34
菜乃葉のことを考えていたからか、僕は知らない間に彼女の入院する病院まで来ていた。夕焼け空を見上げ、そして気が付いた。今日が、何の日か。
「屋上?」
「うん、病院の敷地内なら外出OKなんだろ?屋上も大丈夫だよな?」
病室で、彼女に会って早々僕は彼女を屋上に行かないかと誘った。彼女はもちろん首を傾げて、訝しげな眼で僕を見つめる。
「まぁ、行けないことはないだろうけど……。でも、何で急に屋上?」
彼女の表情から疑念の色が消えることはなかった。僕は、なんとなくまだ秘め事を話したくない、と思った。
「ヒミツ、かな」
ミステリアスな表情を意識しながら、僕は彼女についてくるよう手で促す。
「なにそれ。ヘンなの」
彼女はやっぱり何一つ腑に落ちていないようだったけど、それでもベッドから立ち上がり、ゆっくり、だが着実に歩みを進めていく。僕の後ろを、静かで小さな足音がついてくる。その音に、僕はなぜかほのかな安心感を憶えた。確かにそこには菜乃葉がいるのだという、そんな安心。
屋上のドアを開けると、僕らの頭上にはすぐそこに夜があった。もうすっかり濃紺だった。
「うわぁ、星!キレー……!」
子供みたいに彼女はくるくると夜空を仰いでみせた。僕より一足先に飛び出して、屋上の真ん中、開けた場所へ出ると頭上の紺碧を見上げた。僕も少し離れたところで立ち止まり、彼女の真似をして夜を見上げる。
「ねぇねぇ、どれが夏の大三角かなあ」
「大きい三角形のやつじゃない?」
「大三角だから当然でしょ」
彼女に軽くツッコまれてから、僕はふっと笑みをこぼした。まだまだ、こんなもんじゃない。
「ね、どうしてここに連れてきてくれたの?屋上に何かあるの?」
彼女は目をキラキラと輝かせた。彼女の目に、空から星が落ちてきたようだった。
「もうそろそろ、分かるよ」
言いながら、僕はズボンのポケットからスマホを取り出し、時刻を確認した。あと1分。
「えぇぇ、勿体ぶらないでよー」
彼女が僕の方を向いてその頬を膨らませた時――。
その表情が、一瞬にして陰った。彼女の背後で、遠く、炸裂音とともに色鮮やかな光が爆散した。
「えっ…………」
彼女は勢いよく振り返った。もう夜空には、いくつもの大輪が咲き誇っていた。
「花火大会……。行きたいって言ってたの、思い出したからさ」
僕は照れくさくて、本当は何かしてあげたいとずっと考えていた、とは言えなかった。彼女は、無言で光の花を見つめ続けた。僕には背を向けているから、その表情は見えない。
僕は、なんとなく思った。彼女こそが光で、僕は闇だ。彼女は光に照らされて、自身も誰かを照らす太陽となって、これからも、たとえアルツハイマーであっても、人に囲まれて生きていく。僕は夜の闇に溶けて、誰にも見つからないような場所で1人、ひっそりと息をひそめて生きていくのだ。菜乃葉との関係も、高校生限定のもので、遠くの大学に行ったらもうそれっきりだ。彼女は僕を忘れ、僕だけが未練がましく彼女への恋心を引きずり、やがてその気持ちも色あせてしまったら、もう、僕は永遠の闇に引きずり込まれる。
だからせめて、今だけは。今だけは、彼女とささやかな時間を過ごすことを許してほしい。僕にだって、こんな、太陽みたいな少女と時間を共有していた時期があったんだと。この記憶だけは、大学生になっても、社会人になっても、おじいちゃんになっても、忘れたくなかった。彼女が忘れても、僕は忘れたくなかった。
僕は菜乃葉の隣に立って、一緒に花火を見つめた。彼女は、何もしゃべらなかった。僕は気になって、彼女の方をふと見た。そして、ぎょっとした。
「えっ……何で……」
彼女は泣いていた。表情を一切崩さずに、ただ目から涙をこぼしていた。
「……忘れてた」
「え?」
「私、忘れちゃってたの。花火大会がいつなのか」
僕はそれを聞いた瞬間、彼女の涙の理由を理解した。そして、胸が痛くなった。
「颯くんが覚えててくれなかったら……。私、もうダメかも」
菜乃葉はその場にしゃがみこんだ。うずくまって、膝を抱えて、顔を伏せた。僕は、もしかしたら、彼女にアルツハイマーのことを意識させてしまったのかもしれない。いや、そうなのだ。
「ごめん、菜乃葉。そんなつもりで誘ったわけじゃなくて……」
「謝らないで!」
花火の炸裂音が屋上に響く中、彼女のその声だけはよく通った。
「すっごく惨めなの。みんなにとっての当たり前が、私にとっては奇跡みたいなことで、そして、絶対に叶わない。私にとってそれはファンタジーか何かで、好きな人と一緒にお祭りに行くとか、そんな普通の幸せが、私には普通じゃない。幻想なの。でも、もう分かってるから。私には無理なんだって、もうあきらめたから。だから、颯くんに謝ってほしくなんかない。謝られたら、私、どんな顔すればいいのか分かんないよ…………」
そんなことを言われたら、僕だって、なんて言えばいいかわからない。
「……ごめん、せっかく、連れてきてくれたのに。私,最悪すぎ。……ありがと、花火、見せてくれて。すっごく嬉しい」
彼女のその表情が精巧に作られたものであることは、僕にもわかった。
「嘘つくなよ。ホントは、分かってるんだ。君が花火大会に行きたいっていうのは、花火を見たいとかじゃなく、屋台が並んだ通りを歩きたいってことなんだって」
花火なんていうのは、口実で。実際のところ、人々は祭りの雰囲気を楽しむ。たとえそこに花火という要素がなくとも、屋台が出されれば自ずと足が向くものだ。だからこそ、菜乃葉に花火を見せるというのは、少しばかり酷なことかもしれなかった。遠くから打ち上げられた花火をただ眺めているだけなんて、僕だってその場に行きたいと強く思うほどのことなのだから。
……けれど彼女にはそれができない。
「……もっと言うとね、——」
彼女が静かに呟いた。後に続く言葉を聞いた時、僕まで泣けてきそうだった。
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