15

 一人で入るには少し勇気のいる、おしゃれなカフェだった。でも、僕が意を決してそこに入ったのには、深い理由わけがある。

 ”ひんやりチーズケーキ”。以前SNSでこの広告を見つけてから、ずっと気になっていたこのチーズケーキが、どうしても食べたかった。僕は甘党だ。そして、スイーツの中でも特にチーズケーキには目がない。だから僕は、この店に入らないわけにはいかなかった。


 僕が呪うべきは、別にこの店のチーズケーキではない。今日ここに来るという僕の選択と、彼女たちの選択だ。


 「あれ、颯くん」


 「お、藤崎」


 店内で僕がお目当てのチーズケーキより先に目にしたもの。それは、蒼城菜乃葉と月島証梨だった。


 「……偶然だね」


 「藤崎、なんか顔引き攣ってない?」


 鋭い証梨の言葉に、僕は苦笑いだけを返す。


 「そんなことないよ?」


 「颯くんももしかして、チーズケーキ食べにきたの?私たちも」


 「いや」


 何で僕は、こんなことを言ってしまったんだろう。


 「チーズケーキ?僕はここに涼みに来ただけだよ?ここはアイスコーヒーが美味しいって聞いたから」


 「……誰に?」


 怪訝な顔をして、証梨が聞いてくる。そんなこと、僕が聞きたい。本当に、僕は誰にも聞いていない。そんな人は僕の周りにいないから。


 「……そっか、なんだ。ねぇ、良かったら一緒の席に座ろう」


 菜乃葉の提案に、僕は慌てて首を振った。


 「い、いやいや。2人でいるところを邪魔しちゃ悪いから」


 「構わないよ、クラスメイトなんだし、それくらい」


 何でもないような顔で証梨が言う。菜乃葉も満面の笑みで頷いている。


 「……あっ、僕用事があるんだったぁ。じゃ」


 「涼みに来たんだよねぇ。外はまだ暑いよ?アイスコーヒー飲むんじゃなかった?」


 証梨がニヤニヤしながら言った。あぁ、これは……ダメだ。


 「はい、決まりね!ほら行こ」


 マジで、何なんだこの2人。

 僕は菜乃葉に手を引かれ、証梨に背中を押され、あっという間にテーブル席に座らされてしまう。2人はニコニコしながら、僕の向かいの席に揃って座る。


 「にしても、ホント偶然だね!さっき、証梨と2人で君のこと話してたの。それがまさか本当にこんなところで会っちゃうんだもん。運命感じちゃうね!」


 何の運命?


 「何の運命だよ」


 証梨が笑いながら言う。おお、よく分かってる。


 「菜乃葉、何頼むの?」


 証梨はメニューを手に取り開くと、菜乃葉に見せてそう尋ねる。何だか、そんな光景を見ていると、証梨がまるで菜乃葉のお姉さんか、お母さんに見えてくる。


 「チーズケーキは確定として、あ、このキャラメルラテ美味しそうだなあ」


 「私はカフェラテだけでいいかな。甘いの、そんなに好きじゃないし」


 「もう、証梨。チーズケーキは全然そんなんじゃないから!絶対、証梨も食べれるよ」


 「……じゃ、あんたに任せるよ」


 証梨はそう言うと、菜乃葉にメニューを渡す。さすが親友。彼女の扱い方をよく解っている。


 「藤崎は?アイスコーヒーだっけ?」


 「あぁ、うん」


 本来なら、ここでチーズケーキと言うべきだった。当初の目的はそれな訳だし。けど、僕は言わなかった。ただでさえ女性の客が多いこの店内で、こんな普通の男子高校生がチーズケーキを頼む。それは、僕にとってかなり高難易度のミッションだった。

 1人なら、まだ良かった。ただこれが、クラスメイト、まして普段よく喋る人ともなれば話は別だ。

 要するに僕は、ただの臆病者チキンというわけだ。


 「チーズケーキ食べないの?」


 「……あぁ、アイスコーヒーだけでいい」


 仕方ない。チーズケーキは、また今度“1人で”来た時に食べよう。


 「オッケー。じゃ、ボタン押してくれる?」


 彼女に言われたとおりテーブルの端に置いてあるボタンを押すと、ピンポーンと軽やかなチャイムが店内に響く。僕は、頬杖をついて窓の外を見る。

 ……何でこうなったんだろう。こんなはずじゃ、なかったんだけどな。なぜ休日にクラスメイトとカフェになどいるんだろう。そんな僕の脳内問答を目の前の2人は一切気にする様子はなく、「あの店で買ったアクセサリーが、」とか「次はあそこの服屋に行こう」とかそんなことを話して盛り上がっている。

 まあ、どちらも顔面偏差は高いし。服装もオシャレだし。そういう会話で盛り上がっていたっていいんだけど、でも、なんか……。とにかく、僕はこの場に居づらかった。というか、要らないなと思った。


 「あ、藤崎」


 「……はいっ」


 突然証梨に名前を呼ばれ、慌てて彼女に向き直る。


 「あんたさ、菜乃葉に勉強教えてるんでしょ?どうなの、こいつのデキは」


 「ちょっと証梨、休みの日まで勉強の話しないでよ」


 「はぁ?あんた言ったよね、勉強はひと段落ついたから息抜きに出かけたいって。まさか私に嘘ついてるわけじゃないよねえ?」


 なるほど、彼女たちがテストを控えた休日に出かけているのはそういうことか。まあ、それは僕も一緒なんだけど。


 「いやいやいや!決してそんなことはないですよ?ちゃんと勉強したもん!ねぇ、颯くん」


 菜乃葉から、嫌と言うほどアイコンタクトが送られてくる。擁護する感じで上手く立ち回れ、というところか。ということはつまり、彼女は家で勉強なんてしていなかったのだろう。

 証梨からも、視線が送られてくる。「洗いざらい吐け」と言わんばかりの視線だ。彼女は刑事とか検事とか、そういう人から真相を引き摺り出すような職業が合っていそうだな、などとくだらないことを考えたのち、僕は決心した。


 「うーん。菜乃葉は……」


 普段の僕なら、きっと逆のことを言ったのだろう。


 「ちゃんと、勉強してるよ。金曜日の放課後には、数学の応用問題を自力で解いたんだ。あれは、家でしっかり勉強してないと解けないやつだよ」


 応用問題を自力で解いたのは、本当のことだ。それに僕は、何となく、思えたから。

 僕はこの場には要らない。でも、居てもいいんだと。


 「……そ。藤崎が言うなら本当なんだね。あんた、くだらない嘘はつきそうにないし」


 そう言われると、少し良心が痛むけど。


 「お待たせしました、ひんやりチーズケーキと……」


 僕が目にしたのは、輝く宝石のような、艶やかなチーズケーキ。


 あぁ、食べたい。


 「……と、こちらアイスコーヒーになります」


 「……ハイ」


 僕の目の前に置かれたアイスコーヒーの氷が、コロンと音を立てる。


 「きゃー!絶対美味しい絶対美味しい絶対美味しい」


 「うるさいよ、もっと静かに食え」


 パシャパシャと写真を撮りながらはしゃぐ菜乃葉を、証梨が宥める。


 「うふふふ、もう、なんか、目が『美味しい』って言ってる!」


 どういうこと?


 「どういうことだよ」


 どうやら僕の意見と証梨の意見は、素晴らしく合致するらしい。ストローでアイスコーヒーを飲みながら、菜乃葉がフォークを入れるチーズケーキをぼんやりと見つめる。


 「藤崎、それブラック?マジか、高校生でブラックか」


 証梨に言われて僕は思った。え、これブラック?


 「んんっ、」


 コーヒーの強烈な苦さに、僕は思わずむせ返る。信じられない、まさかブラックで飲んでいたなんて。


 「え、何。飲めないの?」


 証梨が変な顔でこちらを見てくる。


 「いや、ちょっとぼーっとしてて……ミルクと砂糖を忘れてた」


 「あっはは!颯くんのドジぃ」


 菜乃葉には言われたくない。けど、僕は自分の間抜けな行為を恥じた。コーヒーはもちろん好きだ。でもそれは、“甘苦い”コーヒーであってこその話。僕は基本、コーヒーは砂糖ましまし、ミルクどばどばのやつしか飲めない。ほら、僕甘党だから。


 「藤崎、やっぱ変わってるよなぁ」


 なんてことだ。こんなところで変人認定されるなんて。僕は熱くなった頬を覚ますようにミルクと砂糖を足したコーヒーを口にする。


 「ねえねえ、そんなに苦かったなら、チーズケーキちょっとだけあげよっか?」


 菜乃葉に言われ、思わず「うん」と頷きそうなる。……いいや、ダメだ。今ここで折れるわけには。と、もはや何の痩せ我慢なのか分からなくなってまで僕は必死に耐える。


 「……いや、大丈夫。もう僕の“特製甘苦コーヒー”が完成したから」


 「きゃっはー!おもしろーい‼︎」


 どんな笑い方だよ。そんな世紀末みたいな。


 「ちょっと、お店の中でそんな世紀末みたいな笑い声あげないでよ」


 ……ここまでくるとかなりシンパシーを感じる。僕は証梨に畏敬の念を抱きつつ、アイスコーヒーを嗜む。ああ、やっぱりちょっと苦い。僕にとって、コーヒーとは甘いものがあってこそ飲むものだ。一緒に味わうことで、互いの不足を補い合って成り立っている。これは個人の見解だけど。やっぱり、変に意地を張らないで「チーズケーキがいい」と言うべきだったかな。いやでも、ここまで拒んだのだからもう引き返せない。……何なら、彼女たちが帰った後に1人でチーズケーキを食べようか、とも思った。そうだ。


 「……あの、お二人さん……そろそろ帰らないの?」


 「は?」


 証梨が眉を顰める。「今食べ始めたばかりでしょうが」


 「いや、そうなんだけどさ、ほら、服屋寄りたいとか?そんなこと言ってなかった?」


 「まだ2時半過ぎだよ?時間は全然あるから大丈夫!ここでまだゆっくりしてるつもり。颯くんが心配することじゃないよ、安心して」


 ……ダメだ。これ以上この2人を追い立てる理由が見つからない。やっぱり、今日は諦めよう。期間はまだある。いくらでも食べに来ることができる。


 「あ、このチーズケーキ、今日で終わっちゃうんだね」


 なん、だって……⁉︎


 「あぁ、期間限定だからね。今日来れて良かった」


 今日で終わり?じゃあ、食べる機会は今しかない、っていうことなのか?そんなの……。


 「最悪だ……」


 「何が?」


 僕が俯いて呟くと、菜乃葉がそう尋ねてきた。僕はそれに答えず、小さくため息をこぼす。


 「……颯くん」


 名前を呼ばれ、僕はわずかに顔を上げた。目の前には、店のメニュー表があった。


 「え?」


 「食べたいんでしょ、チーズケーキ」


 菜乃葉は両手でメニューを持って、僕の目の前に差し出していた。満面の笑みで。


 「何で……」


 「それはこっちのセリフだよ。何でいらないなんて言ったの?もしかして、恥ずかしかったの?男子なのにチーズケーキ頼むことが」


 え、バレてる……。


 「そんなの気にしなくたっていいのに!大体颯くん、どうせこれ食べにここに来たんだよね」


 「え、と……」


 僕がたじろいでいると、彼女はニコニコしながら言った。


 「私は君をこの店で見つけた時に確信したよ?あ、このチーズケーキを食べに来たんだって。甘党の颯くんが、これを見逃すはずないもん。これが食べたくて、普段入らないようなお店に入ったんでしょ?」


 なんてことだ。まさか、最初から全部気づかれていたなんて。


 「ほら、早く頼まないと、なくなっちゃうかも、人気商品だから」


 僕は、赤面しながらテーブルの端に置かれたボタンを押した。ピンポーンと軽やかなチャイムが店内に響く。


 「お待たせしました、ご注文をお伺いします」


 やがて現れた店員さんに、僕は小さな声で言った。


 「えっと、“ひんやりチーズケーキ”ください」


 「サイズはいかがなさいますか」


 SとMがあった。僕は、迷わなかった。


 「Mで」


 ぶ、と証梨がそっぽ向いて吹き出した。


 「かしこまりました、ひんやりチーズケーキのMですねー」


 店員さんが去ると、証梨が堪えきれないというように腹を抱えて笑い出す。


 「あっはは!Mで、だって!迷わず言ったね、おもしろ」


 「ホントだよ、もう、どんだけ食べたかったのさ」


 「……うるさいよ」


 僕はアイスコーヒーを一口飲んで、また俯いた。

 恥ずかしいとかそういう感情ももちろんあったけど、それよりも僕は、「ありがたい」と思った。今まで、知らずに生きてきたんだ。自分のことを知ってもらうことが、どれだけ幸せなことなのか。

 今の僕は恥ずかしさを通り越して心が満たされていた。もちろんそんなことは、“恥ずかしくて”言えないけれど。


 やがて、チーズケーキが運ばれてきた。


 「……美味しそう」


 思わず声が漏れる。今の僕は目も輝いていることだろう。

 ああ、ようやく食べれるんだ。フォークを入れながら、右手に伝わるたしかな感触にすら感動を覚える。一口、そっと口に運ぶ。その瞬間、僕は天にまで昇りそうだった。


 「…………まい」


 「ん?」


 菜乃葉が笑顔で首を傾げる。


 「……うまい、すごく」


 僕はそれだけ言った。


 「え、それだけ?」


 証梨が苦笑した。でも、本当にこれだけなのだ。僕はこの時、初めて知った。本当に美味しいものを食べたとき、人は「うまい」としか言えないこと。少なくとも僕には、その神秘的な味を詳しく言語化などできないのだ。


 「だって、美味しすぎて、美味しいしか言えない」


 「あはは、そっか」


 証梨がカラカラと笑った。


 「良かったな、食えて」


 「……うん」


 そのチーズケーキは、いつか菜乃葉と食べたクレープよりもずっと、美味しかった。

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