七 落陽(三)
「それじゃ、後で声かけるわ」
夕暮れ時のホテルの廊下でそう言うと、サツキは自室に戻る。
植月神社を出てから昼を食べた二人は、団地に附属するショッピングセンターを回るなどして一通りこの地区をうろつき宿へ戻った。
シェリルの言う通り、この高台はあの中心部のやくざぶりとは比べものにならないくらいに治安がいい。地元だけでは暮らせないというのを差っ引いても、中心部の住民が押し寄せて来るのもむべなるかなというところであった。
「でも『ディケ』のプレゼンテーションがあるから、その時は中心部へ行かないといけないのよねえ。先方からもらった要請だと市民会館でやりたいって話だし……」
市民会館は、目抜き通りである「本通」の沿道にある。
この辺まで来ると突き当りの市庁はじめ警察本部や消防本部といった役所が立ち並ぶため、妙な連中もそう大っぴらに表に出歩いてはいないようだが、裏にいるかも知れないと思うとぞっとしないのは変わらなかった。
「送迎の車を回してくれるっていうから、心配しなくてもいいんでしょうけど」
そうぼやきつつ、サツキは携帯電話を呼び出してハルカにかけ始める。
いつもなら定時連絡だが、今日は土曜日で互いに休みなのでその必要はないはずだ。
だが、サツキはどうしてもハルカに連絡を取りたかったのである。
「もしもし、お母さん?今、いいかしら?」
『え?ちょっと待ってちょうだい、今所長室にいるのよ』
「ごめんなさい、急な出勤だったの?」
『そう。今帰るところだったんだけど……どうしたの?』
「うん、ちょっと相談があるの」
『相談?……ごめんなさい、佐良山さん、先に帰っていいわよ』
電話の向こうで、ソファーに座る音がした。
それを確かめると、サツキは息を吸い、
「啓一さんを、総務部辺りに異動出来ないかしら?」
そう提案したものである。
『え、ええ!?唐突に何よ?』
「驚かれると思ったわ。でも、必要な気がして」
『……どういうこと?』
いぶかしげな声を上げるハルカに、サツキは今日植月神社であったことを話した。
『なるほどね。仕事と打って変わってそんな生き生きと』
「元の世界と共通点が見つかった上に、自分の専門分野で知識が存分に使えたからうれしかったんだと思うんだけど、落差が烈しくて。で、謝るのよ……『分からない話ばかりしてごめん』って。いたたまれないわ」
『………』
今までの言動やたびたび知識を惜しむことからも分かるが、啓一は知識を蓄えるのが好きな男であり、広義の「おたく」に相当する。
おたくというと知らない者を置き去りにしてやたらうんちくを垂れるイメージがあるが、彼はそこをかなり押さえようとしており、やりすぎたと思えば謝る。
そういう不器用な心づかいがあるだけに、サツキとしては少々置いてけぼりにされたところで嫌な顔をする気は一切ないのだが、啓一は気が済まないらしいのだ。
「正直、改めてやらかしたかなあ……って思うの。所内報関係の仕事が見つかって一時安心したけど、結局姑息だったんだなって」
『……確かにね。事務手伝いみたいなものだから学歴関係ないって思ってたけど、よく考えたら極端に文系の人が極端に理系の職場で働いて、何か問題が起こらないわけないのよね。そこを忘れてたのは確かだもの。総責任者として、私にも問題があるわ』
「もっと早く相談してればよかったわね。シェリルからかなり早くに警告もらってたのに、直後に元気出してくれたから気が緩んじゃった……」
はあ、と二人のため息が響く。
『……でもね、一般の職員人事に所長は基本口を出せないのよ』
「ええ……?」
『そりゃそうでしょ。私が直接的に決められる、口を出せるのは事実上部長クラスの人くらいまでよ。あとは人事部にまかせるしかないわ。そりゃそっちの人たちに意見を求められればアドバイスくらいはするけど、能動的に動いて介入はしないし出来ないわ』
「………」
『それを抜きにしたって啓一さんは採用の
「うッ……」
もっともなハルカの言葉に、サツキはつまった。
そもそもサツキ自身も特殊例として多少の考慮はあったものの、他の研究員と同じように試験や面接を経て採用されており、地位もただの平研究員なのである。
『大体、それ本人の意思確認しての話じゃないでしょう。採用の時だって啓一さんは自分の意思で来たわけだし。いくら立場的には上司でも、こういう先走ったご注進はいけないわ。それが分からないあなたじゃないでしょ。それに一歩間違えれば公私混同じゃないの』
サツキは、もはや言葉もなかった。
『気持ちはよく分かるわ。でもとりあえず彼と話して、意思を確認した上でまず人事に言ってちょうだい。そうすれば私のところに話が来るから、それなら何とか出来なくもないわ。直訴は駄目』
「ごめんなさい……迷惑をかけて」
『いいえ。あなたが啓一さんのこと本気で考えてるのは、素直に偉いと思う。だからこそやり方を間違えてほしくない、そう思ったの』
「うん」
『……ほんとに、ままならないわね。お務め、がんばって来てちょうだい。待ってるわ』
「ありがとう。じゃあ、また」
そう言ってサツキは電話を切ると、呆然と消しもせず眺めている。
いつもは何となく見ている空間に浮かんだ銀色の塊が、今は妙に冷たく見えてならなかった。
「せまじきものは……」
途中まで言ったサツキの言葉は、そのまま消え失せて行く。
窓の外では、夕陽が丘の向こうへと静かに沈もうとしていた。
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