三 天河通五番町(二)

「こ、こりゃあ何だ……」

 見学者用のIDカードで無事「反重力プール」の建物内に入った啓一は、固まったまま言った。

 さもありなん、いきなりとてつもなく巨大かつ天を突く高さの透明の円筒が出現したのである。しかも少し離れた外周を機械むき出しの壁に囲まれ、その一部が円筒に接続しているなど、まさにこれぞ「未来」と表現すべき姿だ。

「やっぱり最初は驚くわよね、これ。何せ直径百五十メートル、高さ四十メートルだから」

「おいおい、下手なビルがすっぽり入るじゃないかよ」

「そうそう。移転直前はこれが何本かあってぎちぎちだったらしいわ。今はこれとこの半分くらいのが二本あるだけだけど、それもそれなりの大きさがあるから、現在でもまだこの区画……つまり天河通五番町七番地は丸ごと実験棟になってるありさまね」

「おっそろしいなあ」

 そんなことを言いつつ上を見上げてみると、確かにぷかりぷかりと人が何人も浮いていた。つまりこの中が、重力場と反重力場の組み合わせで無重力状態に調整されているというわけなのだろう。

「この中が無重力状態ってのは分かったが、肝腎の機械はどこにあるんだい」

「床下にあるわ。隠れてるから本体は見えないわよ」

「じゃあ、周りの機械は……」

「あれは、何かあった時のバックアップ機器や救助装置ね」

「ああ、なるほど。確かにいかれたらしゃれにならないからな……使ってるものがものだけに、墜落するだけじゃなくて上にすっ飛んでく可能性もあるわけだし」

「ええ。一般開放でいろんな人が来るから気をつけないと……」

 この世界において、反重力プールの用途は実にさまざまなものだ。

 宇宙飛行士など無重力状態で働く人々の訓練はもちろんのこと、スポーツや運動にも用いられる。

 また気まぐれに娯楽として遊泳をしに来る人も多く、さらにはちょっとした観光地として市内観光の団体客が来ることすらあるというから驚きだ。

「使い方は違うが、本家のプールと同じだな。やっぱり競技もあったりするのかい?」

「あるわよ。中央区のお隣、水瓶みずがめに国立の専用競技場が造られてるわ。水泳と同じく、それなりに知名度と人気はあるわね」

 水泳感覚で無重力遊泳。そんなことが出来る辺り、やはりこの世界の技術は大変なものだ。

「……あれ?遊泳教室やってるわね。ええと」

 上を見たサツキは、空中ディスプレイを呼び出してスケジュールを調べ出す。

「あっちゃ、かぶっちゃった。でもあれあと十分で終わるから……そこらで座って待ってましょ」

 そう言うと、プールの下にあるロビーの椅子に座った。

「そういや俺が来る前……六月末だったかに、研究所の紹介にUniTuberを使う話が出てたって言ってたな。何でそんな人を引っ張って来るのかと思ってたら、こいつの宣伝をしたかったからかい」

「実言うとそうなのよ、有名人が体験する方が絵面がいいじゃない。それで雰囲気が合いそうな人とかを考えてエレミィさんに声かけてみたんだけど、あっさり断られておじゃんに」

「もったいないな。もし実現出来てりゃ、今頃世間の注目のおこぼれにあずかられただろうになあ」

 二人が言う「エレミィ」とは、おとつい啓一が偶然発見したあの女性UniTuberである。

 実は昨日サツキが出勤した後、啓一は彼女の自己紹介動画を見て気に入り、これまでのアーカイヴをざっと見ていた。

 それを夕飯の時に話したところ、サツキも大ファンだと知れたのである。

「飾らなくて落ち着いててまさに清楚、そしてどこか神秘的。あのゆったりした白のワンピースとか、服装もとっても清純なイメージだしね。しかもアンドロイドだって話だから、さらにイメージ的にも合うかも……そう思ったんだけど」

「そういうのはやらないことにしてるって言われたらなあ、どうにもならんよ」

「ええ……」

 サツキにしてみれば公然と自分の「推し」に会えるかも知れないという期待感もあったのだろう、露骨にしょげていた。仕事なのにいささか不純ではあるが、気持ちはよく分かる。

 それにしても国立研究所から出演を依頼されるなぞ、企業に所属するUniTuberでもそうないことと聞くのに、それを蹴るとはこれいかにと思わないでもなかった。

 黙っていても人気が増して行く身分とはいえ、ファンを獲得する機会はやはりほしいものだろうに、何かよほどの理由でもあるのだろうか……。

「しかもこれ、最初は暁ヒカリさんと共同出演の案もあったのよ?でも、あの人はあの人で事件に巻き込まれて、あんなことになっちゃったし……」

「まだよく知らないんだが、拉致だって?穏やかじゃねえよなあ」

 暁ヒカリは登録者数二十万人の個人UniTuberで、地道な活動で人気を獲得することに成功し、この世界ではそれなりに名の知れた存在だった。

 このため出演者候補として初期に名前が出ており、華がある方がいいと共演の方向で話を投げようという話になりつつあったのである。

 だがその本人は、何と七月中頃に新星の自宅近くで兇漢に襲われ拉致されてしまった。

 それから二ヶ月近く、警察の必死の捜査にも関わらず一向に犯人の目星もつかず行方も知れない状況が続いており、ファンはいたく心を痛めているという話である。

「……おいおい、女性連続失踪事件といい、この世界の治安大丈夫なのかい?」

「大丈夫、大丈夫よ。今年が普通じゃないだけだから。私たちだって困惑してるし……」

「住民が言うならそうなんだろうが……うーん」

 そんなことを話しているうちに、わらわらと出口から人が出て来た。

 全員運動着姿なのを見るに、本当に日常の運動感覚で使っているらしい。

「俺たちもあんな格好の方がいいのかね?」

「いえ、普通の服装でも大丈夫よ」

「待った。上着やスカートってまずくないのかい」

 何せ無重力状態なのだから、動いただけで留めていないものは全て浮いてまくれ上がるはずだ。

 いわんやスカートをや。マリリン・モンローの映画ならべっぴんさんのお色気だと陽気に笑っていられるが、一般人でそれはいかにもまずかろう。

「それはよく言われるけど、防止策があるから」

 そう言うと、サツキはバッグからいくつか大きなクリップのようなものを取り出した。

「これを使うの。私は上着とスカート両方だから数いるけど、啓一さんなら上着の裾につけるだけだから、それこそ前後左右に四個で何とかなりそうね」

 そう言いながら素早く取りつけるのにならい、啓一も指示通り上着につける。

 サツキはそれに加えて、腰に何やら小さな無線機のような装置をつけた。

「荷物は持ち込み禁止だよな?無重力状態だし、どこすっ飛んでくか分からないだろ」

「そうね、さすがにしまってもらわないと」

 話しつつバッグをロッカーに押し込めると、二人は「下出入口」と書かれた扉へ向かった。

「入口は上、真ん中、そしてここ下と三ヶ所になるわ。ただし上や真ん中は、数十メートル下丸見えだからいきなりはね。初心者は、下から浮かび上がって中継点に使うとかするのがせいぜい」

 扉を開けると、本体へと続く通路が現れる。

「反重力場と重力場の組み合わせで作ってるってことは、普通の無重力状態と違っていきなりすぽんと浮いたりするのかい?反重力場って均一に発生するんだろ?」

「普及型の発生装置ならともかく、ここはそんな融通のきかないことはないわよ。立てるように下だけ反重力場を消して、重力を残すようにしてあるわ。それに作り方が違うだけで、普通の無重力状態とまるで変わらないわよ」

 サツキは一つ苦笑しながら言う。

 「アストレア」は反重力場の発生場所を装置から見て前後左右に偏らせたり、発生点ごとの強さをさまざまに変えるなど実に多様かつ器用なことが出来るため、下だけ反重力場を消すなぞ朝飯前だ。

 研究所の大小の実験装置はもちろんのこと、一部の市販の反重力発生装置の中にもこれに準ずるような機能を持つものがあるため、このようなことは思ったよりもよく見られる。

 話を元に戻そう。

 入口の自動扉を抜けたサツキは、

「このまま入った先の床を蹴って上向きに飛ぶと、そのまま浮くようになってるの。念のため手を握った方がいいわ、初めてだしね」

 そう言って何と手を握って来る。

「慣れない人だと重力場に捕まって進めなくなったり、逆に反重力場に捕まっちゃって勢いよく飛びすぎたりしちゃうから。片方だけに捕まったら抜けるの難しいのよ」

 理屈は通っているが、既に重力を無視し相手が顔に血を上せているのには気づいていないようだ。

 そのまま二人はプールの下に入る。心なしか、足が軽くなったようだ。

「行くわよ、しっかりつかまって!いっせーの、せっ!」

 中央に来たところで、一気にサツキが上へ向けて踏み切る。

 瞬間、重力が抜けた。

 妙な言い方であるが、まさに「抜けた」のである。

「なッ……!」

 無重力状態で物体に力がかかると、止める力がはたらかない限り慣性のまま無限に飛んで行くのは知られていることだ。

 そのまま一気に、二人は十メートルほどの高さまで急速に上って止まる。

 どうやら止まるこつでもあるらしく、うまくそこで静止してふわふわと浮いていた。

「……信じられん」

 下を見て、上を見る。一瞬恐怖を覚えたが、落ちないと思った瞬間何でもなくなった。

 が、上をもう一度見てまずいことに気づく。サツキのスカートの中が、丸見えだ。

「うわッ!……って、ありゃ?」

 そこにあったのは、暗闇である。黒いのではない、真っ暗闇なのだ。

 それ以前にまくれ上がっていない。一体これはどうなっているというのだ。

「種明かしの時が来たみたいね」

 反応を予想していたのか、サツキはいたずらそうに笑う。

「これ、中が見えないのは『光線欺瞞』っていう技術によるもの。光をねじ曲げて一定の空間を見えないようにしちゃうの。暗闇にするだけじゃなくて、周囲と同化させることも出来るわ。さらには音波や電波もねじ曲げて消せるの」

「おいおい……そんなもん仕込んであるのかい、そのスカート」

「スカート本体というより、この腰のやつね。私みたいな格好で入っても見られないように、あらかじめ調整したのを貸し出してるの。こんな出力の弱いのじゃ暗闇にしか出来ないし、欺瞞の範囲もたかが知れてるけど……目的を考えれば充分よ」

「まあ、最初から真っ暗なら出歯亀ものぞけまいが……。まさかそのためにブラックホールみたいなもん発生させるとは思わなかったぞ」

「確かに原理を拝借してはいるわね、あくまで危なくない方向でだけど」

 さらっと言うが、よく考えると結構恐ろしい話だ。いささか物騒だと思わず身をよじる。

「あともう一つ、上着やスカートがまくれ上がっていないことについても説明しないと。実はこれ、周囲に局所的に重力場が発生してるのよ。だからほら、こうなる」

 言いつつすっと裾を軽く持ち上げると、果たして元の場所にぱたりと落ちた。確かにこれは、重力下での動きと全く同じである。

「これは『選択的重力調整』って技術。反重力場の中で特定の物の周囲だけに重力場を作って、重力下と同じ挙動をさせることが出来るの」

「ああ……もしかしてさっきの装置でそれ発動させてるのかい?」

「そうそう、あのクリップみたいなのでね。服とかの裾につけておくと、まくれないで済むのよ」

「はあ……重力学、恐るべし」

 これには啓一も、さすがに舌を巻かざるを得なかった。

 人にとって未来永劫ついて離れないはずの重力を、こうもいとも簡単に手玉に取るとは……。

「これって便利よ。もっと出力が強いのを使えば、反重力場の中で自分だけ立つことも可能になるの。実験中に自分が浮いちゃったら世話ないしね」

「ああ、分かる。まるでコントになっちまうもんな」

「ただそういう特殊な用途のものだから、高価で普通には売ってないのよね。だから持ってる人はめったにいないわ。研究者は仕事道具だから常に持ち歩いてたりするけど……」

 さっき筆記用具でも取り出すように自然に出していたが、あれはどうやら特殊なことのようだ。

「マイ・ボールみたいにマイ・マシンはないってか」

「何それ、変な言い方ねえ。まあそういうことよ、要は」

 おかしそうに笑う啓一に、サツキもつられて笑う。

「上の方まで行ってみましょ。ある程度上まで行って、あおむけかうつぶせになりながらふわふわと下りてくのがお勧めの楽しみ方よ。衝突注意だけど」

 そう言いつつ、空間をぽんと蹴りさらに上へと上がった。

 実によく上がるもので、同じようにやってみるとたちまち三十メートル地点を通過する。

「ストップ。上から五メートルは出入りする人のために、無駄に上がらないのがマナー」

 三十三メートル地点で啓一の腕を軽くつかんで止めると、サツキはくるりとあおむけになった。

 啓一もそれにならい、下を確かめてからあおむけになる。

 浮遊感が、何とも心地よい感じだ。

 サツキもこれが好きなのか、黙って身をまかせている。

「……ねえ、啓一さん。何だか、ごめんなさいね」

 ややあって、サツキが申しわけなさそうに言った。

「ごめんなさいって……?」

「今、ふと思ったの。この世界に慣れてもらおうと思ってのこととはいえ、一方的に情報の洪水浴びせてなかったかな、って」

「いや申しわけないのはこっちさ、せっかくの休日に手をわずらわせて」

 そう言って、啓一は少し顔を暗くする。

「……今の俺の知識なんて、こっちじゃ恐らくろくに役に立たないだろうからな。このままじゃ一生暮らすなんて夢のまた夢じゃないか。頭にたたき込まれるくらいの方がいい」

「え……」

 自嘲するような啓一の言葉に、サツキは驚いたような声を上げた。

「だってそうだろう?異世界なんだから、たとい地球があろうが日本があろうが、絶対にいろいろと違っているはずだ。歴史、文化、思想、学問、技術……あらゆるものがね。大体、人間以外の種族がいる時点で既に違ってなけりゃおかしいはずだ」

「………」

「しかも、共通点と相違点がまだらなんだろ?同じことがあっても少しだけ違います、複雑にからみ合ってます、ってことになるんじゃないのか。ちょっとの違いといって馬鹿にしちゃいけない、大きな違いより場合によっちゃ怖いんだ。その累積が、最終的に大きな違いをもたらす可能性だって充分にあるんだから。そこまで深刻な事態をもたらすことじゃなかったとしても、知識を出したら間違ってましたなんてのがいつ何時起こるか分からない。地雷原を歩かされてるようなもんだ」

 違いが小さくとも、局所に留まり他に影響もないというのならそこだけ修正すれば何とかなる。

 だがそのために関わるものごと全体の流れが大きく変わってしまい、最終的にあさっての方向に到達するようなことになってしまうと、それ以降の知識は無効となってしまうのだ。

 世界間の相違点という大切なものが、影響や深刻さの程度が分からないままゲリラ的にあちこちで噴き出して来るというのだから、とてもではないがたまったものではない。

 極度の緊張を強いられながら、いつ自分の知識が役に立たなくなるか震え続けるしかないのだ。

「学問一つ取ったって、ややこしいことになってるはずだ。君の専門分野でいえば、重力子が見つかって重力研究が単独学問になってる時点で既に違いすぎてる。そうなると関連する量子力学や素粒子学、さらには物理学、果ては科学全体に相当な違いが及んでるんじゃないのか」

「……それは、そうだけど」

「それでも専門外ならまだ右に置いておける。だが自分の専門分野はどうだ?俺は文学部で日本上代文学専攻だったが、この世界にそもそも同じ古典や文学作品があるとは限らないし、あってもどう受け止められてるかなんて分からない。歴史も学問趣味問わず得意だが、違っていればそれでおしまいだ。文化も、芸術も、全てそうかも知れない。せっかく学問していろいろ身につけて来たのに、全部役に立たなくなる可能性があるんだ」

「………」

「俺は、自分で言うのも何だが知識に頼って生きて来た。それが実質歯抜け、最悪失われたも同然になるんだ、こんな残酷な話はない。俺から知識抜いたらほぼ抜け殻みたいなもんなのに……」

「そんな……!」

 驚いてサツキがこちらへ顔をを向けるが、啓一は構わず話し続ける。

「君が逆の立場になったらと考えてみなよ。もっと悲惨じゃないのか?この際種族違いはおくとしても、重力子が発見されていない世界だ。従って君の学問は成立しないし、当然知識も全部無駄になる。一生懸命説いたところで、何だこの食わせ者と嗤われるだけ。研究者として屈辱じゃないか?」

「………」

 その通りだった。前提があるからこそ学問は成立するし、知識も意味を持つ。その前提が消滅すれば、その時点で全てが潰滅してしまうのだ。

「知識は子供の頃からの累々とした積み重ねだ。それがほぼ無効となったら、自分が今まで一生懸命学んで来たことは何だったんだ、って思うのが人情じゃないか?」

 ふわりふわりと落ちて行く。既に高さは、二十五メートルまで下がっていた。

「それに……俺はあっちに全てを置いて来ちまった。親や親戚や知り合いといった人、思い出の品や原稿や資料みたいな物……そして、夢も目標もな」

「………!」

 啓一の口から出た言葉に、サツキは息を飲む。

「俺はね、小説家になりたかったんだよ。そういう者にとって、今まで書いて来た原稿を失うのは耐えがたい。書かない人は『小説なんてまた書けばいい』って思うかも知らんが、違うんだよ。その時々の気持ちによるからね、二度と同じ文章は書けない。さらに言うと物書きは自分が知らないものはまず書けないから、知識が役に立たなくなった時点で詰む。こんなのが重なったら、そりゃもう夢も目標も消えたようなもんだよ」

「………」

「ああ、神がいるなら本当に斬り殺してやりてえ。チェーンソーなんてぬるいや、日本刀で唐竹割りだ。まあ、神も仏もないからこそこんなことになってるんだがな……」

 それきり、啓一は黙り込んだ。高度は既に十三メートルまで落ちて来ている。

 サツキは何も言えなかった。何か励ましの言葉をかけたところで、それは「この世界の住人」という安全圏からの安っぽい慰めに帰してしまうことは、彼女にも充分理解出来る。

 結局五メートルまで来て躰を起こすまで、二人は言葉を交わすことはなかった。

「……すまなかった、ぐじぐじと女々しいことを言って。言われたって困るもんな」

「いえ、いいのよ、気にしないで」

 そう答えるが、声に元気がない。

 あそこで余計な気なぞ使わねば、彼の中にたまった鬱々たる感情に火がつかなかったのではないかと思うとやりきれなかったのだ。

『お客様にお知らせいたします。当プールは、本日十五時半より十六時半まで貸切となります。その間一般の方はご利用出来ませんので、速やかにお手近の出口よりご退出ください……』

 それに合わせたかのように、入れ替えを伝える放送が入る。

「行きましょう。三メートルまで来てるから、そこからすとんと」

 サツキが思わず手を出すが、啓一はそれを取ることなくすり抜けて下りてしまった。

「……さてと、行かないとまずいな。今日はこれからどうするんだい」

 虚しく手を差し出したままのサツキに向き直って、啓一が問う。

「え、あ、特に何も……鍛冶通の商店街でお夕飯の材料を買おうかと」

「じゃ、同道するよ」

 そう言って啓一が出口へ向けて歩き出すのを、サツキはただ悄然として追うしかなかった。

 窓の外を六郷前へ向かう電車が、せんから青い火花を飛ばして走り過ぎて行く。

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