三 天河通五番町(一)
街角の交番で、さらさらと書類が書き上げられて行く。
氏名欄には「
「行方不明者届出書」――いわゆる「捜索願」である。
(待ってくれ、そんなもん出さなくてもここにいるっての!)
頬のこけた顔で警察官へ書類を提出する両親に、横合いから啓一が叫ぶが、全く聞こえていない。
そうしているうちにいつしか周囲は自分以外モノクロームとなり、無声映画のごとくただただ映像がつながって流れ始める。
捜索用のポスターが電信柱に貼られ、あるいはそのままだんだんと風雨にはがれ落ち、あるいは下品な金融屋の張り紙やピンクチラシによって隠されてずるずるにはげて行く。
父母はどんどんと老け込み、そのかたわらで自分の写真がこれもまたどんどんと急速に色あせる。
唯一、片づけられて箱づめになった自分の私物だけが、納戸の中でもの言わぬままに変わらぬ姿をさらしつづけ、朝な夕なに「失踪」の現実を突きつけて来る。
それを見る両親が何か言うが、もはや聞こえない。
その代わりに画面が暗くなり、
「『――ああ、捨てられない。忘れられないよ』」
まさに無声映画のテキスト・ショットそのままに、手書きのせりふが入った。
すっかり腰が曲がりきり頭も真っ白になった両親と、明らかに老け込んだ親戚知人たち。
「そう言ってみたところで、失踪した子は帰りはしない」
活動弁士とおぼしき誰かの声が、厳かにそう語る。
(黙れ!俺は生きてるんだよ、帰れないだけで生きてるんだよ……!!)
だが、その叫びを嗤うかのように画面は暗転し、からからと映写機のリールが空回りする音だけが延々と響き始めた。
(やめてくれ、やめてくれ、やめて……くれ……)
そう泣き崩れた瞬間だ。
はっと意識が戻る気配がし、木の天井が眼に飛び込んで来る。
「夢、か……。とんだ陳腐なお涙ちょうだいだ」
そうつぶやいて周囲を見回すが、いくら見ても自分が居候している真島家の部屋でしかなかった。
「しかもキネマ仕立てって何だよ。『蒲田で見飽きた』とこき下ろされるわ」
戦前、松竹蒲田撮影所の作風を引き合いに出して、実際に映画雑誌でけなしに使われた言葉とともに力ない笑いを浮かべる。
「ああ、いかんいかん。こんな不景気な面してたら、サツキさんに申しわけないじゃないか……」
そう言って啓一は首を思い切り振った。
「せっかく休み割いて街を案内してくれるんだから、今はそっちに集中しよう」
朝食を食べた後、啓一はサツキに連れられて街へ出た。
そんなに自分の街を紹介出来るのがうれしいのか、サツキはやたらに張り切っている。
白の丸襟ブラウスにショート・ジャケット、下は少々しゃれたスカートと、最初に会った時と違い完全に外出着だ。バッグもおとついとは変わっている。
一方啓一は、支給してもらったポロシャツをさっそく着込んでいた。もっともズボンは裾つめがいりそうなので、今日は転移時にはいて来たズボンをはいているが。
「……何だか元気なさそうね。大丈夫?」
啓一の顔色が余りよくないのに、サツキが心配そうに訊ねて来た。
「いや、大丈夫さ。このところ、朝が少々弱くなってるみたいでね」
まさか「悪夢に思い切り心をえぐられた」なぞと言えるわけもないので、そうごまかしてみせる。
「ならいいんだけど」
いささか納得が行かないような表情であったが、サツキは歩みを進める。
そして大通りへ出たところで、立ち止まって説明を始めた。
「新星市では一部を除いて、黄道十二星座をはじめとする有名な星座の名前を区名に使ってるの。うちの区は『
天秤区は、市の北東に位置する区である。
ごくわずかに繁華街のある「中央区」に接しており、そちらとの人の往来も多いという場所だ。
「昨日調べたけど、ここの町名って中心部は通り町形式なんだな」
「ああ、知ってるのね。通りに沿って町が展開してるやつ」
「通り町」の利点はむやみに幅広く地名が広がっていないために、町名を聞いただけである程度場所が分かってしまうことである。計画都市としては賢い選択だ。
「中央区から来る南北の目抜き通り沿いが『
空中ディスプレイを出して地図サイトを開くと、すっと指で通りをなぞる。
「……ん?丁目表記じゃないのかい、『天河通』は」
「そこは特別。
とりあえず鍛冶通を、とサツキの先導で北へ歩き始めた。
おとついは未来的な建物ばかりだと思っていたが、よく見ると二十一世紀で見るのと余り変わらないような建物もぽつぽつとある。
通りには電車も通っていた。電車が荒川線のみを残して全廃された元の世界の東京で暮らしていた啓一には、首都を走る電車の姿は余りにも新鮮なものである。
「昨日調べた限りじゃ、交通は全部電車らしいな。鉄道や地下鉄の類がないとはね」
これは意外だった。首都の市内交通が電車中心なのは欧州でもあることなのでまだいいとして、鉄道や地下鉄が全くないというのはさすがに珍しい。
「この街って意外と広くないから、それで済んじゃうのよ。この周辺から市庁や官庁街まで十五分、一番遠い空港だってせいぜい三十分だもの」
「……旧東京市十五区とどっこいかちょっと大きいくらいかね、それで済むってんじゃ」
「比べたことないけど、多分そうじゃないかしら」
そんなことを言いつつ進むと、「天秤広小路」と標識を掲げた信号のある大きな交叉点が現れた。
「ここが中心部。直進した奥が区役所とか役所の集まるとこよ。右折して分かれる天河通には、技術関係の会社の他に国立や私立の研究所が並んでるわ。私の勤めてる研究所もここの並びなの」
なるほど東へ通じる道を見ると、いかにもそれらしいビルが櫛の歯を並べているようだ。
そしてやはりというべきかここで電車も分岐しているようで、交叉点を三方からはさむように「天秤広小路」という名の電停がいくつかある。
「せっかく電車の分かれるとこまで来たし、通る系統と行先も教えちゃおうかしら。直進は十二・十三番で天秤区役所前行、右折は十七・十八番で
市交通局のサイトにある系統図を出しつつ、一つ一つ指でなぞって教えてくれた。しばらくの間は中心部まで出ることもなさそうだが、覚えておいて損はないだろう。
「ん?『六郷前』?企業か何かの名前かい?」
「『六郷製作所』っていう老舗のアンドロイド製造会社の名前ね。奥の方は研究所じゃなくて、この手の企業が本社や支社置いてたりすることが多いの」
「ということは、アンドロイドを製造してたりするのか。量産は確か出来ないんじゃ?」
この世界の法律では、アンドロイドに自我を入れることが必須とされているのは既に述べた。
だが条文内ではさらに踏み込み、自我に「個性」を持たせなければならないと規定している。つまり全く同じ自我を複製し、複数人のアンドロイドに入れることは認められていないのだ。
これは事実上量産の禁止であるため、製造会社があること自体面妖だと思ったのだが……。
「あッ、言い方が悪かったわね。こっちでは『製造会社』って言った場合は『委託製造会社』のことなの。個人や団体の依頼、簡単に言えば特注で製造するのが業務よ」
「ああ、なるほどな……それなら違反はしないか。でも、それで経営成り立つのかい」
「一人一人にかかるお金が大きいから……。それに本体を造らなくても、整備や修理や換装、パーツやアクセサリの販売で利益が上げられるしね。六郷製作所もそれで有名なとこ」
試しに会社のページを見てみると、確かにそのようなことが書かれていた。
それどころか委託製造については脇に置いておいて、パーツやアクセサリの生産販売の方を前面に押し出している感すらある。
「元は日本の会社で、ここは海外支社なんだけどね。それでも電停名になるくらいの企業なのよ。創業者が六郷博士っていう伝説的な研究者だもの、ネーム・バリューが半端じゃないわ」
少し調べてみると、どうやらこの世界においてアンドロイド研究に生涯を傾け、種族として自立させる道筋をつけた人物のようだ。
「もう随分昔の人だけど、今もアンドロイド技術者の人たちの憧れって話よ。
「そうか……」
意気揚々たるサツキの声を聞きながら、啓一は少々暗い気分となり顔をうつむける。
(俺の目標は、なあ……)
そんなことを考えていると、サツキが、
「ちょっと行ってみる?」
ひょいと電停を指差した。
「じゃ、お言葉に甘えて」
そう答えると、ひょこひょこと道路を渡る。目抜き通りの割に自家用車が少ないのは、電車が普及しているせいだろうか。
さすがに電車とはいっても元の世界でLRTと呼ばれている代物で、乗れば恐ろしく静かな音ですっと走り出す。
『この電車は十八番、六郷前行です。次は天河通一番町、天河通一番町です』
電車の窓から見ていると、確かに進めば進むほど街並みがオフィス街となり、その中に研究所や小さな工場が混じり出して来た。
「重力学研究所前、お降りありませんか」
運転士がそう問いかけたところで、サツキが、
「ここが重力学研究所。交叉点はさんで東側が本棟、西側が実験棟よ」
窓から外を指差して言う。
「もうそこが終点ね。重力学研究所前、天河通七番町、六郷前だから」
果たして五分ほどで、電車は終点へ滑り込んだ。
「終点六郷前、六郷前です。本日も市電をご利用いただきありがとうございました」
車内があわだたしくなる。財布を取り出す者、ひもつきのカードケースを引き寄せる者、携帯電話を呼び出す者など様々だ。
「運賃は十円ね」
むろん価値は我々の住む日本の十円ではない。
昨晩説明を受けたのだが、どうやら十円で缶飲料一本が買えるようなので、この世界の一円は我々の世界の十三円ほどというところだ。
もっとも世界も国も違う以上、物価が違う可能性が高いので一概に比較は出来ないのだが……。
「この白銅貨かな?じゃ……」
「ああ、いいわよ。私払っとくから」
「すまない」
運賃箱へ硬貨が放り込まれるのを見届けながら少々様子をうかがうと、ICカードや携帯電話決済以外にも現金の客が存外に多いようだ。それどころか、磁気カードや紙の回数券まである。
これは啓一にとって意外な光景だった。てっきりこのような世界だけに、現金などまるではやらず電子マネーが普通だと思っていたからである。ましてや、回数券があるとは思ってもみなかった。
「現金で払う人多いな。しかもICカードや携帯電話決済もあるのに、磁気カードや回数券廃止になってないのかい」
「ん?あなたのところではそれが普通だったの?」
「ああ、普通どころか常識だよ。それに現金で払う人も少なくなったし」
逆に問い返されてうなずきながら答える。
地域や事業者によって差はあるが、ICカードが登場した時点で紙の回数券や磁気カードは用済み扱いされ、最終的に駆逐されてしまうのが常だ。
「随分と極端じゃない?税金とかデータで動かした方が都合がいいものはともかく、日常では現金を第一にした上で、いろんな方法を使えるようにしておくのがこの世界の方針よ」
「す、すごいな」
「すごいって……変なこと言うわねえ。選択肢がたくさんある方が暮らしやすいじゃない。第一にして何かあった時に一番ものを言うのは現金なんだし、あだやおろそかには出来ないわよ」
「まあ確かにそうなんだが……」
啓一はこめかみをぽりぽりとかきながら言う。
税金云々の話からするに、システム上は電子マネーで現金の代用が完全に可能なのだろうが、それではなから統一せず個人の選択にまかせるというわけだ。
啓一にとって、これは実に好印象である。何より押しつけがましくないというのがよかった。
元の世界の日本では特に一番通用範囲の広い交通系電子マネーにおいて、現金利用者を不利な状況に置いたり制度をいきなり変えたりして追いつめ、最終的に有無を言わさず使わせるという陰湿で強引な普及方法がまかり通っていたのである。
それと比べれば、まさに天と地ほどの違いだ。元の世界の手法に業腹だった啓一としては、この世界の人々の爪の垢をありったけ煎じて飲ませてやりたいとすら思うほどである。
今はもう帰れない元の世界にいささか遠い眼で思いをはせていると、
「そんなことより、ここよ。六郷製作所」
サツキに肩をつつかれた。
見上げると、天を突くような高層ビルが眼の前にある。
一階はショールームになっているようで、ロボットものの漫画やアニメに出て来そうな品々がいろいろと並べられているのが見えた。
「飛行ユニットとかプロテクターとかは分かるが、それ以外にも随分とまあいろいろあるんだな」
「アンドロイドを知らないとちょっと分からないかも。急速充電装置とか簡易整備装置とか、身の周りで使うものが売れ筋って聞いたわ。あとは委託製造や部品換装のお客さん向けで、チップや細かい部品類の展示もあるわよ。みんな入れたがるので有名なのは内蔵通信機ですって」
「随分詳しいな、確か君の専門ってこっちの分野じゃないはずだろ?」
「そうなんだけど、うちの研究所って意外にこっちの業界と提携してプロジェクトを行うこともあるし。何より親友がアンドロイドだもの、どうしても詳しくなっちゃうわよ」
それでなくともシェリルは仕事の関係もあり、内蔵通信機や聴覚増幅装置といったオプションを大量に搭載しているのだという。
殊に内蔵通信機は無線機だけではなく携帯電話の代用としても使える上、スピーカーにして会話を聞かせるという器用なことも出来るというのだから驚きだ。転移して来た日にデータを送って来た技官の声も、彼女の内蔵通信機を経由して出たものだったとか……。
話を元に戻そう。
サツキはそんな話をしながら、眼の前のビル群に指を滑らす。
「この周辺は、他にもいくつかこういう会社があるわよ。住所に『
と、そこで啓一は視界の隅に違和感を覚えた。
「……なあ、あそこって何の会社だい」
小声で言って指差した先には、五棟ばかりのビルが無秩序に建て増しをしたと言わんばかりの不格好さで立ち並んでいる姿がある。
他の企業が二棟三棟に社屋をまとめて端正に配置している中、浮いているにもほどがあった。
「ああ、あそこね……」
訊いた途端、サツキが軽く苦虫を噛み潰したような顔となる。
「あそこはね、『
「……何かあるのかい?」
「実はあそこ、他の会社じゃ断るような法律ぎりぎりを攻めたような注文でも、平気で受けちゃうそうなのよ。裏で違法なのにも手を出してるんじゃないかって疑惑もあるわ」
それを聞いて、啓一はおとついの話を思い出した。
あのやれ無期刑だやれ十三階段送りだを連発する物騒な法律を相手にして、かいくぐってやろうの破ってやろうのと考えて商売をしている時点で、それだけできな臭い感じしかしない。
「それに、社長とか幹部の評判が悪い悪い。いわゆる成金で、暴力団との黒い噂も絶えないのよ。それだけでどんな会社かお察しよね」
つまりは、反社会的勢力と癒着している可能性のあるやくざな会社ということだ。
この世界にもこういった手合いは普通にいるだろうとは思っていたが、会社に入り込んでしのぎをしているところまで一緒となるとぞっとしない。
「そんなんじゃ、かたぎの者ならまず関わらないとこってわけか」
「そういうことね。金持ちには需要があるらしいけど、ああいう連中にはろくでもないのも多いし」
「会社も会社なら客も客ってやつだな、そりゃ」
「その典型よね。知る人ぞ知る業界の汚点で、本社がここじゃないのがせめてもの救いと……」
そう言いかけた時、
「あら、サツキちゃん!」
にわかに女性の声が聞こえて来た。
見れば茶色の長髪の狐族の女性が、スーツ姿でにこにことほほえみながら立っている。
「え、お母さん!?何でここに!?」
どうやらこの女性が、実家にいるというサツキの母親らしかった。
「六郷さんとこと第四研究部の合同でやってるプロジェクトの会議に、ちょっと顔出して来たのよ。私の意見がほしいって言うから」
「所長を引っ張って来るって珍しくない?」
「たっての願いと言われたら仕方ないわ」
路上で話に花を咲かせる二人に戸惑いつつ、啓一は、
「あの、すみません。もしやお母様ですか?このたびお嬢さんのところにお世話になることになりました、禾津啓一という転移者です」
割り込むように自己紹介をする。
「そうです、私がサツキの母の真島ハルカです。話は娘から聞いていますよ。あなたが啓一さんね、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」
二人は互いに頭を下げ合って握手を交わした。娘同様、気さくな女性である。
「お嬢さんが先ほど言ってましたが、重力学研究所でしたか……そちらの所長をお務めで?」
「ええ、そうです」
「そりゃあ大したもんですね。かなり有能な方とお見受けしました」
「いえいえ、私なんか。役職が高いだけで、世の中にはもっと優れた人がいますよ」
ハルカは照れくさそうに手を振って謙遜していたが、ややあって、
「ねえ啓一さん、研究所見学しに来ませんか?展示室ありますし、面白い体験も出来ますよ。多分、あなたの世界にはなかったものでしょうし」
そう言い出した。
「大丈夫ですか、アポなしで」
「そこは問題ありません、積極的に一般公開してますから」
これに啓一が興味を示したのは言うまでもない。
一時的とはいえ一緒に住むからには、共同生活者のやっている仕事くらい知らねばいけないだろうし、何より「重力学」という聞いたことのない学問に対し純粋に関心があった。
「じゃ、お言葉に甘えて」
「それじゃあ、案内しますね。サツキちゃんもいいかしら?」
「うん。いつかは紹介しないといけないと思ってたし」
「じゃあ、ちょうどよかったわ。……せっかくだから歩きましょうか、すぐそこですし」
そう言うハルカを先頭に、てくてくと電車沿いに三人で歩き出す。
その道中、ふっとサツキが厳しい顔となりハルカに話しかけた。
「ところでお母さん、あの話は聞いてる?」
「うん。また駄目なんて……困ったわね」
二人そろって心底困ったという顔をしている。
この言い方では仔細はさっぱり分からぬが、研究で引っかかっているところでもあるのだろうか。
そんなことを考えていると、眼の前に「国立重力学研究所」と看板を掲げたビルが現れた。
「ここです。……私は書類の整理があるから、悪いけどあなたが案内してくれないかしら」
「うん、じゃあそうするわ。お母さんもたまには……」
「こらッ、口のきき方。入口入ったら敬語に『所長』でしょ」
「……じゃあそうします。所長、たまには休んでくださいよ?」
「はいはい」
サツキが口をとがらすのを笑って見ると、ハルカは廊下を歩いて行く。
「全く、調子がいいんだから。あ、展示室はこっちね」
肩をすくめて言うと、サツキはロビーの端にある部屋へ啓一をいざなった。
それから三十分後。
展示室の中で、頭を抱えてうなる啓一の姿があった。
「うわ、そうだった……重力の話って時点で、相対性理論のお出ましだったな」
このことである。
今や「一般人に理解不能な理論」の代名詞としてまで扱われるようになった相対性理論は、重力の話とは切っても切れない関係にあるものだ。
さすがに一般向けとあって細かい話はすっ飛ばしているようだが、それでも難しいものは難しい。
「とりあえず、重力は力というより『重力場』という時空の歪みだとか、重力を媒介する『重力子』って素粒子があるって話だけ押さえてもらえれば……」
「ん?『重力子』って『グラヴィトン』か。こっちじゃ発見されてるんだな」
「そうよ。そっちの世界では、まだ発見出来てないの?」
「ああ。それどころか、見つかる当てすらない感じだよ」
「重力子」は我々の住む世界では、まだ理論として存在が提唱されているだけで未発見の素粒子だ。余りに見つからないので、存在を否定する学者すらいる。
「ともかく、こっちでの重力研究は重力子の発見で随分変わった感じね。何せ『重力学』として独立した学問が出来たくらいだし」
「なるほどな。ここにもあるが重力子って相当な曲者みたいだし、専門でやらないといかんだろう」
啓一が指差したパネルには、重力子の発見がいかに画期的なことであるかを記す文とともに、理論と研究なくして簡単に扱えるような代物でないことが図入りで書かれていた。
「そりゃね、ちょっと動かし方を間違うだけで重力の大きさが変わる、調整少しでも狂ったら重力場に穴がいきなり出来るだもの……そのまま世間に出したら、死人が出ちゃうわ」
「それもそうだな。理論的にはブラックホールみたいなものも作ろうと思えば作れるし」
「そ、それはさすがに星一つくらいの質量の物質がないといけないから……」
サツキは極端だと言わんばかりにぶんぶんと手を振った。
「それだけでも大変な話なんだけど、反重力の研究にも手を出したからすごいことになったわ。重力子を扱えるなら、こっちもどうにかならないかって考えて」
「待った、反重力って空想上のもので物理学的に出来ないって聞いたんだが……」
反重力というとSFの定番であるが、実際にはエネルギーや質量が負の値にならないといけないため、現実世界ではそもそも存在し得ないと考えられている。
「……その壁を打ち破るのは、正直ほんとのほんとに大変だったみたいね。単独で解決出来なくて、隣接する他の学問と総出で解決したのよ」
物理法則との兼ね合いから研究はこじれにこじれ、最終的には宇宙に存在する謎の物質である暗黒物質と宇宙の膨張の要因とされる暗黒エネルギーの解明を待って決着がついた。
それ以後重力学では反重力研究にかなりの力を注いでいることから、学問名に反して一般人には「反重力を扱う学問」として認識されているほどという。
「ほんとはそれだけじゃないんだけど、まあ確かに表に出るのはそういう話ばかりだしねえ。……でも『反重力』と『無重力』を混同されるのだけはちょっと」
物が浮かぶということで間違われやすいのだが、「反重力」と「無重力」は似て非なるものだ。
「反重力」は万有引力など重力を無効にしたり、それに逆らったりする力である。
これに対して「無重力」は万有引力が他の力と相殺し合って消滅していると見なされるような状態を指すものだ。あくまで「状態」であり「力」ではないため、正確には「無重力状態」「無重量状態」と「状態」を明示して呼ばれる。
「反重力場と重力場をうまく組み合わせれば無重力状態が出来るから、勘違いされるのもある程度は致し方ないと割り切ってる部分もあるけど、当事者としては……」
「結構つらいとこだよな、何か分かる」
啓一が盆の窪をかくのに、サツキは耳を片方ちょんと倒して先をいじりながら苦笑してみせた。
「ま、ともかく。そうやって研究しに研究し続けたことによって生み出された最大の成果が、この反重力場発生制禦システムなんだな」
そう言った眼の前では、その成果として構築された反重力場発生制禦システム「アストレア」の紹介文が、ここぞとばかりに鼻息荒く躍っている。
反重力場を発生させ制禦するだけでなく、重力場も同時に操り組み合わせることで重力を巧みに調整するというシステムなのだが、説明文によると万能というほどいろいろなことが出来るようだ。
「名前は、天秤座の天秤を持つ女神様からか。ギリシャ神話だったかな」
「あら、よく知ってるわね。住所が天秤区なのと、天秤が重力に関係するのとでついたの」
「そうなのか、なかなか粋なもんだ。……しかし、文明を手に入れた人間に最後まで振り回された女神様の名前が、文明の利器についてるのは何だか皮肉でもあるな」
啓一は少々意地の悪いことを言ってみせる。
神話によれば、文明を作り上げて以来堕落して悪徳を重ねる人間を見限って神々が天へと去る中、アストレアはただ一柱留まり正義を訴え続けた。
しかし奮闘空しくその言葉は届かず、ついに失意の中昇天したというのである。
「あら、ちょっと嫌なこと言うのね。でも昇天せざるを得なくなる時まで信じてくれて、空に善悪を計る天秤を残してくれたのもその方じゃないの。たとえ人間を堕落させた文明の産物であっても、正しく使う気満々なんだから許してくださるわよ」
「こりゃ一本取られたね」
小さく笑う啓一に、サツキもおかしそうに笑った。
「あ、そうだ。せっかくだから『アストレア』を体験してみない?隣の本部実験棟で出来るから」
「……それ、実験の邪魔になったりしないのか?」
「それは大丈夫よ。もうここは実質的に実験拠点じゃないから」
この本部実験棟で「アストレア」の開発が行われたのは事実であるが、様々な大きさや異なる出力の装置をいくつも扱う必要があるため、研究が進むとともに手狭になって来たのだという。
そこで三十年ほど前に
「大きな実験施設は全て移されたんだけど、一つだけ何度も一般公開されて親しまれていたのがあってね。せっかくだし地域の役に立つならと残して、一般向けの施設に転用したのよ。巷では『反重力プール』って呼ばれてるものなんだけどね」
「ほう……」
啓一は少ない知識で少々想像してみる。
反重力場発生制禦システムを使ったプールとなると、まず水の入ったプールでないことは確かだ。
「もしかして、無重力状態の中で宇宙遊泳みたいなことが出来るのかい?」
「大体当たってるわね。その辺は現地でのお楽しみってことで」
そう言うと、サツキは建物の奥を指差す。
「おいおい、中に入っちゃうけどいいのか?」
「公式の見学ルートだから大丈夫。そこの通用口から直で行けるのよ。……とりあえず、形式だけだけど見学許可証入力してね。そうしておくと、見学の特典で使用料ただになるし」
例によって、空中ディスプレイでちょこちょこと必要項目を入力した。この間、十分もない。
「じゃ、行きましょうか」
そう言ってサツキが受付から鍵を受け取り、歩き出してしばらく経った時だった。
ふと廊下の途中、ある研究室の前で足を止めたかと思うと、
「あいだ先輩……」
ふっと暗い表情となってため息のように誰かの名を呼ぶ。
「……どうかしたのかい」
「あ、いや」
首を振って歩き出す彼女の口から、それ以上の言葉が出ることはなかった。
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