35

 「ありがとう」


 病室まで送り届けると、彼女は僕にそう言った。

 僕は頷きだけして、「もう行くよ」と彼女に背を向ける。面会終了時間までもう残りわずかだったし、なんとなく、その場に居づらかったから、さっさと帰りたかった。そんな僕を、彼女が引き留めた。


 「……ねぇ、颯くん!」


 僕は無視するわけにもいかないので、彼女の方を振り返った。彼女はやたら感傷的な顔で、やたら感傷的なことを口にした。


 「あの、うまく言えないんだけどね、……颯くんが好きだって言ってくれた時、私、すっごくうれしかったよ」


 そんな余計なことを、彼女は言った。そんなことを言われたら、僕の決意が揺らいでしまうじゃないか。


 「言っただろ?あれはただの冗談だって」


 僕はわざと、少し強めの口調で言った。


 「うん。でも、どっちでもいい。嘘でもホントでも、私は嬉しかったから。それだけ、言いたくて」


 だったら、何で……。その先に言うべき言葉が見つからず、僕は唇を噛んだ。彼女はそんな僕を気にも留めないで、「それじゃ、またね颯くん」とそんな身勝手なセリフを捨ておいた。


 「……また」


 とだけ言って、僕も早足で病室を去った。


 ***


 翌日、懲りもせずに病室に行くと、彼女が何やらおかしなことをしていた。


 「何やってるの?」


 平静を保ったつもりだったけど、言葉が少しだけ震えた。自分で聞いておきながら、答えないでほしい、と思った。彼女の口からその行為の名称を聞くのは耐え難かった。それくらい、彼女のしていることはおかしなことだったからだ。


 「ずっと前にさ、聞いたじゃん?自殺の無難な方法。思いついたんだよねー」


 口調と、文言が一致していなかった。僕は、やっぱりその続きを聞きたくないと思った。でも、許されない。

 僕が無視してしまったら、彼女の決意は、まるでなかったもののようになってしまう。それは、違うと思った。


 「首吊り?」


 僕はたどたどしい声で聞いた。彼女が何と返してくるかは、なんとなく想像できたけど。

 彼女は、ロープを結って輪っかを作っていたのだ。


 「うん。記憶失くして抜け殻になるくらいなら、いっそその前に首吊って死のうと思って。どうかな?」


 僕に聞いて、どうしたいんだろう、彼女は。ここで例えば僕がやめてくれと懇願しても、彼女はやめないだろうに。


 「…………いいんじゃない」


 我ながら、この答えはどうかと思った。けれど、僕は本当にそれでいいと思っていた。僕に彼女の苦しみは分からない。分かるはずがない。彼女の味わっている苦しみが実は大したことないのか、あるいは自殺願望を抱くほどのものなのか。それは僕には計りかねることだ。彼女に生きることを強制する権利もない。

 だから僕は、ここで無責任に「死なないでくれ」なんて言えなかった。言ってはいけないと思った。死んでほしくないと思っていたって、彼女の生死は僕の手のひらの上にあるべきじゃない。


 「へぇ、てっきり引き留めるかと。怒られるかなって、覚悟までしてたのに」


 「君がすべきなのは、死ぬ覚悟だよ」


 面白くもない冗談を機械的に口にしてから、彼女の反応を伺った。僕が自殺に対し肯定的だと知った彼女は、どんな顔をするだろう。


 意外そうだった。彼女は僕をまじまじと見つめていた。自分から振っておいて、実は引き留めてほしかったりしたんだろうか。


 「なんか、思ってたのとちがう。もっと驚いてくれるかと思ってたのに。興ざめしちゃった」


 急に拗ねたような口調になって、彼女はロープをベッドの上に放り出した。ロープは主人の手を離れて、くたりと所在なげに転がった。


 「あ、そうだ。ねえねえ、私、最近遺書書いてるんだー」


 歌うように彼女は言った。僕はいよいよ頭がおかしくなりそうだった。彼女は僕を困らせたいんだろうか。からかっているのか?だとしたら、それはあまりにも笑えない冗談だ。


 「僕に遺産の半分くれる、とでも書いてあるのか?」


 僕はあくまで軽く受け流すことにした。こんなことにいちいち驚いていたら、僕はいつか自分の心を失ってしまいそうだった。


 「まさか。遺産なんてないよ。作る前に死ぬつもりだもん」


 そういうことを、何でもないような顔で言ってほしくないと思った。まるで友達とくだらないバカ話をするときのような、そんな顔で言ってほしくなかった。だからと言って、それを言う権利は僕にはなかったし、もちろん言う気にもならなかった。


 「なんで黙ってるの?まさか、本気じゃない、とか思ってる?またいつもの冗談だって思ってる?残念だけど、今回ばかりはそういうわけにもいかないのさ。私、もう覚悟決め……」


 「辛いなら、死ぬのもいいかもしれない」


 「へ?」


 彼女は、ポカンと呆けていた。まさか僕に、そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。僕だって、自分の口からまさかこんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。


 「辛くて、苦しくて、どうしようもないなら、”死ぬ”という選択肢もあるのかもしれない。だからたとえ、君がそれを選んだとして、僕は君を責めようだなんて思わない」


 言っていて、自分が怖かった。何を言ってるんだ、僕は。これでは、彼女に「死ね」と言っているのと変わりないんじゃないか。

 けれど確かにそう思うところがあった。彼女の病気がどんなものか、詳しくは知らないけれど、いずれすべてを忘れてしまうくらいなら、死んだほうがマシなのかもしれない。彼女がどう思っているのかは、わからない。


 「……止めてくれないんだね」


 いつもより1トーン低い声で、菜乃葉は言った。僕はそれについて、何も言えなかった。


 菜乃葉は窓の外に視線を移し、吹き込んでくる淡い風に目を細め、そして言った。

 「よかった」


 「せっかくの自殺だもん。颯くんに邪魔されちゃかなわないしね」


 彼女は僕の目を見て、眉尻を下げて仄かに笑った。今日、彼女は僕の目を見ていなかったのだと、ここで初めて気が付く。何というか、目を合わせてはいるけど焦点が合っていないような、心ここにあらずのような雰囲気があったのだ。それが今ようやく薄れて、僕は何となく安堵をおぼえた。けれど、彼女が自殺という道を選んだことに対しては、また自分がそれを促すような発言をしたことについても、僕はまったく安寧でなどいられなかった。

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