十九 天魔(四)

 ややあって……。

 一同は、例の「ご祈禱待合所」に座っていた。

 社務所内はどうしても物が多く、到底すぐにちゃぶ台と座蒲団とは行かない。それに対してここは最初から机と椅子だけしかないためちょうどいいと判断したのだ。

「まずは、お名前をお聞かせ願えませんでしょうか」

かつ三蔵さんぞうといいます」

 老紳士――勝田は、口吻に生えた細いひげを揺らしながら答える。

 改めてよく見ると、歳を取っても堂々とした体躯を維持することが多い狼族の男性でありながら、その躰は異様にやせ細っていた。

「勝田さんですか、よろしくお願いいたします。……当方としては、松村と過去何らかの関係があった方が、今回の事件を松村の犯行と確信して自責の余り早まろうとした、としか聞いていません」

 シェリルが、言葉を選びながらゆっくりと話に入る。

「これで、分からないことがあります。なぜ過去の知り合いが悪事をはたらいたことで、そこまでしようとしたのかということです。今は、全く関係はないわけですよね?」

「はい……やつと関わりがあったのはもう十年以上も前、二ヶ月ほどの間のことです。それ以降は一度も顔を合わせていませんし、やつの方も私のことなぞ忘れてしまっているでしょう」

 一同の顔が、一斉に驚きに変わった。

 そんな昔に短期間関わって別れたきりというのなら、もはや他人である。そんな輩がいくら悪の道に堕ちて犯罪に手を染めようが、知ったことではないというのが普通の認識のはずだ。

 百枝辺りがその辺を突っ込もうとしたのを察知したのか、シェリルが軽く手をやって制止する。

 ここでそれをやらせると、勝田がまた不安定になる可能性があるからだ。

「分かりました。そんな昔に少し縁があったきりの人物の悪行を気にしているというのは、よくよくのことです。もしかすると当時、松村との間に何かよほどのことがあったのでしょうか」

 そこで勝田はごくりとのどを鳴らすと、思い切ったように口を開く。

「その通りです。実は私は、転移して来た松村を保護していました」

「保護を……!?」

 さすがにこれは、シェリルも意外だったようだ。

「……刑事さんの方では、把握していないのですか?」

「このようなデータは警察には残さないことになっていますし、現在松村が関わっている事件とはまるで関係ありませんので特に調べることもしていません。今、知りました」

「そうですか……」

 眼を伏せると、勝田は一つ長い息をついて話し始める。

「元々私は、新星に住んでいました。あれは、十二年前の春になりますか。自宅の隣にある公園に松村が倒れていたのを私が発見したのが、そもそもの発端はじまりでした」

 松村が転移者だというのは、自分の姿を見てひどく驚いた時点ですぐに分かった。

 啓一の場合は気を失ったまま搬送されたため、サツキ側が姿を見せるまで一つ置くことが出来たが、松村の場合はいきなりその場で意識を取り戻したため、注意なしで見てしまった形になる。

「まあ、驚くでしょう。やつの世界に獣人はいないのですから。まして私のようにぜんじゅうの狼族は、怪物の『狼男』とそっくりですからね」

 「全獣」とは全身が動物、すなわちいわゆる「ケモノ」形態の獣人のことだ。サツキのように耳と尻尾だけの場合は「半獣」となる。

「しかしですね、一方で非常に奇妙な男だとも思いました」

「どういうことですか?」

「後から担当の方にも聞かされたんですが、通常転移者は相当なパニックになり苦しむとのこと。生きながら見知らぬ世界にいきなり放り込まれて帰ることも出来ない、そのせいで周囲の人も自分の持ち物も何もかもなくしてしまうからと」

「そうですね……。こちらにも転移された方が何人かいらっしゃいますが、やはり同じ経験を」

 シェリルが啓一たちに軽く手を向けるのに、当の三人は小さくうなずいてみせた。

「ですが松村のやつは、そういう様子を一切見せなかったんですよ。最初はさすがに驚いていたようですが、説明が進むうちにだんだん面白そうな顔つきになって来ましてね。気味が悪かったですよ、最後の方なんかいやににやついて。予想外の反応だったのか、警察の方が困っていました」

 一応、説明を受けても余り衝撃を受けない、もしくは平然としている人物もいるはいる。

 だがその場合、何らかの理由で帰りたいと思わない事情があるものだ。

 一つ目は、元の世界自体が余りに過酷すぎて、帰る気が起きようがない場合。

 二つ目は、親や親族と折り合いがひどく悪かった、精神的もしくは肉体的にいじめや虐待や搾取に遭っていて孤立無援だった、貧困や借金苦にあえいでいたというように、むしろ全てなくした方が本人の救済ややり直しの機会になる場合。

 三つ目は天涯孤独であったり、知人や友人が一切いなかったり、事故などで全てをなくしてその日暮らしだったりと、なくすものがそもそもない場合。

 そして最後はものに執着がない、非常に前向きなど、そういったことを気にしない性格の場合だ。

 だが松村にいくら訊いてみても、

「そのようなことは一切ない」

 というのである。

「両親や親族や知り合いも普通にいて関係は悪くないし、大きな財産もあって非常に安定した暮らしをしていたというんです。なくすものが充分あるというのに、さして衝撃もなくにこにこにやにやですよ、何なんだこの男はと」

「確かに面妖ですね、気にしない性格だとはとても思えませんし」

 シェリルの言う通り、自分たちの知る松村といえば金と権力に執着し、そのためならば反社会的勢力と平気で手を結ぶような男だ。

 ここまで欲の皮が突っ張っているのなら、おのれの財産や持ち物にこだわるのはまず明らかなので、悩みまでするかはともかくそれなりに打撃があるはずである。

「元の世界で金を稼ぐ伎倆うでがあったわけですから、また稼ぎ直せばいいなどと前向きに思ったと解釈してみても……今度はにやついて面白がるという反応が解せませんよね」

「そうなんです。からっとしているのなら単に前向きなだけだと思うんですが、肚に一物あるという感じでしたから、何を考えているのかさっぱり」

 勝田も余りにおかしいので心配になり理由を訊ねたのだが、はぐらかされてしまった。

 こんな不気味な男を居候させるのはぞっとしなかったが、本人が保護を希望した上に断る正当な理由も見つからず、どうにもならなかったのである。

「シェリル、意見いいか。話の途中すまないが」

 そこで、急に啓一が手を挙げた。

「どうぞ、禾津さん」

「にやにやしてた理由なんだが……こう考えられないか?『いい遊び場が出来た』と思ったと。それも、好き勝手にひっかき回せるようなのが見つかったって」

 この言葉に、シェリルがいぶかしげな顔をする。

「そう簡単に好き勝手が出来るように見えますかね?」

「多分だが、『異世界』ってだけで舞い上がってたんじゃないか。ここなら邪魔者がいないとか考えてな。思い通りに行かないことがあっても、追い追い何とかすればいいくらいの考えだろう」

「いや、世界が違えば別の邪魔者がいるはずなんですが。全然現実が見えてませんね……」

 理解出来ない、そう言いたげな雰囲気でシェリルは眉をひそめた。

「じゃあ、元の世界のことを考えないのについてはどう解釈します?」

「単純にもうどうでもいいんじゃないかね。眼の前に与えられた遊び場で、好き勝手放題に遊び回る方が魅力的だっていうんでな」

「……そうなりますか。もう突っ込む気も起こりませんね」

 シェリルがあきれたように小さく首を振り、一同が頭を抱える。

 この二人の会話に、

「ううむ……」

 勝田が低い声でうなった。

 同意しているというよりも、

「あの男ならそう考えるのも分からぬでもない……」

 というような按配である。

「今の禾津さんの説に対し、何か心当たりがありそうに見えますが……」

「ありますね、やつの暮らしぶりを思い返すと。とにかくものを言うでもするでもやりたい放題でしたから。『遊び場』扱いだったと言われれば、そうかとも思えてしまうのですよ」

「……そんなにひどい生活態度だったんですか?」

「ええ、それはもう」

 とにかく松村は礼儀正しそうでいながら実際にはかなり失礼な言動も平気で行い、とがめられようが何だろうがそれを直そうとすらしない男だった、と勝田は言った。

「そもそも、こっちの礼儀作法を守ろうとしなかったですからね。例えば他人を指す時に、種族名で呼び捨てることを普通にやっていました。この世界では失礼に当たるからやめるよう言ったのに、結局最後まで直さずに……」

「ああ、それを直さないのはちょっと……」

 シェリルが、露骨に嫌な顔をする。

 勝田が言う「種族名での呼び捨て」とは、他人を「あの獣人」「そのアンドロイド」などと種族名だけで指すことだ。日常生活においては相手を動物扱いしたも同然と見なされ、失礼な行為として強いひんしゅくを買う。

 このため中立的な表現として「人」を使うか、種族名を含めて指す必要がある場合は「獣人の人」「アンドロイドの方」などと人として尊重する意思を示す表現を使うのが常識だ。

 子供でも覚えられるようなものなので、それを守らないとなると眉をひそめられても仕方ない。

「しかも、言い方が少々嫌らしくて。どことなく他の種族を見下しているような……。本人はそのつもりはないのだろうと思っていたんですが、獣人とアンドロイドをまとめて『亜人』と何度も呼んだ時点で、それも怪しいだろうと思い直しましたね」

「うわあ……それは一番しゃれにならないですね。特にアンドロイド込みは」

 この話に、シェリルの顔が思い切り引きつった。

 この世界で「亜人」という言葉は、実在の種族を指す場合は侮蔑語や差別語となる。歴史的文脈の中での登場や学術用語としての使用、また芸術的表現としてのやむない使用は容認されているが、それ以外の場合は厳に忌まれる語だ。

 しかも本来の意味からすれば生物であることが前提なので、生物ではないアンドロイドを入れると揶揄や皮肉の意味もこもり、不適切を通り越して悪意のある表現以外の何ものでもなくなる。

「こんなことを言うような人ではないでしょうけど……」

 啓一もそう言われつつ、禁句中の禁句の一つとしてサツキからいの一番に教えられたほどだ。

「郷に入っては郷に従えという言葉を知らないんですかね。適応出来ないだろうと悲観していた俺ですら、そういうところは守ったってのに……合わせる気がなかったわけですか」

「要はそうでしょう。それも多分はなから……」

 勝田は、深いため息をついてみせた。

 自分が獣人、それも動物そのものの姿をしているため、余計にこたえたのだろうか。

 同じく獣人であるサツキも、その気持ちが分かるのか気の毒そうな目でその姿を見ていた。

「これだけでも困りものだったのですがね、それ以上にひどいところが山ほど……」

 特にひどかったのが、自分のミスに対する態度だったという。

 どんなに人に迷惑をかけたとしても、

「とにかく自分は悪くない、他人のせいだ」

 そう自分勝手な理屈をこねて、自分の非を全く認めようとしなかったのだ。

 そのような思考であるから、迷惑をかけた相手に対して謝るという大人として初歩の初歩のことも一切しようとしなかったという。

「私相手だったりほんのささいなことだったりすれば謝ることもありましたが、『これはすみません』と実に態度が軽い上、ほんとに申しわけ程度にすまなさそうな顔をするだけで……。とりあえず謝っておけという思考がありありと見て取れましたよ」

 この松村の行動により、勝田のみならず時に他人にまで大きな迷惑が及んだこともあった。

「余りにも多いので、一番端的なのを例に挙げましょうか。いつでしたか、毎日夜中にものをがたがたいじるようになりましてね。それが隣に響いてしまって、住んでいたアンドロイドのご夫婦が『子供が勉強に集中出来ず困っている』と抗議をしに来たんです」

 当然音を出した松村が謝ることになるのが道理だが、何と松村は、

「そちらが敏感すぎるだけではないでしょうか。それにアンドロイドなら、自動で耳をふさげると聞いたことがありますが。それはお試しにならなかったんでしょうか」

 悪びれぬ顔で言い放ったというのである。

 この言葉に、烈火のごとく夫婦が怒り出したのは言うまでもなかった。

 勝田が何とか取りなして許してもらえたのだが、当の松村は、

「ふうん、アンドロイド同士でも子供なんて出来るんですか。生物じゃないのに」

 などと、どうでもよいことをにやにやしながら言っている始末であったという。

「うわあ……失礼どころじゃないですね」

 松村の言うことには無茶があった。確かに耳をふさぐ機能は存在するが、あくまでオプションのためつけていない者の方が圧倒的に多い。

 それにアンドロイドの妊娠と出産に関しては、種族長年の悲願として壮絶な苦労の末に実現した経緯いきさつがあるため、このように小馬鹿にするのは種族自体に対する侮辱だ。

 もはやこうなると非を認めないだの謝らないだのを通り越し、相手に対する悪意すら見える。

 さすがにこの時は勝田も強くいさめたのだが、

「ちょっと強く言いすぎましたね。ご迷惑をおかけしました」

 論点がずれている上に口先だけと言わんばかりの謝罪をされ、あきれ果ててそれ以上何か言う気がなくなってしまった。

 シェリルは、もはや完全に青筋を立ててしまっている。

 私情に飲まれまいと思っても、松村の言動、なかんずく自種族であるアンドロイドに対する侮辱がひどすぎて、さしもの彼女も怒りが押さえきれなくなりつつあるようだった。

「それにしてもひどいですね……。確かデータによれば当時四十一歳のはずですが、とてもそうとは思えません。始末の悪い悪童じゃないですか」

「そうです、まさにそうです。世間を馬鹿にしているわっぱがそのまま大人になると、こうなるのだろうと思いました」

 松村が来てから、この間実に一ヶ月もない。

 その傍若無人な振る舞いに疲れ果てた勝田は、ほとんど何も注意することがなくなり、せっせと尻ぬぐいをするだけの日々を送るようになってしまった。

 しかしそんな勝田の心が、とうとう折れてしまう日が来る。

 ある時、どうやったらこんな風になってしまうのか気になった勝田は、いろいろと口実をつけて松村に生い立ちを訊ねてみた。

「……好奇心は猫をも殺す、それを実感させられるとは」

 勝田は、そこで再び深いため息をついて首を振る。

 松村の口から飛び出したのは、過去の「武勇伝」であった。

 啓一は、この単語を聞いて嫌な予感を覚える。

 普通ならともかく、この手の人物が「武勇伝」とのたまう場合、その内容は決まっている。

「もしや……昔の悪事自慢をしたんですか」

 このことである。

 過去に何らかの悪事をはたらいていた人物が、「わるだった」「やんちゃしていた」などと言ってそれらを正当化し、我が戦功を聞けとばかりに胸を張って語るというのはよくある話だ。

「そういうことです……。正直聞けば聞くほど、頭が痛くなって来ましたよ。まず、小学校のいじめからいばるんですからね。そして、いじめられっ子が悪いの一点張り」

「……こりゃもう、相当悪質なやつだ」

 しょっぱなからろくでもないのが飛んで来たとばかりに、啓一が頭を抱える。

「まあ延々とその調子でしたが、その中でもひどいを通り越して犯罪、いやそれよりはるかにおぞましい何かというべきものが……」

 それによると……。

 大学生の頃、松村はさる同好会に入っていた。

 しかし素行は大変悪く、特に人の欠点を重箱の隅をつつくようにあげつらい、それをねたにして執拗にいじくり遊ぶことを楽しみとしていたという。

「本人はあくまでおどけているつもりで、うまくコミュニケーションを取っていると思っていたようですがね。現実にはまるで嫌がらせですが」

 もっともみな穏やかで争いを好まぬ性格であったことから、心中嫌がっていても適当にあしらうことで波風を立てないように済ませていた。

 これが、松村を増長させてしまうことになる。

 何と松村はある女性会員を狙い撃ちにし、嫌味や当てこすりを頻繁に言い、時に議論を吹っかけてもてあそぶなどの精神攻撃を開始したのだ。

 その女性会員がなあなあを嫌い、唯一自分に対して反抗の意思をはっきりと見せたことから、

「生意気だから凹ませてやる」

 などと考えてやりはじめたようである。

 最初は何とかかわしていた彼女だったが、部室外でもつきまとわれるという度を越した執拗さにさすがにまいってしまい、松村を嫌って部室に来なくなってしまった。

 ここまで来るとただのストーカーなのだが、松村本人は、

「余りにかわいげがないから、いろいろ注意してやっただけなんですがね。しょせん女に男の気づかいなんて分からないんですね」

 いけしゃあしゃあと言ったという。

 会員たちは、これで松村から露骨に距離を置くようになって行った。

 それでも松村はさらに調子に乗り、今度はさらに別の会員を手にかけようとしたのである。

 だが、これが運の尽きだった。これに気づいて怒りを一気に爆発させた会員たちにより、除名処分を食らって放逐されたのである。

 ところがこれでもこりず、会員数人が自分たちの高校時代の同級生と一緒にラウンジへ集まって話をしているところへ乱入し、仕返しとばかりに散々に暴れ回った。

 今度は器物損壊などを行ったため大学側に被害届が出され、松村は停学処分を食らうことになったが、復帰後も自己正当化を続けて元いた同好会を誹謗中傷し続けていたという。

 その誹謗中傷を耳にして耐えかねた松村と同じゼミの学生が会長にその話をしたところ、たまたま聞いていた件の女性が体調を崩し、嘔吐してしまったとか……。

 獰悪にもほどがあるが、松村はその話すらも女性を嗤笑しながら話したそうである。

「全く、どいつもこいつもですよ。大学の連中もですが、あの頃は親もやたら口うるさく干渉して来て往生してましたね。大体、私は当時鬱病の気があったんです。そういう人物に寄ってたかってこういうことをやりますか……ほんとどうしようもない」

 挙句の果てには、この言い草だ。

 一字一句が突っ込み待ちをしているのかと、常識人なら疑ってしまうことだろう。

「親とはさして何もないとの話でしたが、これは違うと直感しましたね。『親子仲に問題がないから何もない』のではなく、『見捨てられたから何もない』なのではないかと。それに鬱病とは何ですか、鬱病とは。医者でなくとも、詐病だと分かりますよ」

 勝田の言うことは、恐らく的を射ていると言っていい。

 殊に鬱病を騙って自分の反社会的行為を正当化しようとするなぞ、到底許されることではない。

 鬱病患者が時に理不尽または非常識な言動で他人を困らせることはよくあるが、本物の患者ならば気づけば烈しい自己嫌悪に陥りこそすれ、鼻高々に自慢するようなことはないはずだ。

 このような詐病行為は、ただでさえ差別や偏見に遭いやすい鬱病患者への侮辱である。

 これを聞いた勝田は、松村ののど笛を引っつかみたくなるほどの怒りにかられた。

 むろん、本当にやるような非常識な人物ではないが、

「あそこでやっておいた方が、のちのち世のため人のためになったのでは」

 そう本気で後から思ったほどである。

「まあ、あんな下衆の血でこの手を汚して、監獄行きにされるなぞまっぴらごめんですが……」

 刑事の前だというのに殺意を隠さず吐き棄てる辺り、その怒りの強さが理解出来ようものだ。

 斜め上を行くどころか、もはや嘘だと言ってほしいと思うほどの松村の人格破綻ぶりに、一同は完全に固まっている。シェリルまでもだ。

 みな、驚きというより怒りである。殊に女性を追いつめてトラウマを植えつけたという話があったことで、女性陣は怒りが頂点を超えて蒼白にすらなっていた。

 ややあって、ようやく啓一が、

「……サイコかこいつは」

 口角を引きつらせながらぽつり、と言う。

 むろんそちら方面の学者ではないので、本当に松村がサイコ、すなわちサイコパスであるかは断定することなぞ出来ぬ。

 しかし良心の欠如に他人への無慈悲ぶり、罪悪感もなければ責任を取る気も力もなし、しまいに自己中心的と典型を見事になぞっている以上、そう言ってしまってもある程度は許されよう。

「確かに、育ちどうこうって話ではないですね。最初から素質があったのでしょう」

 それに応じてようやくシェリルがそう言うと、勝田の手に触れゆっくりと開かせる。

 怒りの余り勝田の手のひらには狼独特の鋭い爪が食い込み、軽い出血が起きていた。

 百枝が社務所から救急箱を急いで持ち出して来たのを借り、手早く手当を行う。

「……すみません、年甲斐もなく」

「いえ、お怒りのほど、当然と思います。あれを聞いて、何とも思わない人なぞいないでしょう」

「ありがとうございます。……もうこれを聞いてしまいましたらね、何でこんな男の面倒を見なければいけないのかと馬鹿らしくなって来まして」

 ほとほと愛想をつかした勝田は、区役所に相談に出かけ職員と今後の対策を相談することになる。

 保護せずとも充分に暮らして行けると思われるから、というのが表向きの理由だが、

「こんな異常者と暮らしていたら自分がどうにかなってしまう」

 というのが本音であった。

 だが何をするか分からないという恐れから本人を連れて行くことが出来ず、相談で足踏みの状態が続いたという。

 一方松村は、勝田が自分をうとんじているのに気づいたのか、それとも単に自立したいだけだったのかは知らぬが、断りもなしに就職活動をするようになっていた。

 そして必ず面接で落ち、勝田相手に自分の態度を棚に上げ会社や面接官の悪口を言う。

 もはや松村の罵詈雑言を聞かぬ日はなくなり、心なしか食欲が落ち、抜け毛も増えた。

 このため、一新興国産業の子会社に就職すると聞いた時も、

(これでようやく厄介払いが出来る……)

 まず最初にそう思ったほどであったという。

「ですがよく考えてみれば、あんな態度の人物を雇うっていうのは通常じゃ有り得ません。やくざで有名な一新興国産業の子会社といえども、さすがにこんな男はお断りでしょう。それなのにどこを気に入られたのやら……」

 疑問を感じた勝田がどういう理由で採用されたのかを聞き出したところ、

「ああ、私が暴力団の扱いに慣れているからです」

 とんでもないことをしれっと言ってのけたというのだ。

「驚いたどころか、震えが来ましたよ。何を言ってるんだこの男はと……」

 そして呆然とする勝田の前で、そのまま松村は自分の元の世界での暮らしぶりをまたしても「武勇伝」よろしく語り始めたという。

「正直、めまいで倒れるかと思いました。多数の暴力団関係者と日常的に関係を持っていて、何度となく便宜を図ってもらったとか情報をもらったとか、そんな話を得意げに話すんですよ」

 たまりかねて最低の行為だとなじる勝田に、松村は、

「これも世渡りの一つですよ。ばれなければどうということはありません」

 そう悪びれず答えてみせたというのだから、実にあきれたものだ。

 そもそも反社会的勢力とのつながりがあったなどということを、こんな風に臆面もなく自慢出来るという神経がまるで分からない。いくら何でも破廉恥にもほどがあった。

「そうだったんですか。道理で、やたら反社と親和性が高いと思ったら……」

 シェリルが、なるほどという顔をする。

 転移する前から反社会的勢力と渡り合っていたのなら、こちらの世界でも同じ要領で成り上がって甘い汁を吸ってやろうと考えるのも当然と言えた。

「もう何も言いたくなくなりましたよ。……しまいには、へまをやって自滅してしまえとまで思っていました。すっかり心がすり減っていたのでしょうね、私も」

 果たして松村は保護されてから二ヶ月後、散々に勝田や周囲の人物の生活をかき回し、精神的苦痛を与え続けた末に出て行ったのである。

「いやもう、私も七十年以上生きて来て、あれほどまでの奸物に会ったことはありません」

 勝田はなるべく早く忘れようと努めたが、完全なトラウマとなって無理であった。

 しかも、そこからがいけない。鬱病を発症してしまった結果、

(もしかすると、あの男が人に迷惑をかけているのではないか?)

 そのような不安にとらわれ、いつの間にか松村がどうしているか知ろうと、一新興国産業や関連会社の動向を探り始めたのだ。

 その結果、松村が反社会的勢力の力を借りて子会社を立て直したことや、その業績を買われて本社に部長待遇で入ったことなどを知ることになる。

「自分でもよせばいいのに、と思ったのです。しかし、心が不安を訴えて止まらない。それで出て来る情報は、あの男がどんどん増長して闇社会に突っ込んで行っているという話ばかりです。でも、止まらなかったのです」

 心の病独特の不合理な行動に完全に囚われた勝田は、定年後はもっと松村のことにかまけるようになってしまい、ついには一新興国産業の緑ヶ丘移転の際にここへ越して来てしまった。

 そこで見たものが、さらに勝田を追い込んだのは言うまでもない。

 ついには自罰感情が顔を出してしまい、

(自分は天魔に等しい男を保護し、街一つ苦しみの底に突き落としてしまった罪深い男だ)

 先ほど自殺を図った時のような極端な思考に走るようになってしまったのだ。

 ここまで自分を追いつめている状態で、松村がとうとう人を公衆の面前で手にかけたかも知れぬということになったら、希死念慮が起こるのも仕方がないと言える。

「お嗤いください、老境にあって小童につけられた傷を引きずり続けるこの年寄りを……」

 自嘲するように、勝田は言った。余りに痛々しい言葉である。

「……嗤いなどしませんよ。それほどの傷を負わされたのですし、何より病気だったのですから。憎むべきは、間接的にあなたの人生を奪った松村徹也という男です。あなたのせいではありません」

 シェリルが、ゆっくりとなだめるような声で言った。

 心の傷は、同じ傷でも下手な肉体の傷よりはるかにたちが悪い。

 特に心痛むのが、働き盛りだっただろう五十代後半から定年後第二の人生を見つけようという七十代前半までという時期を、松村によってつけられた心の傷により実質潰してしまったことだ。

 自分で決めたことだと断ずるならいくらでも出来るが、そう突き放すには酷というものだろう。

 松村がこの無辜の紳士の十二年を奪った、そう言ってもいいはずだ。

「ありがとうございます……そう言ってくださると救われます……」

 勝田はシェリルに向けてしきりに頭を下げる。

 その眼からぱらぱらと泪が床へ落ち、やがて嗚咽となって声に現われた。

 引っ越し以外にどんな暮らし向きをしていたのか、どんな治療を受けていたのかは分からないが、こうやって一気に吐き出せたことが、この老紳士にとってどれだけの救いになったのか……。

 泣き続ける背中を、シェリルが小さな手でさすった。種族が違うとはいえ、まるで近所の子供がなついた親戚の老爺を慰めているような、そんな姿である。

 眼からこぼれ落ちる泪が床を黒く濡らす光景を、一同はやるせない表情で見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る