十三 懊悩(一)
二日後。
朝食を食べた啓一とサツキは、植月神社の境内のベンチで手持ち無沙汰に座っていた。
いつもなら気持ちのいい小春日和が、嫌に小憎らしい。
「調子悪そうだね……」
「そりゃそうよ、このところ怒濤だったもの」
そう言うサツキの手には、
「失踪者二人の拉致判明 組織的犯行か」
「連邦警察 『緑ヶ丘女性連続拉致事件』と命名」
そんな見出しの新聞があった。
「……実験の話は発表しなかったわね」
「しょうがないさ、ことが重大すぎて、おいそれと外に出せるもんじゃない」
あれから……。
シェリルは捜査拠点の警察署に戻り、捜査員をいるだけ招集してヤシロ宅での聞き込みの結果を全て報告した。本部とも通信をつないでの大がかりなものである。
本部はこの報告を受けて、この二件の拉致事件を「緑ヶ丘女性連続拉致事件」と命名し、改めて緑ヶ丘に市警との合同特別捜査本部を設置することを決定した。他の失踪事件も関連が認められ次第、順次組み入れられる予定とされている。
もっとも人体改造実験の話は伏せられているため、この措置はあくまで仮だ。実験の事実が公式発表された際には、事件名が変更されることが内定している。
「互いに大変だな……ほい、お茶」
百枝がポットを持ってひょいと現れ、横に座った。
「すみません。……倉敷さんも、げっそりしてますね」
「そりゃそうさ。頭がいまだに追いつかないからな……。しかし証拠提出となるとヤシロさんに累が及びそうだが、結局刑事殿はどう処理するつもりなんだ、あれ」
今回証拠としてデータ類はおろか、清香の元の躰も提出されることになっている。
しかしこうなると必然的にジェイが清香をアンドロイド化したことも明らかにする必要が出て来るため、せっかくのシェリルのはからいも無駄になりかねなかった。
「それ訊いてみたんですけど、アンドロイドに移したのまでなすりつけるつもりみたいですね」
「出来んのか、そんなこと?」
「出来るみたいです。いざとなったら『ぶち転がす』のもありかもと言ってましたよ。……これは首を突っ込んじゃいけない話だと本能的に思ったので、余り考えないことにしました」
「そ、そうだな、あそこなら……」
サツキの言葉に、何をするつもりか大体理解した百枝が顔を引きつらせる。
「そもそもあんな下衆な連中、ぶち転がされたところで残念でもなく当然でしょう。汚物はそれ相応に処分するのが世の理というものですし」
「うわっ……啓一さん、あんたの彼女思ったより怖いな!」
サツキがいきなり毒を吐いたのに、虚を突かれた百枝がのけぞった。
だがはは、と笑おうとして、啓一は妙なことを言われたのに気づく。
「あの、倉敷さん?『彼女』って……別に俺、サツキさんとは何にもないですよ?」
このことであった。
「……え?そうだったのか?」
「そうだったも何も、ないですって。一つ屋根の下だからっていくら何でも短絡的ですよ」
「……まあ、短絡的と言われりゃそうだけどな。仲よさそうなの見て、勝手に思ってただけだし」
「それにですよ、そもそもそんなこと有り得ませんって」
「有り得ないって……そこまで言っちゃうか?理由はどうあれ一緒に住んでるんだから、これから先好いたの惚れたのになる可能性は普通より高いだろうに。存外、啓一さんが惚れられるなんて展開になるかも知れねえぞ?」
「ありません、それこそありませんよ。元々女性に惚れられる要素なんかないんですから。それに取り立てて格好のいいようなところも見せてないし、それどころか場によっちゃ存在すら空気みたいなもんだし。これで惚れられるなんて思うのは、ちょっと不遜じゃないですかね」
「……いや、そんなむきになって否定することでもないと思うぜ」
余りに根性の入った否定ぶりにさすがに困惑したのか、百枝とサツキが眉間にしわを寄せる。
「……何で最初からそんな風に決めつけるのかしら」
そうサツキがぽつりとつぶやいた時だ。
「こんにちは」
参道から清香が顔を見せる。
「あ、先輩」
「……
あわてて手をぶんぶんと振る清香に、
「おいおい、その身振りの時点で役が壊れちまってるんだから、今さらいいんじゃねえの?」
百枝があきれたような声で突っ込んだ。
「だ、だけど誰が見てるか……」
「見てやしねえっての。ここは木が多いし、周りの家からほとんど見えないんだぜ。それに見えたって、清香さんの存在自体を知らない人の方が多いし気にしねえよ」
ぐるりと境内を指差され、清香は折れる。
「……言われてみればそれもそうね。役作るの大変すぎるから、事情知ってる人たちと会う時くらい素に戻らないともたないわ」
「大体何で無口で淡々とした性格なんて、全然違う方向にしちゃったんだよ」
「そ、そう言われても、下手にしゃべったり感情出したりするとぼろ出るんじゃないかって」
「まあまあ、しちゃったものは仕方ないですって」
サツキが横合いから二人を取りなした。
「それにしても、偽名生活が延びるなんて思わなかったわ……」
「こっちもいつ大っぴらに『先輩』って呼べるようになるのか、分からなくて困ってますよ」
実は連邦警察が人体改造実験の事実を伏せたことによって大きなあおりを受けているのが、清香たちヤシロ家の人々なのである。
「事件がないのだから被害者もいないということにしないとおかしい」
そういう理屈から清香と葵はあくまで連続拉致事件の被害者とされ、「現在も行方不明」として扱われざるを得なくなっているのだ。
このため存在の露見を厳に防ぐ必要があるからと、清香については引き続き偽名の「セレナ」で暮らすことを余儀なくされ、葵に至っては外に出ることすら許されていない。
その代わりに警察は「奈義葵捜索班」の名目で刑事や警察官を派遣し、葵の存在が露見して危険が及ぶのを防ぐとともに、重要人物であるヤシロ家の住人もそれとなく守ることを約束した。
ここまでしてくれるとなると、さすがに協力しないのは不義理というものである。
もっともそれがなくとも下手に動くと危険極まりないのはどう見ても明らかなので、こうなってしまうのも仕方のない話なのだが……。
「清香さんはぼろ出しさえしなければ外でも怪しまれないからまだいいが、葵はなあ……完全に逃亡者だから存在自体非公開だ。見舞いもなるたけするなと言われてたまらないよ」
茶を飲み干し、百枝はやれやれとばかりに肩をすくめる。
「理屈は分かるんだけどな。この手の犯罪の中でも、今回のはかなり手が込んでる上に兇悪な部類に入るから、慎重に動かざるを得ないってのは……。既に一発死刑台送りが出るの確定してるし」
種族転換禁止法によれば、今の時点で首謀者はおろか実行者の多くにも法定刑死刑のみの条項が適用されることが確実だ。一体何人ぶら下がるのか想像も出来ない。
さらに……。
「シェリルがちらりと言ってたんですが……警察では最悪の流れとして内乱の発生も想定してるって話なんですよね。今分かっている事実や疑惑をつなぐと、そういう想定が出来るって」
サツキの言うことは一見すると突飛もないようだが、一応の材料はそろっていないでもない。
まず、清香や葵を運んだ者が私兵として蓄えられたものである可能性が高かった。本格的な軍事訓練を受けたと思われる者を複数身近に置き、裏で秘密任務に従事させている時点で、単なるボディーガードや警備員として起用された存在ではないと考えられる。
そこに民間人の拉致と人体改造実験が加わって来るのだ。葵が戦闘用を意識して改造されていることを考えれば、その最終目的は戦闘能力を持った改造人間を量産することなのではあるまいか。
このようなことから綜合すると、敵は生身の兵士と改造人間の両方を使った武装組織を作ろうとしているとも考えられるのだ。
そしてこういった武装組織がまず一番に企図することといえば、大規模な武力行使によって既存権力である国家に弓引くことであろう。
「私も最初は大げさだと思いました。でも無期刑や死刑だらけの法律を平然と破っている時点で、常識も倫理観も壊れ切ってるのは明らかですからね。それに実際のところ、人体改造犯罪の犯人は大半が権力を恐れていないそうですから……。そんな連中が戦闘用サイボーグを作ろうとした上、生身の兵士まで蓄えてるかも知れないなんてなったら、やはりこれくらい疑って当然だと思うんです」
「ああ、言えてるな。そりゃあんな人殺しよりむごい犯罪犯すんだ、権力が何ぼのもんじゃい、来るなら片っ端から蹴っ転がしてやるくらい考えるだろ。そんなぶっ壊れたのの群れが武装組織作ると解釈出来そうな動きしてるとなったら、そこまで考えちまうよなあ。だけどもしこの想定が当たってたら……多分じゃなくても未曾有の大騒ぎになるぞ」
百枝が冷汗をたらりと流しながら言うのに、
「そうね。多少私もあの子のおかげで刑法は知ってるけど、内乱予備罪や内乱陰謀罪に相当する可能性があるわ。しかも適用されたら国内初ってほどの大重罪……」
清香が険しい顔のまま首を振った。
内乱関係の罪は、我々の世界の刑法でも「内乱に関する罪」として規定されている。
だが余りに強権的な内容であるため、旧刑法の時代から検察も裁判所も嫌がり、適用検討ですら数度しかない。それはこの世界、この国でもどうやら一緒のようだ。
それが適用される事態になったなら、大騒動はもはや避けられまい。
「まだ予備や陰謀で済んでいればいいけど、そこから進んで実際の武力行使に出たら大変なことよ。規模によっては立派な反政府勢力だもの」
「ですね、下手すれば内戦じゃないですか」
「しかも犯人は、状況的に考えて一新興国産業辺りの可能性が高いんじゃないのかしら。今回の実験があったのがあいつらの勢力圏内だったもの。それ抜きにしたって、何やるか分からないような危ない連中じゃないの。技術持ちでもあるしね」
「有り得ます。警察でもそういう理由で目をつけてるって話ですから」
「やめてくれ、街乗っ取った上に国家転覆とか……冗談きつすぎるぜ」
清香とサツキが言うのに、百枝がげっそりとした顔となった。
そこで啓一が、どんどん恐ろしい方向へと話を持って行く三人を見かねて口をはさむ。
「まあまあ、三人とも……まだそうだと決まったわけじゃないじゃないですか」
「それもそうだけど、あながち嘘に聞こえないくらいに臭すぎるじゃない」
「……サツキさん、よく考えてみなよ。今分かっていることだって、まだ全体像が見えてるわけじゃない。さらに言うと犯人として一新興国産業が候補に挙がっているとはいっても、あくまで候補であってそうと決まったわけじゃないんだ」
「うッ……」
その通りだった。
清香が改造されたのは大門町、葵が改造されたのは横山地区周辺で、一新興国産業の勢力圏内かその近辺である。また二人の改造実験記録が発見されたサーバも、大門町にあると推測されていた。
これからするに少なくとも一新興国産業が限りなく真っ黒に近いのは確かであるが、確実に同社の犯行であるという直接的な証拠はまだ一切ない。
「俺もみんなと同じ見方なんで、有り得ないことと否定はしないさ。ただこれはあくまで想定、しかも最悪も最悪の場合の想定じゃないか。今は置いておくべきだ」
「……それもそうね。不安になりすぎてたみたい」
「思わず話を大きくしすぎちゃったわ……」
「うーん……ほんと疲れてんなあ、ろくな想像しやしねえ」
啓一がなだめるのに、三人は一気にしょげ返った。
もっとも、こんな風に不安の導くままただならぬ方向へと話が進んでしまうのも無理もない話である。それほどまでにこの話が衝撃的すぎる証左のようなものだ。
その姿を見ながら、啓一は一つ息をつくと、
「でもまあ、恐ろしい話なのは確かだな。何せ特撮の『悪の組織』を現実でやろうってわけじゃないか……。あれを実現するために平然とあんなおぞましい行為に手を出すなんざ、空想と現実の区別がついてないにもほどがある」
あきれたようにむっつりとした顔で言う。
だが次の瞬間、三人が急にいぶかしげな顔をしてこちらを見ているのに気づいた。
「………?ど、どうしたんですか?」
「どうしたって、啓一さん……何だかずれてない?」
「ずれてる……?」
サツキがぽかんとして言うのに、啓一は必死でさっきの自分の言葉を思い浮かべてみるが、取り立てて何かおかしいところがあるとは思えない。
「だってさっき、空想と現実の区別が云々って言ってたでしょ」
「そうだけど……」
啓一がなおも分からないという顔をして言うのに、サツキは、
「こっちじゃ空想じゃないの、現実のことなのよ」
じれたような声で言った。
「あッ……!」
この言葉に、啓一はようやくサツキの言葉の意味を悟って凝然とした。
「そうか……!この世界じゃ現実に技術があって現実に犯罪を犯せるから、この話も現実の兇悪犯罪の延長って扱いになるわけか!」
このことである。
「……このずれは世界というより、時代が違うせいね。二十一世紀初頭じゃまだ技術がなくて、人体改造自体絵空事だったわけだし。こっちじゃ現実にあることだと分かっていても、空想だって頭にしみついちゃってるからこうして不意に出ちゃうのかも」
清香が言う通り、我々の世界には人体改造技術はおろか、それに悪用されるナノマシン技術なども現実にはどこにも存在しない。
どこにあるかといえば、それは創作物の中だ。人体改造に関して言えば、平成初頭以前の『仮面ライダー』を筆頭とする特撮番組や一部のSF作品がそれに相当する。
つまり啓一にとって「現実世界で改造人間を造って国家転覆」というのは、
「空想でしか出来ないことを現実でやろうとする異常犯罪」
として認識されているわけだ。
だがこの世界には人体改造技術も関連技術も現に存在し、それを用いた兇悪犯罪が現実にいくつも起きているのである。「特殊犯」と呼ばれて警察に専門の捜査部署まで置かれるのだから、その件数も決して少なくはないのだ。
むろん創作物の中にもあるが、それはもはやSFの扱いを受けることはない。完全に空想でしか存在し得ない技術でもなく、出来ないことでも起こり得ない事件でもないからだ。
要するにサツキたちの中では内乱の話は、
「現実で起こっている兇悪犯罪をさらに獰悪にした異常犯罪」
として理解されていることになる。
両者とも「異常犯罪」として恐れているには違いないのだが、根本の認識が全く違うのだ。
「不覚だ、気づかなかった……。そうだよな、現実で存在するものを空想でしか存在しないものという認識で語ろうとすりゃ、そりゃずれもするわ。しかも、技術の存在はしっかり理解してるからねじれてるし……うっわあ、恥ずかしい」
「い、いや、仕方ないわよ。こっち来てまだ慣れてないんだから」
「そうよ。それに人体改造犯罪の話なんて、普通するもんじゃないし」
「まあ、何というか……どう考えても気づきづらい話だよ、気にすんなって」
三者三様に慰められるが、啓一は悔しげに悄然としたままである。
知識の大きな齟齬が突然眼前に現れるという、彼としては一番嫌な展開となったのだから、この反応も仕方ないといえば仕方なかった。
気まずい空気が流れるのを払拭しようとしたか、そこで百枝が話を変える。
「そいやあんたら、工事の不手際で二週間休みになってたっけ。明けたらどうすんだ?」
「とりあえず、普通にやるとは思うんですけど」
サツキが言う通り、工事が再開するのはまず確定だ。いくら事件が起こっているといっても、この工事とは何の関係もないし続けたところで危険性もないからである。
「そうか、今の状態ならそうだよな」
「そうですよ。第一、再開してくれないと来た意味が……」
「俺も困ります。役立たずの地蔵とはいえ仕事はしないと」
「……そんな風に言うことないじゃない」
自虐する啓一に、サツキはため息をついた。
「とりあえず先輩は帰らないとまずくないですか?多分待ってますよ、みなさん」
「そうね。あくまで今はメイドだし……それじゃ、また会いましょう」
そう言うと清香は、華麗にカーテシーを決めて奥宮へ続く裏道へ入って行く。
余りに板にはまった姿に一同はぽかんとした。
(もしかして割と楽しんでるんじゃないか、あの人?)
事実ヤシロ家にいる時も、演技などではなく本物のメイドとして積極的に家事をしているというのだから、あながち間違ってはいまい。
それはともかく……。
「さて、俺たちはどうしたもんかな」
啓一が、まだ呆けているサツキの方を向いて問うた。
「それなら勝手に使ってくれていいよ、境内。ちょっとあたしは町内会行って来る。地域の人ら、特に年寄りに不安が広がっててさ。これからのことを相談しようって言われてんだ」
仕方もあるまい、今の新聞報道の内容だけでも市民は不安だろう。
「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて」
「ああ、そんじゃ」
そう言うと、百枝はそのまま境内を出て行った。
「………」
後には、ぽつんと啓一とサツキだけが残される。
「……本当に異世界転移って、罪深いよな。ヤシロさんの話聞いててつくづく思ったよ」
唐突に、啓一がぽつりと言った。
「いくら元がろくでもない世界だったとはいえ、とりあえずあの人も目標あって技術者になったんじゃないか。エリナさん助けて以降はもののはずみとはいえ、『悪』の汚名をかぶってでも同じ境遇の子助けたりしてさ。相当な使命感あったんじゃないかね」
「………」
「それがぷっつり。助ける相手がいないから使命感も糞もなくなった。それ以前に事実上一人だけしか助けられなかったんだから、残して来た九人のことを思えば苦しみは半端ないだろうさ」
「……確かに残酷よね。後味悪すぎだもの」
サツキはそう言うと、深くため息をつく。
「それに本人も言ってたが、あの人も知識的な面でこの世界との食い違いがある。この世界より自分の持ってる知識や技術の方がレヴェルが上ってタイプだが、下手に上なだけに活用の機会がないんじゃないかね」
「それは……」
「自ら縛につこうとした辺り、あの人分かってるんじゃないかな。自分の知識や技術がこの世界ではあってはならないもの、それで理不尽な扱いを受けても仕方のないものだって。あの人以外の手じゃあの技術をこの世界で再現出来ないことくらい、みんなの反応見てれば俺でも想像出来るしな。危険人物として四面楚歌に平気で追い込まれかねない環境だ、つらかろうよ」
サツキは静かに眼を伏せ、ジェイが清香を今の躰に移した時の話を思い浮かべた。
あの時は常識外れの技術に驚くしかなかったが、よく考えればあれを受け容れられる土壌も使う場所もこの世界にはない。
せっかく培った知識がこれまでも、そしてこれからも宝の持ち腐れなのは、目に見えていた。
「でも一方でその知識や技術があったからこそ、二人も人を助けられたし、陰謀を暴き出すのに貢献することも出来た。それにあっちで助けたエリナさんだって、こっち来てからUniTuberになったのきっかけで前向きでいられてるって話だからな。例えこれから知識や技術を使う機会がなくとも、救った結果が確実に出ている、それだけで心の支えになるだろうさ」
そこで啓一は、切なげな眼で拝殿の屋根を見る。
「それに対して、俺はどうかね。まあ目標については幸い尾くらいは捕まえられた感じはあるし、知識も常識も通じる部分が思ったより多かったから、最悪の事態はまだ避けられたけども……。ならお前は役に立ってるのか、って言われると疑問があるね」
「………!」
サツキはその言葉にどきりとした。このことだけは、まだ解決していない。
「い、いや、所内報の校正とか、今回のことなら『白桜十字詩』の解釈とか……」
「まあそういうところで地味に役に立ってるのは確かだけどさ、結局脇道だろ。本筋じゃ君やみんなを本質的に手伝うことは出来てないじゃないか。いわんや社会の役に立つなんて夢のまた夢だ」
「………」
この時ほど、サツキは啓一を研究所に放り込んでしまった自分の軽率さを怨んだことはなかった。
「役立たずの地蔵」というさっきの言葉が、ずんと心にのしかかる。
「他に何か魅力でもあれば別だが、人ってのはそうも簡単に行かないさ。というより……こうやって愚痴ってること自体がどうなのかねえ。創作の主人公だったとしたなら『感情移入出来ねえ』って眉しかめられるんじゃないかな。しかもさっきも言ったが空気になる素質は充分にあるってわけでね、『いる意味あんのか』くらいは言われるよ」
「………」
「ま、すねても仕方ねえや。また地蔵に戻るだけさ。は、はは……」
啓一の乾いた笑い声に、サツキは何も言えなかった。
安っぽい慰めや叱咤激励ならいくらでも出来る。だがそれで彼の深い懊悩が消えるとは、どう考えても思えなかった。
「ああ、てっぺん回るか……どこか、食べに行くかね」
「ええ……」
そう言って二人は長いこと温めていたベンチを後にする。
それを見送るようにして、拝殿の屋根の向こうを静かに雲が通り抜けて行った。
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