十八 暁鐘(三)
二日後の朝六時前。
ヤシロ宅へ向かう宮の坂に、啓一の姿があった。
まだ空が白むかどうかという時間に、彼がここを訪ったのには理由がある。
「サツキさん、半分徹夜確定とか言ってたが……大丈夫か?」
このことだった。
あれから……。
飛び入りでハッキングに参加したジェイは、ネットワーク上で宮子と合流し作業を再開させた。
さすがはまるで常識外れの
ここまではよかったのだが、思いがけない問題が発生した。
ファイルの内容がなかなか理解出来ず、取捨選択に恐ろしく時間がかかったのである。
極左暴力集団は元々政治結社ということもあってか、情報秘匿に極めて肝胆を砕いているらしく、記述そのものに暗号が使われていることが多かった。アナログな方法であるが、通常の暗号化と違って解読法から考えなければならないので、かえって手間がかかる。
さらに使われている単語や言い回しが特殊で、何を言っているのかよく分からないということも決して少なくはなく、そちらでも苦労させられる羽目になった。
こうなると極左暴力集団を相手にした経験のあるシェリルにたびたび知恵を貸してもらうしかなくなり、思ったよりも時間を食ってしまう。たまりかねて、簡単な単語などに関しては多少知識のある啓一が教えたり解釈を示したりする場面もあった。
それを乗り越えて、ようやくサツキと清香の重力学者組の登場である。
だがいざ引きずり出してみると、ファイルの数が半端ではないことが分かって来た。しかもわざとなのか知識不足なのか分からないが、とにかく内容がごちゃついており、知識を発揮する前に整理に苦しめられることになってしまったのである。
さらにはたびたび相手に気づかれそうになって退却と出動を繰り返す羽目になるなど、とにかく一筋縄では行かなかった。
挙句の果てには偶然かわざとか知らないが相手のサーバが落ちてしまい、翌日、すなわち昨日の正午まで強制退却を余儀なくされてしまったのである。
その間を「ディケ」を使った非殺傷攻撃作戦を練りつつ実行練習を行う時間に当てることが出来たため、完全な時間の無駄にならなかったのは救いであったが……。
そして午後にサーバが復活したのを確認して再度吶喊となったのだが、ここでも相変わらずの難航を強いられ、時間がどんどんと過ぎて行く。
このままでは深夜どころか徹夜すら有り得るということで、啓一は帰らされてしまった。
サツキを心配して残ろうとしたのだが、泊まる部屋がないのでは仕方もないだろう。
そして日付が変わる前に本人から電話で徹夜はほぼ確定と聞いたため、起きるや心配になってすっ飛んで来たのだ。
「あ……
玄関前にたどり着くと、そこに偶然エリナが現われる。
早起きというのは配信でも話していたので知っていたことだったが、まさかここで鉢合わせするとはさすがに思いもしなかった。
「あ、いや……どうなったかなと心配になりまして」
「そうでしたか。三時半くらいに何とか終わりまして、データはもう本部へ行ってます」
「かろうじて深夜で済みましたか。成果はどうなのやら……」
思わず啓一が難しい顔でつぶやくのに、エリナは、
「……余りはかばかしくないみたいです。どうやら本当に重要なことはデジタルでは管理してないんじゃないかというのが、みなさんの見立てですね」
軽く首を振ってそう答えてみせる。
「うわ、そうなんですか。デジタルで見られたり解析されたりしないよう、あえてアナログにしてるんでしょうね。実に小ざかしい話です」
苦労に釣り合わない結果に、啓一はまいったとばかりに頭をかいた。
「それはともかく、みなさんは今どうしてるんですか」
「寝ています。さすがに起きてられませんよ」
「寝てるんですか?この家の人はともかく、サツキさんはどうしたんです」
「ソファーなんですよ……。躰に悪いからと、私のベッドを勧めたんですが固辞されまして」
人間や獣人と違い、アンドロイドは一日くらい寝ずとも頭が正常にはたらく。
そのためなのだろうが、サツキの性格を考えるとそう言われてはいとうなずくとは思えなかった。
「うーん、研究者は結構無茶するって聞きますが、女性がソファーは躰にこたえるなあ。……まあともかく、寝てるんなら起こしちゃまずいかな。分かりました、じゃまた……」
とりあえず状況の確認は取れたので、邪魔をするまいと啓一がきびすを返した時である。
「あ、待ってください。……よければ、庭で少しお話などしませんか?」
エリナがそう言って、門内へ啓一をいざなったのだ。
「実はうちの庭、ごくわずかですけど北へ張り出してまして。そこだけ柵をつけてるんですが、景色がとてもいいんですよ。せっかくだからお見せしようかと」
「いいんですか?起こしてしまわないですかね?」
「大丈夫ですよ。広いですし、よほどの大声を出さなければ……」
「あ、それでは、お言葉に甘えて」
啓一は言われるままに一礼して庭へ入る。
そうしていればもしかするとみな起きて来るかも知れないと思ったのだが、それより、
(自分の推しと対面で長く話せるいい機会だ)
そのような下心の方が勝っていたのは否めなかった。
「ほら、下の方まで見えますでしょう」
「ほう……」
エリナが指差した先には、緑ヶ丘の街が広がっている。
植月地区でも、この辺りは比較的高台だ。それゆえに街全体がよく見えるのだろう。
改めてこうして見ると、実に普通の地方都市だ。
目抜き通りが静かに街の真ん中に横たわり、その道沿いにどこにでもあるような小さなビルや警察署・消防署といった役所が立ち並び、市庁へとまっすぐにぶつかる。
通りの右も左も、実に閑静な住宅街だ。左奥の大門町の邸宅群なぞ、人体改造実験の舞台になったことなぞ忘れるようにゆったりとたたずんでいる。
汚穢に満ちた桜通すら、知識がなければ何か明かりがついている程度にしか見えぬ。
市庁の奥には、小さく川の姿と赤駒地区の雑木林が見えた。先月、サツキとあの中を散歩した時のことをしみじみと思い出す。
「こんな静かな街にあんな有り得ない闇世界が広がっていて、さらには頭のおかしい人が国家転覆を企んで兇悪な武装勢力を蓄えているなんて、誰が思うでしょうかね……」
「俺もそう思いますよ。こっち来てからもう一ヶ月ですが、あれよあれよと話がとんでもない方向にすっ転がって行って、正直困惑ばかりです」
「これから、どう転がるんでしょうかね。小川が自首したことで、さすがに相手があきらめてくれればいいんですが」
「ううむ……」
あれから小川は速やかに捜査本部へ移送され、取り調べを受けた。
もっとも移送中もパニックを起こし続けていたため、本部到着時にはひどいありさまになっており、しばらく話を聞くに聞けなかったという。
「階全体に小便の臭いまき散らす
シェリルがそうげっそりとして言ったのが、その惨憺たる状況を物語っていた。
それはともかく……。
やはりというべきか、小川は松村と内通していた。
ただし自分の意思ではなく、無理矢理引きずり込まれたのだという。
元々小川は、さる極左暴力集団が仕立てた間者であった。
この集団は緑ヶ丘コロニーが出来た際、大胆にも武力行使をする時の拠点として龍骨を使うことが出来ないかと考えていたという。せっかく重力学の博士号持ちという人材を抱えているのだから、このまま腐らせず最大限に使った方がいいと考えたのだ。
しかしさすがに無理があるとあきらめかけていたところ、市が龍骨の管理担当職員を募集していると聞きつけ、これ幸いと応募させたのである。
果たして市は博士号持ちという一点だけで飛びついて採用、小川は龍骨に関する情報を集める諜報役として潜伏することを得た。
もっとも実際には街が反社会的勢力によって事実上乗っ取られてしまったため、集団は緑ヶ丘での活動を休止。結果的に小川の立場は宙に浮いてしまい、数回情報の横流しをしただけで、あとは細々と簡単な現状報告をするだけの存在となっていた。
ところが今回この集団が松村に与し龍骨への潜伏計画が復活することになったため、俄然として小川の存在が重要なものになったのである。
だが幹部は単に命令するのではなく、松村の背後に反社会的勢力がいると聞いて不信を抱く可能性があるからと、のっけから有無を言わさずやるよう迫るという暴力的手段に出た。
「ある時、いきなり松村と幹部たちに呼び出されたんですよ。そこで取り囲まれてやいやれそれやれと脅しつけられまして……。とてもではないですが断れるものじゃありません」
この脅迫によって最初こそおびえながら動いていたが、しばらくするうちにその恐怖もだんだんに薄れて行ったという。
さも未曾有の大革命をするかのように大口をたたいたくせをして、肝腎の松村本人が間抜けすぎるにもほどがあったからだ。
しかも松村が自分とは別に誰かを連れて来て龍骨の欺瞞を破る方法を調べ始めた上、こっちにその詳細も知らせず連携させる気もないと聞かされて、何のために自分は関与させられているのかとすっかり白けきっていたのである。
「あの偽資料も、うちの幹部がいなければあそこまで一生懸命に作らなかったでしょう」
小川はそうとまで言い切った。
思想のためには殺し合いもする極左暴力集団に比べれば、
「あんな成金なぞまるで小物……」
とでも言いたげである。
それにしても自分が従えているはずの集団の下っ端にそのような冷めた目で見られてしまう辺り、つくづく松村というのは救えない男だ。
「だけど、そう嗤ってもいられないんです。最後の壁に使おうとした男が自首して、泥全部吐いたわけですから。今度こそ、本当の本当に追い込まれたわけですよ。何をするか知れたもんじゃ」
「それは私も思います。手負いの獣は怖いとも言いますし……」
二人が言う通り、現在の松村は恐ろしく旗色が悪い。
常識的に考えれば、蜂起などせずさっさと白旗を上げた方が身のためとすら言える状態だ。
だが何度も言う通り、異常者の松村に常識が通じると思ってはいけない。
まるでやけになった子供のように、破れかぶれで行動に移っても決しておかしくないのだ。
警察側もそれを踏まえて機動隊や特殊部隊の増派を決定し、次々と緑ヶ丘入りさせているという。
もはや
二人そろってため息をついているうちに、少しずつ日が昇って来る。
この時間に昇るとなると、地球の日本でいう中国地方西部くらいの場所に擬制されているようだ。
「おや……?」
遠くで、寺の鐘の音がする。
「あ、六時ですね。一斉に鳴るんですよ」
「
「この地区にも、一つだけですがお寺がありますよ」
「お、少し遅れたが鳴った」
「こちらの世界に来てから、お寺でも仏様でも知りましたが……
エリナが仏教用語を出し合掌までしたことに、啓一は驚いた。
指を少し開いて左右交互に組むようにする金剛合掌である辺り、真言宗の寺なのだろうか。
この鐘の音を、仏教のある自分の世界の人間が一部で騒音扱いするのに対し、仏教がないであろう別の世界のアンドロイドが厳かな気持ちで聞いているというのは、何とも皮肉に思えてならぬ。
「……あの鐘の音ですら救えないのですから、本当に救えない人たちなのでしょうね、今度の事件に関わっている人たちは」
「縁なき衆生は度し難しと言うじゃあありませんか。鐘の音どころか、たとい
いささか罰当たりな言い方であるが、実際いくら道理を説いても態度を改めるような殊勝な連中ではないので仕方あるまい。
その大げさな表現がおかしかったか、くすりと笑うとエリナは続けた。
「それにしても、朝な夕なにあの鐘を聞いて感慨にひたるたび、本当にしみじみと思うんですよね。私がこうして人らしい暮らしを送れるようになるなんて、って」
「人らしい、ですか……」
「転移はつらかったですし、転居先の街は長年にわたって病んでいますし、今も大変な事件のさなかにいますし、普通の暮らしではありませんが……一人の『人』として認められていますから」
エリナはそう言うと、少し顔をうつむける。
「今から思えば、ひどい半生でした。……私の一族は代々警察の要職を務めている名家だったんですが、当主が一族内で絶対的権力を持ち、自分のほしいままに家族や一族を戦場へたたき込んで行くようなことを平然とやっているような家でした。そして『正義のためなら死ぬまで戦え』と。それが当たり前、みんなそう思っていたんですから異常としか思えません」
エリナのいた世界が、「正義」と「悪」が泥沼の戦いをしているうちに戦いのための戦いを行うようになってしまった場所だったというのは、既に話したことだ。
そのような環境で礼讃されるのは、やはり権力と実力と戦功ということになろうか。
エリナの一族はそれらをあたら持っていたがために、人倫を完全に踏み外していたようだ。
もっとも普通の世界でも時にそれで一族郎党が狂うことがあるのだから、もはや空疎となった「正義」と「悪」というイデオロギーに依存している世界で、どだいまともなことになるわけもない。
「それだけでもどうかしていますが、あの男が当主になった途端、今度はそこに女性差別が加わりまして。自分の妻すら、
あの男、とは女性差別主義者だった自分の父親のことだろう。
この分だと何人もの細君を娶ったと思われるが、みなろくな目に遭っていないのは明らかだった。
「ええ、もうですね、私がばっちりそれに相当してしまいましたからね。警察幹部なので殺すのは無理ですから、普段はいないものとして扱われました。母親はおもちゃにされ続けた挙句に私が中学の時に衰弱死、それからは私が……」
「……その辺は、いけませんよ」
啓一は思わず、エリナの言葉を強く遮って言う。
母親の死後、彼女の身に何が起こったかは大体想像がついた。
そんな残酷かつ屈辱的な話をわざわざ語らせるような下衆な趣味は、啓一にはない。
エリナは首だけで一礼すると、そのままうつむいた。
「学校も、教育内容が今思えば偏っていました。『正義のためなら死んで来い』を地で行ってましたから。全然なじめなかったです」
「そりゃあなた、なじめなくて正解だ。正常な証拠じゃないですか」
「今となればそう言い切れますけど、当時はそれで即一人ぼっちですからきついものがありました」
啓一は、エリナの世界の状況にいささかげんなりとしていた。
(第二次大戦末期より何十倍もひでえや……)
このことである。
あの「国民総力戦」という悲惨極まる世相を超えるものを、今聞いてしまったのだ。
「ずっと、自分を、自分が生まれて来たことを後悔していましたね。どこにも居場所がない。そうした社会の方がおかしいんですが、子供の身、まして生まれながらにそれでは……」
そして、エリナが十八になった時である。
眠っている間に部屋から引きずり出された彼女は、そのまま警察お抱えの研究所へ搬送された。
眼が覚めた時には父親がにやにやと笑っており、
「どうせ役立たずだ。厄介払いに鉄砲玉になって来い」
そう確かに言ったという。
その後、エリナの記憶はジェイに保護された数日後まで途切れた。
「……気がついた時には、マスターの家にいたんですよね。それで自分の状況を理解しましたが、一介の兵器になっていた私にとっては、なぜ保護されて『人』扱いを受けているのか理解不能でした」
名前が記号と数字の羅列ではあんまりだと思ったジェイに、「エリナ」の名前をもらった時も、
「――本機は量産型であり、個性は必要ありません。固有名は個性を附与することであり、許可されていません。称呼を製造番号のみとする規定に従い、拒絶します」
不要かつ理解不能の行為として、冷たくはねつけたほどだったという。
結局彼女が名を受け容れたのは、記憶と感情を取り戻して以降にまでずれ込んだ。
「出生名じゃなかったんですか……」
「そうです、『エリナ』は元は仮の名なんですよ。でも元々ひどい名前をつけられていましたし、苗字に至っては名乗るのも穢らわしかったので、未練なく捨ててこっちを本名にしましたが」
ただし名前はこれで決定となったものの、苗字はいまだに決まっていない。
単純に考えればヤシロ姓でよさそうなものであるが、エリナはそれをよしとしなかった。
苗字の話をし始めた頃、既にジェイの許にはエリナと同じ境遇の少女たちが何人か助けられて一緒に暮らすようになっていたという。いずれもエリナと同様の理由からジェイにもらった名前を名乗っており、苗字は決まっていなかった。
そのため安易にヤシロ姓を名乗ると、ジェイを独占したようになって彼女たちに申しわけないと考え、あえて苗字を名乗らなかったのである。
今はそのような気づかいはもはやいらなくなってしまったのだが、それでも堅持している辺りがエリナの生まじめさを物語っていた。
話を元に戻そう。
「記憶が戻った後の私の苦しみは、並のものではありませんでした。役立たず、役立たずと十八年間言われ続け、無理矢理役に立てと心を抜かれた兵器にされて……。ですが、もしこれで役に立っていたとしたら、それは人を傷つけていたということを意味します」
余りにも不安がるエリナのためにジェイがログを調べると、果たして対人戦闘の記録が出て来た。
もっとも致命的な傷を負わせたことは一度もなく、逆に自分の方が傷を受け殺されかけるという記録ばかりであったという。肉体攻撃では力を発揮出来ず、銃を使用してもろくに当たりもせずと、改造時に肉体や運動能力を強化されているとはとても思えないようなありさまだった。
エリナがこの結果に、後ろめたい気持ちを残しながらも胸をなで下ろした時である。
戦闘外で非戦闘員に何十回となく無差別に威嚇発砲を行った上、そのうち数人にけがを負わせていたという記録が出て来たのだ。
「それを見てようやく思い出したんですよ、民間人に銃を撃ったのを。そして外すつもりで、誤って当ててしまったことも……。あの世界に交戦法規が一切なかったから問題にならなかったようなもので、本来なら戦争犯罪です」
確かにエリナが言う通り、戦争において非戦闘員に武器を向けるのは戦時国際法のような交戦法規では代表的な戦争犯罪として必ず挙げられる。
だがこれはエリナのせいというより、このような行為を平気で行わせた上官たち、そして国際法すら設ける気がないほど戦争の意味が軽かった元の世界のせいと言った方がいいはずだ。何より、彼女は自己判断能力を完全喪失していたのである。
しかしそう分かっていても、
「武器を向けたことには変わりはないのだから、言いわけにならない」
という思いが、エリナの心をさいなんでいた。
それでなくとも彼女は自分を救ってくれたジェイに威嚇発砲をしたことに対し罪悪感を強く持っていたため、この事実によって余計に苦しみを与えられることになってしまったのである。
このことが、エリナをある行動に走らせた。自決未遂である。
この時エリナは早朝に家出し、戦闘があった場所で小銃を拾ってその場で口に銃口を含んだ。
だが何とそれは、弾切れにより放棄された銃だったのである。
結局パニックになっていじり回している間にジェイに発見され、ことなきを得ることになった。
「一瞬、銃口がマスターの方向を向いたのですが……臆せず取り上げてくれまして」
弾切れとはいえ、銃は銃である。一般人には銃口が向いただけで「死」の一文字が浮かぶはずだ。
それを顧みず奪い取ったジェイの思いが、いかに強かったか知れよう。
感情が乱れに乱れたエリナは、ジェイにつかみかかって怒鳴り散らした。
「何なんですか……あなたは!私は罪を犯したんですよ!それも生まれて来た時点で!生まれて来なければ、私も、誰も傷つくことはなかったのに……!」
そう言った瞬間である。
「馬鹿なことを言うな!」
素晴らしい
「生まれて来たこと自体が、何で罪だってんだ!周りが勝手に罪に仕立て上げたんだろうが!」
「………!」
余りにも、正鵠を射た言葉である。
本来、エリナはただの少女だ。世が世ならば、恐らくは蝶よ花よと育てられ、真っ当に「人」としての生活を送れたことだろう。
しかし現実の彼女は、親にも社会にも、およそ「人」たること全てを否定された。さらには兵器として改造されたことで、肉体的にも「人」であることを否定されたのである。
生まれたのも罪、生きていることも罪、兵器として使われたのも罪。
さらに役に立たないから罪、役に立てば罪というありさまだ。
だが、これらのどこが罪であろう。兵器としての行いとて、無理矢理犯させられた罪だ。
無辜の少女に対しここまで罪を問い負わせた者たちにこそ、本来の罪があるのではないか……。
「ない罪、作られた罪を自ら背負って、おのれを粗末にする必要なんかない」
「でも……」
「デモも遵法闘争もあるか!」
「………!」
「……君は一人の『人』なんだ、生まれて来たこと、今こうして生きていること自体に、充分に意味があるんだよ」
「………」
「安全圏からものを言っているだけに聞こえるかい?それでも構わず言わせてもらう。エリナ、君はいるだけで価値があるんだ。どうか、どうかこんなことはもうやめてくれ……」
そこで、ジェイは泪をあふれさせながら一気にくずおれた。
それを受け止めた瞬間、エリナは堰を切ったように慟哭する。
エリナが、今度こそ本当に心身ともに救いを得た瞬間であった。
「……私にとって、初めて自分を真正面から肯定された瞬間でした。ああ、私はここにいてもいいのだと。そう思うと、早まらなくてよかったと……」
今までが余りに茨の道であったがために、居場所が見つかったことの喜びは大きいものがある。
ジェイを敬慕したエリナは、その頃から彼を「マスター」と呼び始めた。
「あれも、そういうことでしたか……。製作者や所有者でもないのにおかしいと思ったんですよ」
「最初はたしなめられましたが、私が折れないのであきらめたようです」
その後エリナは、主と定めたジェイのために、献身的に動くことになる。
自分と同じ境遇にあった少女たちを救うための活動にも当然参加したし、逃避行でも自らの力を生かして先導を行った。
転移は余りに衝撃的であったが、それでもジェイを支えつつ、自らはなるたけ前向きにとUniTuber活動に精を出すようになったのである。
そうしているうちに、人を支えることにいつの間にか存在意義を見出すようになって行ったのだ。
あの日、ヒカリの激励に深い感銘を受け、改めてそのことに思いをはせたのも当然のことである。
そこでエリナは、軽く空を見上げると、
「……今の話を聞いて、私は強い、強くなったとお思いでしょうか」
そうぽつりと言った。
「元の世界で何度か話す機会があったんですが、聞いた方はみなそう言いました。こっちでもきっと言われることでしょう。でも、それは間違いです」
目線を戻してはっきりと言うエリナに、啓一は思わずはっとする。
「弱いですよ、私なんて。元があんなですよ?マスターがいなくて一人だったら、恐らく絶望して自殺しているか、復讐のため一族郎党道連れにして果てていたでしょうね。死ななかったとしても、投げやりに台なしに生きたでしょう。目に見えてますよ」
「………」
「そんな弱っちいのが、恐らくは誰もまずしないだろう苦労だらけの人生を、よくもまあ今まで生きて来たと思うんですよね。不思議なものです」
そこでエリナは、ふっとため息をついた。
「思うんですが……本当に強い人なんて、いるものなんでしょうか」
「それは……否ですね」
啓一は、明確な声でその問いを否定する。
「いるにしても、ごくごく稀ですよ。それだって正直怪しいものです。その他はただそう思い込んでいるだけか、慢心したただの馬鹿かです」
かさり、と草の上に枯葉が落ちた。
「……元の世界の時から、ずっと俺は『人は弱いもの』という前提でものごとを考えて来ました。手本にした小説家の方が、そういう考えの人だったので」
「………」
「でもですねえ、しょせんは自分が体験しないと分からないもんなんですね。こっちに転移して、自分の弱さをさんざ思い知らされましたから。余りに世界が違いすぎますし、不安になるのはもうどうしようもないにしても……ものを思えばいじけた気分になり、口を開けば愚痴が出て。正直あなたより弱いですよ、俺は」
「でもそれはよくあることだと……」
「ええ……そうなんだとは思うんですよ。しかし俺の場合いけなかったのは、サツキさんに迷惑をかけたってことです」
「………!」
「一緒に暮らしてますし、一緒に仕事もしている。常に距離が近いし話しやすいもんですから、全部彼女相手に……。しかも二十代前半の人に、半回り以上上のやつがそれですよ。サツキさんは研究員であってカウンセラーじゃないのに、我ながら何をやってるのかと」
そう言うと、先ほど落ちて来た枯葉を軽く蹴ってみせる。
「立場上口には出せないでしょうが、俺の相手は大変だと思います。悩ませてると思います。でも、止まらないんですよ。人がおのれの感情や行動を全て制禦しきれるなどと考えるのはおこがましい、そう分かってはいましたが……自分がいざそうなって、人をほぼ振り回すところまで行ってしまうと、精神的に相当つらいものがありました」
「………」
少し置くと、さっきの枯葉を足で引き寄せながら続けた。
「でもですね……先日、ヒカリさんから言葉を壁越しですがもらいました。恥ずかしい話なんですが、あれで泪を誘われましてね。隠れて泣いていたら、サツキさんに見つかって……そんなに人は強いものかと問われ、もっと自分自身を信じてほしい、あなたはいるだけで意味があるんだ、と言われました」
「………」
「……何ともはや、人の弱さを知った面でいながら、こうして言われるまで忘れていたとは。しかも、泪ながらにいさめられて。負うた子に教えられて浅瀬を渡るとは、さてもこのことでしょうか」
そう言いつつ、啓一は照れ隠しのように髪をかき上げる。
「正直これからどうしたらいいのか、まだ分かりませんがね。まあ簡単に答えが出るなら、今頃こんなぐだぐだ言ってはいないでしょうし」
かさり、と再び枯葉が落ちる音がした。
だがそれを踏みつける音が同時にしたのに気づき、二人が振り向くと、そこにはいつ起きて来たのかサツキが気まずそうに立っていたのである。
「……ごめんなさい、便所に起きたら硝子窓越しに誰か話しているのが聞こえて、出て来てしまったの。何となく入るも立ち去るも出来かねて……結果的に立ち聞きに」
「いえ、むしろこんな早朝に庭で話をしている方がおかしな話なので……気にしないでください」
エリナの言葉に、サツキが静かに眼をつむり礼をした。
「こりゃあ恥ずかしい……つらつら妙な話をしてしまっただけでも申しわけないのに。俺は歳食ってるだけで、偉そうにご高説垂れられるほどのやつじゃあない。第一こういったことに関しては、完全に倫理の破綻した世界で苦労させられたエリナさんの方が、よほど説得力があるわけだし……」
「そんなことは関係ありません。比べられませんよ、人にはみなそれぞれの事情があるんですから」
「当事者じゃない私が言うのも何だけど、エリナさんの意見に賛成よ、私も」
啓一は思わず、二人の方を振り向く。
ともに今まで、見たことのないような真摯な表情だった。
「むしろ私は、勉強になったわ。転移者の人たちは、あなたにせよエリナさんにせよヤシロさんにせよ、そしてヒカリさんにせよ、みな苦しんでいるんだと。理不尽に異世界へ放り込まれて、どうしたらいいのかも分からず暗中摸索を続けているんだと……」
「………」
サツキの達した結論は、啓一もまた達していた結論であった。
あちらの世界からは失踪にしか見えない以上、また一人でたたき込まれる以上、創作のように最初からあっけらかんとした気持ちでの暮らしはまず出来まい、と元から考えていた身である。
今回の事件でたまたま同じ転移者と出会って話をするうちに、それは確信に変わっていた。
「こないだの繰り返しになっちゃうけど……あなたは、いるだけで充分に意味のある人だと思うの」
「………」
「具体的にどういう意味があるかは、まだ明確に分からないと思う。私もそう言うんなら言ってみろとなると、言えないもの。それに……それが天賦のものなのか、自分で創るものなのかも、人によることだろうし」
近づいて来ながら、サツキは柵の
「でも、たといその理由が見つからずとも、絶対に生きて。この世界に、あなたが死んで……いやそこまで行かずとも台なしな生き方をして泣く人が、既に何人もいるんだから」
この言葉に、啓一ははっとなった。
九月五日に転移して来てから二ヶ月近くが経ち、啓一にも人脈が出来ている。サツキはもちろんだが、そこからシェリルにつながり、緑ヶ丘へ出張となったことで何人もの人と知り合った。
さらには偶然とはいえ、本来なら絶対会うことの出来ない「推し」までもがそこに加わっている。ファンには絶対にうらやましがられるはずだ。
この人脈自体が尊いのは言うまでもないし、自分がどうにかなれば必ず悲しませることになろう。
既に元の世界の人々を悲しませたのだ。せめてこの世界では人を悲しませるまい。
そう思えば、あたら無駄に人生と命を浪費することなぞ出来ようはずもなかった。
「……ありがとう」
自然に口をついて、言葉が出る。
「お礼言われるほどのことじゃないわ。それより、エリナさんはどう思う?」
「同じです。ファンの方と、こうして知り合いになれたというのに……その人が、眼の前でむざむざと自分を粗末にして行くのを見たくありません。どうか、ご自分を大切に」
「ほら、『推し』までもこう言うんだから。あなた、悲しませたらファン失格よ」
エリナに乗る形で言うサツキに、啓一は少しだけ苦笑すると、
「分かった。……約束しよう」
静かにほほえんだ。
その時、にわかに遠くで鐘が鳴る。
どうやら何かの事情で、六時ではなく一時間遅らせて七時に鳴らしている寺があるようだ。
それを聞きつつ、啓一はふっと疑問に思う。
(そういや松村も転移者だが、あの野郎は何考えて生きてんだ?)
このことだった。
異常者のことゆえ今までまるで気も向けなかったが、よく考えると異世界でこれだけ自分の妄想をまき散らせるというのは、いくら転移に夢を見ていたとしても理解出来ない。
もっとも理解する気も起きないし、理解出来たら人として終わりのような気もするのだが……。
(ああ、全く。どうでもいいだろ、あんな糞野郎のことなんぞよ。いい雰囲気だったのに台なしだ)
そう考えて、
にわかに本通の奥が赤く光ったかと思うと、どおん、という爆発音が轟いたものである。
「えッ」
朝の清冽な空気をいきなりつんざいた音に、一瞬三人が固まり、一気に
余りの音に家の中の一同も目覚めたらしく、飛び出して来て下をのぞく。
「何だ、何が起きた!?……通りで火災!?」
「啓一さん、あれ!乗用車よ、乗用車が燃えてる!!……場所は、警察署の手前!?」
「……今、確認しました!真島さんの言う通り、中型の乗用車が爆発炎上してます!!警察本部から……そうですね、市庁寄りに二百メートルほどのところ!」
獣人の人間を超える視力と、アンドロイド特有のアイ・カメラで確認したらしく、サツキとエリナが状況と場所を即座に特定した。
『聞こえますか、エリナさん!スピーカーにしてください!』
「は、はい!……切り替えます!!」
シェリルが急ぎということで内蔵通信機につないだらしく、エリナが左耳に手をやって答える。
『みなさん、もしかすると見たかも知れませんが、本通上で乗用車が爆発炎上しました。この街を取り巻く状況を考えると、テロの可能性があります』
エリナのすぐ横から、シェリルの緊迫した声が流れて来る。
『……諒解……すみません、ちょっと仕事の無線混じり状態で。ともかく、消火すらまだしていない状態ですので、改めて確認の上連絡します。今は、危険ですのでそこで待っていてください!……住民の不安解消のためパトカーを植月町内へ……』
警察も突然のことに相当の騒ぎになっているらしく、シェリルは警察無線に応答しながら通信を切った。恐らくは回線を完全にあちらへ切り替えたのだろう。
「……くそッ、あの野郎、ついに頭が完全にいかれたかッ」
「待って、まだ松村のしわざとは言い切れないわ」
「ですが、大庭さんの言う通り状況が」
「とにかく落ち着くことが大事です、こちらは何も出来ないんですから」
「シェリルがこっちいる時に、何てことしてくれるのよ」
「嫌、嫌よ……どうしてこんなこと……」
口々に言い立てる中、シェリルを迎えに来たらしきパトカーが通り過ぎるのが見える。
「畜生!奸賊めが……ッ!」
啓一は拳を握りしめつつ、遠ざかるサイレンにのどの奥から絞り出すように言った。
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