28

 僕らの住む地域では、3日後に花火大会が開催される。かなり規模の大きい大会で、3日間屋台がずらりと河川敷に並ぶのだ。


 「花火大会、行きたかったなぁ」


 「あぁ、3日後だね」


 今日も彼女はその白いベッドと全く差のない白い肌をほんの少しだけ紅潮させて、そして花火大会に行けないことを悔やんでいた。


 「外出許可とか、貰えたりしないの?」


 僕は窓の外を眺めながら、それとなく聞いてみる。


 「うーんどうだろ……。アルツハイマーだし、薬さえ飲んでれば大丈夫な気もするんだけどねー」


 彼女は腕を組んで、首を傾げる。


 「先生に聞いてみようかな。もしかしたら、許可が下りるかもしれないし!」


 そのとき、ちょうど看護師さんが病室にやってきて、これから検査だと言った。


 「それじゃあね、颯くん」


 彼女は手を振って、病室から出て行った。廊下から、看護師さんの「あの男の子、最近よく来てるわね。彼氏?」という声が聞こえて、思わず顔が熱くなった。そのあと、彼女の「ええ、やだなー。全然違いますよぉ。タイプじゃないですもん」という声もちゃんと僕の耳に入った。……分かってるとも。


 ふと、テーブルの上に置かれた1冊のノートが目に入った。彼女はアルツハイマーを発症してから、日記をつけているらしい。毎日ではないけど、思い出に残しておきたいことなんかは文字に書き起こしているのだとか。

 よくないことかもしれないけど、僕はそのノートの内容が気になった。ひょっとしたら僕のことが書いてあったりするかもしれない。と、あらぬ期待を抱いたりする。けれど、彼女が不在の時に人のプライバシーを覗くのも憚られたので、僕はさっさと帰ることにした。僕に関する内容が書いてあるかは、いつか彼女に直接でも聞けばいい。


 そう思って、僕が立ち上がったその時だった。例により10センチほど開けられた窓から、強い風が舞い込んできた。そして、そのノートがパラパラとめくられたのだ。参ったな、見るつもりはなかったのに。と思っていても、やっぱりどうしても内容が気になって、僕はその偶然にも開かれたページを覗いてしまった。


 そして、戦慄した。


 ”生まれてこなければよかった”


 でかでかと乱雑な字で、そう、書いてあった。僕はその瞬間、呼吸の仕方を思い出せなくなった。僕に病気のことを打ち明けてもなお、あんなに明るい笑顔で話す彼女。あんなに楽しそうに笑う彼女。そのせいで、気づけないでいた。彼女の胸の内の苦しみなんて、僕は何も知らなかった。

 そうだ。彼女は不安なんだ。心細くて、悲しくて、辛くて、どうしようもないんだ。不安で、押しつぶされそうなんだ。……何で僕は、今までこんな簡単なことに気づけないでいたんだろう。

 馬鹿なのか。馬鹿だ。僕は馬鹿だ。馬鹿なんだ。馬鹿でしかなかった。馬鹿以外の何者でもなかった。何で、何で、気づこうともしなかったんだ。

 知らないうちに、涙があふれてきた。心細くて、悲しくて、辛くて、どうしようもなくなって、情けなくて涙があふれて止まらなかった。

 僕はたまらずノートを乱暴に閉じた。もう触れてはいけない気がした。もう、この永遠とも思えるほどの闇に僕ごときが踏み込んではいけないと思った。


 「ごめんっ……、」


 何度謝ったって、彼女の苦しみも不安も消えることはない。むしろこれから増えて、膨らんで、最終的には破裂する。


 「ごめん、ごめん、菜乃葉……!」


 僕は声をあげて泣いた。病室の前を通り過ぎる人たちの視線なんてどうでも良かった。僕はそのまま床に崩れ落ちて、わんわん泣いた。誰も僕を許してくれなかった。許されなくてよかった。むしろ許してほしくなんかなかった。この過ちが許されたら、僕は僕でいられなくなる。耐えられなかった。


 「っ……藤崎?」


 しばらくたって、それでもまだ号哭し続ける僕を病室のドアのところで立ちすくんで見ていたのは、証梨だった。


 「お前……どうしたんだよ」

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