしも行政ともめると工事が滞る可能性があるし、市長も変わって妥当な処罰が行われたしってんで、妥協してやめたって話だ。でも本心から引っ込めたわけじゃねえしな……のちのち禍根が残らなけりゃいいが」
そんなことを言っていると、奥で何やらどやどやと声がする。
「こら、あの人お客さんだよ!持って行ってもらったら失礼だろ!」
「す、すみません。余りに強くおっしゃったもので、つい」
その会話に思わず啓一が、
「あ、嫌な予感がする」
思わずつぶやいた時だ。
「みなさま、どうぞお飲みものを」
果たして思い切りメイドになりきった清香が、大きめの盆に麦酒や日本酒の瓶数本とグラスを載せて現われたのである。
「……あのさ、まだメイドしてんの、清香さん」
「はい……駄目だこの先輩、早く何とかしないととは思ってるんですけど」
「既に手遅れだと思いますけどね、俺は」
百枝がじとりとした眼になるのに、サツキと啓一が首を振った。
清香は帰京後、白鳥区の自宅に戻ってアンドロイドとしての暮らしを本格的に開始している。
ただしヤシロ家での生活により、基礎的なことは自己流ではあるものの会得していたため、最初から手取り足取り教えてもらわないといけないようなことはなかった。
しかし一方で都市での一人暮らしに戻ったことで、郊外で居候だったこれまでとは勝手が違う部分が多く生じて来ているのも事実である。こればかりはもうどうしようもないので、直義や夏美、ことによってはシェリルまで手伝っての生活訓練を行う日々が続いていた。
だがこんなことになっているにも関わらず、清香はやたら明るい。
緑ヶ丘にいた頃からそうだが、どうやらアンドロイドとしての暮らしを楽しんでいるようなのだ。
そしてメイド服を着て、メイドになりきる癖まで残ってしまったのだから困る。
さすがに研究所には着て来ないが、普段着がすっかりこれになってしまい、並んで歩くとサツキや啓一が主人だと勘違いされることも少なくなかった。
もっとも形はどうあれ、本人が前向きなのはいいことなのだが……。
そんな二人の視線を放っておき、清香は料理を口にした。
「それにしてもおいしいわねえ。実際に買ってたから分かるけど、ここの野菜とか農産品や畜産品はいいものよ。東郊外で作ってるんだけど、今までほとんど外に出荷してなくて知られてないの。いずれ出荷量を増やして、名産品になってくれるといいわね。被害に遭った生産者の人たちにとっては、何よりの救済にもなるし……」
「それはあたしも思ってるんだが、とにかく風評がある程度まで収まってくれないと厳しいなあ。まだ記憶に生々しすぎるぜ」
清香のほめ言葉に、百枝は微妙な顔つきとなって言う。
事件から半年、かつての「やくざと風俗の街」のイメージは消えたものの、今度は「内乱が起きた街」のイメージがついてしまい、これはこれで障害となっていた。
「事件が事件なだけになかなか難しいかも知んねえけど、そういう風評はなるたけ早くなくなってほしいもんだよ。こっちはもうこりごりだっつの」
緑ヶ丘市は「田園都市」という触れ込みではあるが、単立の地方都市というより大都市のベッド・タウンとして機能することも想定して作られた街である。
だが桜通の風紀紊乱が全国に知られたことで街ごと忌避されてしまい、市内に仕事を持つようなことでもない限り、一般市民が越して来ることがほぼなくなるという風評被害が発生した。
それを考えるとせっかく風評被害の元を潰したのに、また別口で風評被害に遭う羽目になるなぞというのは、市当局としても市民としても勘弁願いたいところであろう。
「ま、ここを汚してった連中が天誅食らって始末されたから、いずれはどうにかなるだろうが」
「まさに天誅というか、自業自得、悪因悪果もいいとこでしたねえ」
シェリルが麦酒を飲みながら、肩をすくめて言った。
松村逮捕後、この内乱事件に関わった者や組織は全て峻烈な制裁を受けている。
まず松村自身、検察官送致後に内乱罪の罪状が追加された。国内初のことである。
先にも少し述べたが内乱罪は高等裁判所が第一審であるため、松村は秋野高等検察庁に再度送致され、ここで起訴を待つことになった。
十二月一日、秋野高等裁判所に起訴された松村は、あくまで無罪を主張し続けたという。
だが悲しいかな、弁護人はこれを弁護するだけの
いや弁護するには余りにも罪が大きすぎ、被告人のたちも悪すぎたというべきであろうか。
何せ同じ無罪を主張するのでも、ふてぶてしく傲慢な態度を取るというのではなく、子供のように泣き出すのだ。やめるよう説得しても頑として聞かないためどうにもならず、泣きやむまで何度も休廷するなど大荒れとなったという。
傍聴した市民たちもみなあきれ果て、こんな幼稚な男に振り回されたのかと虚しい思いにとらわれる者も少なくなかった。中には裁判官がよく退廷命令を出さずにこらえられたものだと、妙なところで感心したという者すらいたというからよほどのことである。
もっともシェリルによると、逮捕時の大泣き以降一貫してこのような態度で、
「恐らくこちらが松村の本性なのではないか……?」
関係者はみなそう考えているそうなのだが、もしそうなら改まらないのも当然と言えた。
それでなくとも改悛の情がない兇悪犯罪者の弁護というのは、よほど滅茶苦茶な理屈をこねないと出来ないことが多いものである。
このため、松村の弁護は本人の態度もあって完全に支離滅裂な内容に終始した。当然、そんなものに裁判官が耳を貸すことはない。
果たして年が明けた二月十三日、松村に死刑判決が下った。
まだ最高裁判所への上告が可能だったが、内乱罪抜きでも種族転換禁止法の即極刑条項に六つも引っかかっているという、もはや死刑以外の選択肢がない状態である。弁護人も過去の判例から減軽の見込みがないと判断、被告人からも諒解を得たとして上告断念を表明し、判決確定となった。
どうせ最後まであがくだろうと思っていた人々は驚き、これ以上の弁護を嫌がった弁護人が松村を言いくるめて断念させたのではないかと噂し合ったが、密室の出来事ゆえ真偽は分からぬ。
これと並行して、人体改造実験に関わった者たち五名が種族転換禁止法違反で死刑判決を受け、さらには無期懲役や無期禁錮、懲役三十年や二十年という重い判決を下される者が次々と出て来た。
平沼は「暴動前の自首に限り刑を免除する」という規定により内乱関係の罪には問われず、他の罪も数が多くはなくいくつか減軽されたが、それでも懲役十五年の判決を下されている。
我々の世界の日本と比べると随分早いが、こちらが遅いだけでこの世界ではこれが普通だ。
当然、関連組織も無事で済むはずがない。
諸悪の根源たる一新興国産業には、破壊活動防止法が適用され解散命令が出た。
同法の適用には「今後破壊活動を繰り返す恐れがある」という要件が必須であるが、完全に反社会的勢力と癒着しているどころか、それなしでは成立しない可能性のある企業ではそう見るしかない。
この命令を受け、同社は解散を決定した。法的には取り消しを求めることも可能であったが、さすがにそんなことが出来るような立場では到底ない。
さらに規定により、強制的に事業も停止され財産の整理も開始された。先に本社の土地が早々に処分されると述べたのは、このような事情からである。
解散即消滅ではないため、一新興国産業は今も法人格を有してはいる状態だ。だがもはや手足どころか頭までもがれたに等しいありさまでは、外から見る分には消滅したに等しい。
しかも市民や市当局から民事訴訟を起こされ、数百億円、すなわち我々の世界では数千億円の損害賠償を請求されているのだ。どう考えても原告が勝訴する結末しか見えないので、残っている胴体も毛から皮から臟腑に至るまで全てもぎ取られ、塵も残らず消える運命が決まったようなものだろう。
桜通を蹂躙した張本人の橋井地所は、追徴課税による差し押さえで所有していた土地を全て失った上、既に逮捕されていた社長や役員とともに法人税法違反で告発された。
こちらも、市民や市当局から損害賠償を求める訴訟を起こされている。双方ともに裁判中のためどうなるかは分からないが、最終的に待っているのは何にせよ破滅しかないのは確かだ。
平沼が社長を務めていたホソエ技研は、一新興国産業の悪事に関与したということで取引先が次々撤退、干上がって緑ヶ丘地裁に民事再生法の適用を申請している。
反社会的勢力は小さな団体は潰滅、大きな団体も大量の逮捕者を出すなど大きく勢いを殺がれた。
極左暴力集団も幹部の逮捕により基盤ががたがたになったばかりか、駄目押しに破壊活動防止法が適用されて解散命令が下り、ほぼ潰滅することが確定している。
結局、松村に関わった団体はおしなべて地獄の釜の底へ突き落とされたわけだ。
秋野拘置所に収容された松村は、昼には部屋の隅でずっと膝を抱えて座ったままぶつぶつと小声で逆怨みを言い続け、夜にはわあわあ泣きわめくという奇行を繰り返し醜態をさらしていたという。
そして、連邦暦一六三年四月二日十二時五分。
秋野拘置所において、松村の死刑が執行された。
最後まで他人に罪をなすりつけ続け、泣き叫びながら縄に
あれだけ人々を震撼させ、街一つを潰しかけるほどの大被害をもたらした兇悪犯罪者の末路とは思えないほど、みじめで無様極まりない最期だった。
「かなり判決から執行まで早かったよな。うちの世界じゃ『判決後六ヶ月以内に執行する』って規定が一応存在するのに、十年以上塩漬けとかざらでやってたんだぞ」
「やっぱり国民感情ですよ。国家だけじゃなく、実質的に全国民を敵に回したわけですし。そりゃ早く始末しろとせっつかれますって。捕まえた私たちも、これはかなり早いだろうと予測してました」
殊にヒカリのファンには烈しい憎しみを向けられ、早期執行の嘆願書が提出されたほどである。
ただそんなことをしなくとも、法務省ははなから執行を引き伸ばす気はなかったのだが……。
「ま、いずれにせよ残念でもなく当然だわな。一日生きれば一日誰か泣く、そういう野郎だったんだから。始末されるべくして始末されただけのことだぜ」
百枝はそう言って愉快そうに笑ったが、ややあって、
「でもなあ、あの野郎がいなくなったからって全員が全員幸せになったわけじゃないんだよなあ」
ぽつりと寂しげに言った。
「特に勝田さんさ。あの松村を保護した人」
「……そういえばどうなったんですか?俺も訊こうと思ってたんですが」
「あれから入院して暮れに退院はしたんだが、そのまま周囲に何も言わず引っ越してったらしい。見た感じ立ち直りかけてたから、すっかり油断してたよ。大丈夫だと思いたいんだが……」
百枝がこのことについて知ったのは、年明けのことである。
もしもっと早く知っていたなら、何らかの相談に乗ってやれたかも知れなかったのだ。
十年以上松村に振り回されたこの老翁こそ、本当に幸せになるべきであったろうに……。
そんな無念さが、言葉のどこかににじみ出ていた。
百枝は一つ首を振ると、沈んでしまった空気を払拭するように、
「心配しても仕方ない、信じようぜ。ほら、もっと呑め呑め」
明るい声と顔でみなに酒と料理を勧める。
「あ、麦酒いただけますか」
「シェリル、お前さん結構呑むんだな。……見てるとこれいいのかって気分になるんだが」
「失礼な、私は成人してるから問題ありません。年齢の計算法は知ってるでしょう」
むすっとしながら、手にした麦酒を飲み干した。
アンドロイドも酒や煙草は二十歳からという規定だが、シェリルは三十歳なので全く問題ない。
しかしそれでも外見は中学生なので、何ともいえずちぐはぐなものがあった。
「啓一さんって呑まねえのか?」
「あ、倉敷さんは知らないですよね。俺って下戸なんですわ。麦酒一杯でぶっ倒れます」
「大変ですね……。晩酌配信しても今までおつき合いは無理だったんですか」
これは、エリナである。
「そういうことなんですよ、俺はお茶です。楽しいですけどね」
「エリナは酒あんまり呑まないふりをしてるが、結構酒豪だぞ?だからそれも売りにしたらどうかなんて言ってるんだけどね」
「マスター!そんなこと出来るほど呑んでませんよ!」
ジェイが笑いながら言うのに、エリナが思い切り抗議した。
片手になみなみと日本酒の入った枡を持ったままでは、まるで説得力がないが……。
「……勝山さん、生活が乱れすぎですよ?今回は仕方ありませんが、いつもエナジードリンクばかり飲んでいると聞いています。あれで倒れた人も随分いるんですよ、分かってますか?」
「う、うん、分かってるよ……気をつけてるから」
「いいえ、そう言う人ほど当てにならないんです。まずはきちんと睡眠を……」
こちらでは、瑞香が麦酒片手にすわった眼つきで宮子に説教をしていた。
宮子がちらちら眼で助けを求めているが、みんなさっと避けてしまう。
「あー……オタ猫、瑞香に捕まっちまったか。あいつ酔うと説教始めるんだよ」
「か、からみ酒ですか、林野さんが……見かけによらないもんですね」
「酒癖の悪さは困るわよねえ。うちの亭主は泣き上戸で、私何かいじめたかしらって気分になるの。息子までそれだから、真島の家系の遺伝なのかしら」
「ああ、お父さんとお兄さんですか……」
ハルカがげっそりとした顔をするのに、啓一が遠い眼をした。
サツキの父・
もっとも二人とも地球に行っているとあって、一番最初に話したのは同居してすぐの頃、電話越しでのことであった。同居についてどう言われるかと戦々兢々としていたら、やましいところがないと思われたのか実に好意的で、安心しつつも気が抜けた覚えがある。
実際に顔を合わせたのはこの正月に実家へあいさつに行った時で、先のような互いの心証のよさもあって料理を囲んで酒など呑みながらの平和な歓談となった。
だが一時間ほど経った頃、サツキの昔の思い出話を泪ながらに延々と語り始めたかと思うと、
「啓一君!うちの娘を連れて行かないでくれたまえ!!」
「妹よ、行くなあ!!いくら
突然とんでもないことを言い出し、おいおいと大泣きしながら迫って来たのである。
「……あれは本気で困りました。別に連れて行かない、どこにも行かないと二人で言っても聞かないんですから。結局ハルカさんがなだめてくれましたけど」
啓一が頭を抱えるのに、容易に光景が想像出来たらしく、
「ああ、薫のやつと匠君はひどいな……地球でへまやらかしてないだろうな?」
「先輩だけでも大変なのに、親子でこれはもうね。ハルカはよく相手してるわよ」
直義と夏美が深いため息をついた。
「ねえ、シャロンさん。お酒って怖いですね……」
「うん、ちょっとね。私も戸籍上成人の扱いなんだけど、あんまりたくさんはやめとこうかな……」
葵とシャロンがひそひそとそんな話をするのをよそに、直義は苦笑しながら麦酒を傾ける。
「……まあ酒癖云々は右に置いても、二人とも予想通りのこと言ったって感じだな。そりゃそうだ、そのうち連れて行かれかねないんだから」
この発言に、啓一はのどをつめかけてしまった。
「ちょ、は、博士!やめてくださいよ!」
「ですよねえ、その言い方じゃ駆け落ちするみたいじゃないですか」
夏美があきれたように言うのに、啓一はぶんぶんと手を振る。
「そういうことじゃなくてですね、俺とサツキさんは何もないんですよ。お二人ともたびたびそういうことおっしゃいますけど、ないものはないんです」
「……え、ちょっと待った。今もなのかい?」
「いやそれ、本当に……?」
直義と夏美が眼を点にして、ぽかんとしながら言った。
「本当にありませんよ、相変わらずただの居候ですって」
啓一がぽりぽりと頭をかきながら言うのに、直義と夏美は一瞬唖然とした後、
「あちゃあ……」
「うーん……」
頭が痛いと言いたげにつぶやく。
「何度も言うようだが、ほんとにそうなってもおかしくないと思うんだがなあ」
「いえ、そんなうまい話あるもんじゃありません。そもそも半回り以上年上のおじさんなりかけ、下手するとおじさんでもいい歳の男なんですし」
「あの事件の時、あれだけ颯爽と助けといて……あれは歳関係なくかっこいいと思うんだが。そのままトゥルー・エンド一直線でもいいところだぞ」
「いい加減その話は勘弁してくださいよ、かっこつけすぎたと恥ずかしくて仕方ないんですから」
本気で恥ずかしがって半面を覆いながら言うと、啓一は助けを求めるようにサツキの方を向いた。
だがそこでは、なぜかサツキが顔を赤くして固まっている。
正月の時に屠蘇を何杯もあおって平然としていた彼女が、麦酒や酎ハイを少々呑んだ程度で顔を赤くするのはいかにも面妖だ。
啓一が
「お、おいおい……」
一見すると一休みに飲んでいるように見えるが、量がいささか多い。
ほとんど酔わないはずなのにこれでは、さすがに啓一も眼をしばたたかせるしかなかった。
「うわ……本当にまだだったのか」
「みたいね。これがうちの子なら発破かけてやれるんだけど……」
二人に聞こえないようあきれた声で言うと、直義と夏美は日本酒に手を着ける。
誰かの水割りに入った丸氷が、溶けてからりと音を立てた。
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