29
ほら。という声に俯けていた顔をあげると、証梨が自販機で買ってきたらしい缶飲料を僕の目の前に掲げていた。彼女に差し出されたそれは、甘めのアイスカフェオレの缶だった。
「あ、ありがとう」
まだ涙に濡れたままの声で礼を言ってから受け取る。僕は、証梨にラウンジへと連れ出されていた。
「で、何であんたは男のくせに、ギャーギャー泣き叫んでたわけ?」
彼女は僕の座る椅子のテーブルを挟んで向かい側に座り、膝を組んでそう問いかける。辺りには人もなく静寂で、エアコンの作動音だけがかすかに耳に届く。
「菜乃葉が、今まで我慢してきたこととか。苦しかったり辛かったりしたこととか、そういうの全部、考え出したらきりがなくて。止まらなくなって、泣けてきたんだ」
僕はぽつりぽつりと、証梨にワケを話しだした。けれど、彼女がノートに書いたあの文字のことだけは、証梨に言い出せなかった。
「証梨、前に言ってたよな?菜乃葉の秘密を知ってるって。共有してる、とも言ってた。それはどういう意味なんだ?君たち2人は、いったい何を隠してきたんだ?」
僕は擦りまくって赤くなっているだろう目のあたりの熱を気にしながら、「質問が多いよ」と苦い顔をする彼女の答えを待った。彼女は、缶のアイスココアを一口飲んで、こくりと喉を鳴らしたあとそっと口を開く。
「菜乃葉と私が知り合ったのは、中学生の時だった。お互い中1だったかな、この病院で知り合った」
「え……病院?」
なぜ中学生の女の子2人が、病院で知り合うのだろう。僕が思いつくその理由は、たった一つだけだった。
「私も菜乃葉も、ここに入院してた」
秘密の共有。互いに依存しあっている。証梨が話していた言葉の意味がようやく分かった。病院に入院していたという過去こそ彼女たちが共有していた秘密であり、それが彼女たちを普通の友達よりもどこか固い絆みたいなもので結んでいたのだろう。それは例えば僕の手にすることのできない、彼女たちだけのものだ。
その事実に、不思議と驚きといった感情は湧かなかった。むしろ、なるほどそういうことか、と腑に落ちたりもしていた。
「私は、生まれつき心臓が悪くて。移植手術をする前は、まともに歩くことさえままならなかった。ベッドで寝たきりの生活を送ってるときに、入院してきたのが菜乃葉だった。私、小さいころから病院の中で男の子と一緒に遊んで育ってきたから、同年代の女の子の友達って初めてで、すごく新鮮だった。それに、生まれた時から監獄みたいな病院で暮らしてた私に、外の世界のことをたくさん教えてくれたのが菜乃葉だった。アルツハイマーだって宣告されて、菜乃葉だって辛いはずなのに、そんな顔一つ見せないで、毎日明るく笑ってた。……菜乃葉らしいでしょ?」
微笑とともに投げかけられたその言葉に、僕はそっとうなずいた。
「一緒にいたのはほんの1年足らずだったんだけどね。私は心臓移植が終わってから退院することになって、そのすぐ後には菜乃葉も病状が好転してすぐに退院したって聞いた。あの子、私が移植手術を怖がって泣いてたら、泣き止むまでずっと付き添ってくれてたな……」
しんみりと語る証梨の表情を見て、僕もその様子を想像してみた。…………いや、ちょっと待て。
「え?証梨って泣くことあるの?」
あの証梨が?いやまさか、そんなことはないだろう。そう思っていると、突然彼女がテーブルの下で僕の足を思いきり蹴った。
「いって!!何すんだよっ……!」
涙目になりながら
「あんた私を何だと思ってるわけ?私は別に鉄人でも何でもない。普通に泣くわよ」
と言い放った。雷でも落ちそうな声色だった。
「だからって蹴ることないだろ!」
「うっさい。ムカついたから蹴るんだよ」
「理不尽。暴力的だ…………」
僕が嘆いていると、彼女は何でもないような口調で続ける。
「……とにかく、私と菜乃葉が秘密を共有してるっていう話はこれでおしまい。分かったなら、今日はもう帰れよ。そのぐちゃぐちゃの顔じゃ、菜乃葉には会えないだろ?」
「ん……ま、そうだな」
「なぁ、藤崎」
僕がまだ痛みの治まらない脛をさすっていると、彼女が声色を1トーン落としてそう僕に呼び掛ける。
「ん?」
証梨のそんな声を聞くのは初めてのような気がして、不思議に思いながら僕は首を傾げた。
「菜乃葉は、アルツハイマーなんだよね」
意識を集中させて聞こうと思って聞いたのに、彼女が言ったのはそれだけだったから、僕は思わず変な顔をしてしまった。
「……なんだよね、って、そりゃぁそうだろ。本人がそう言ってるんだから」
「きっといつか、私たちのことも忘れちゃうんだよね」
「……うん」
次の瞬間、僕はぎょっとした。人が泣くときって、こんなにもびっくりするんだ。ましてそれが、普段の性格や振る舞いからは到底考えられないような人の涙だったら。
彼女は、証梨は、泣いていたのだ。声こそ上げていないけど、その両目から、あふれんばかりの雫をこぼしていた。僕の目の前で、躊躇いもなく。
「……ちょっ、証梨⁉」
僕がそうやって彼女を慰めようと必死に考えて狼狽えていると、彼女は静かに口を開いた。
「初めてできた友達なのに。私の、恩人なのに。ねぇ、どうして菜乃葉があんな目に合わなきゃならないの?おかしいよな?神様は何を見て、ああいうのを判断してるんだ?頭が悪いのか?馬鹿なのか?私、……菜乃葉と、ずっと友達でいたいのに」
彼女はあふれ出てくる涙を何度も拭った。そのたびに、また一筋零れ落ち、また一筋。彼女は静かに泣いていた。
大丈夫。菜乃葉の病状はきっとよくなるよ。そんな気の利いた言葉は、僕に言えるはずがなかった。なぜなら僕も、そう思っていたから。なぜ神様は、菜乃葉を選んだりなんかしたんだと、思ってしまうから。僕に言えることと言えば、
「ずっと、友達でいればいい」
ただ、自分が正しいと信じられるものだけ。
「彼女が忘れてもずっと、友達でいればいい。僕らが彼女を忘れない限り、菜乃葉は僕らの友達だ」
「…………あんた、意外といい奴?」
「……うん、そうだね」
彼女の涙は、もう乾いていた。
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