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「お疲れ、藤崎」
7時間のバイトを終え、スタッフルームで休憩していた僕に平野先輩が話しかけてきた。
「あ……お疲れ様です」
正直、かなり忙しかった。人気のカフェだからと身構えてはいたが、開店から客足が一切途絶えず、注文と、料理を運ぶだけでも僕はへとへとだった。ちなみにあの幻のパンケーキは、開店からわずか10分で完売となった。何も考えずにバイトを始めてしまったが、やはりパンケーキは入手困難じゃないだろうか。たかがバイトの僕が1日10食しかないパンケーキをいただくなんてよく考えれば難しい話だ。
「藤崎はさ、何でここのバイト始めようと思ったの?」
平野先輩は遅めの昼食を頬張ると、それを飲み込んでから言った。
「あー……」
何と答えようか一瞬迷った。けど、ここで何を隠しても意味はないだろう。
「パンケーキがおいしいって聞いたので」
「んだよ、食いもん目当てじゃねーか」
先輩は笑った。僕もその場しのぎでハハハと笑った。
「バイトで稼いで、彼女にプレゼントあげたいとか……勝手にそんなの想像してたわ」
オーナーも、平野先輩も、なんでみんな同じようなことを言うのだろう。そんなに僕に彼女がいるように見えるのか、あるいは今どきの高校生は誰でも恋人いるだろ、という致命的な勘違いか。
「僕、彼女いないですよ。というか、この前フラれたばっかなんで」
「え……マジか、なんかごめん」
そういうバツの悪いような顔をされると、こっちも何とも言えない気持ちになる。あの日の彼女もそうだった。僕の告白を「冗談」となかったことにしようとした挙句、泣きだしたのだから。……まぁ、その理由はあとに分かって、アルツハイマーを患っている彼女には僕のその想いも酷なものだったろうということはわかるけど。けど、理解するのと受け入れるのとでは少し違ってくる。やはり僕は、理性よりも感情を選びたがっていた。それは例えば、嫌だと泣き喚く彼女の唇に無理やり自分の唇を押し付けるような行為だ。むろんそんな行為はこの僕にはできないけれど。
「お、おい、悪かったって。そんな傷つくなよ」
「……傷ついてないですよ、もう吹っ切れたんで」
「そう?なら、いいんだけど……」
「今日はもう、上がりますね、お疲れ様です」
「おう……ちゃんと休めよ」
店を出て、僕は歩いていた。どこの道を歩いているかもよく分からない。ただ、分かるのは、今の僕の脳を支配しているのは蒼城菜乃葉だけだということ。
僕は噓つきだ。今だって、そして彼女に改めて聞かれた時だって。
「ねえ、あれ、ホントなの?」
「何が?」
「……”好き”って」
まるで僕を試すような口調だった。僕があの時頷いたなら、その気持ちを認め首を縦に振っていたなら、彼女はどんな反応を見せただろう。どんな顔をして、どんな声で、何と言っただろう。
あの日からずっと、”イフ”が頭の中を駆け巡っている。もし僕がこんな状況にも屈しないような芯をもった人間だったら。そしたら、あの日自分の気持ちを押し通すことができたんだろうか。もし彼女がアルツハイマーであっても僕の好意を受け止めてくれるなら、僕たちは恋人と呼べる関係になっていたんだろうか。挙句、もし彼女がアルツハイマーなど患っていない、どこにでもいる健全な少女だったなら………………とさえも。
馬鹿みたいだ。僕がそんなことを考えていたところで、彼女の病気が治るわけでもなく、進行を食い止められるわけでもない。むしろ、日を追うごとにそれは着実に彼女の脳を侵食し、やがて僕という記憶存在はあっけなくその脳から消えてなくなっているだろう。
彼女はすべてを忘れる。今まで構築してきた人間関係、誰かの顔や声、話した記憶、癖、仕草、特徴、性格。いずれ通学路が分からなくなって、朝どの電車に乗ればいいか分からなくなって、今日の朝ご飯は何を食べたんだっけ、今何しようとしてたんだっけ、が増えていく。そして彼女は自分も忘れていくだろう。自分の顔、鏡に映る顔に見覚えが無くなって、自分は何の食べ物が好きだったんだっけ、どんな服を好んで着ていたんだっけ、そもそも私の名前は何だっけ、私はなぜ忘れっぽいんだっけ、何で病院にいるんだっけ、何の病気を患っているんだっけ、そもそも病気なんて罹ってた?
今日が何日なのか分からない。
今喋ってる人、前に会ったことある?
箸ってどうやって持つの?
もう言葉が分からない。
何で、何で、何で。
何で、何も分からないの?
…………何で、”何で”って思ってるんだろう。
彼女はいずれ、そうなっていくだろう。その時、彼女の頭には何も分からないことに対する恐怖だけが強く刻まれているだけで、僕の顔や声、話した記憶、癖、仕草、特徴や性格は微塵もないのだろう。
残酷すぎる。冷酷すぎる。すべてを忘れるとはそういうことだ。忘れたことすらも忘れてしまうんだ、きっと。アルツハイマーとは、そういう恐ろしい病気なんだ。……そんな病気を、なぜ彼女が患わなければいけない?あんなに明るくて、おっちょこちょいで、世話焼きで、調子に乗ることも多いし、笑い声がでかすぎるし、人の困った顔を見るのが好きで、僕のそういう顔を見て笑っているような、でも、いざってときは優しくて、そして不器用で、けれど前向きで。そんな人が、どうしてこんな目に合わなければいけないのか。誰も答えてはくれない。誰にもどうにもできない。僕にだって、菜乃葉にだってどうにもできない。
僕は悔しかった。何もできないことが、悔しくてたまらなかった。自分の無力さを痛感した。海に溺れている人をそのまま見殺しにするような気分だった。記憶を失くしていく人を、そのまま見殺しにしていくのだ、僕は。これから、ずっと。僕は日々忘れていく彼女を見て、そして何もできないまま、ただ傍らに立つことしかできないのだ。
彼女は底なしの闇に足を引きずり込まれ、堕ちていく。それでも這い上がりたくて、僕に向かって必死に手を伸ばし、助けを求める。そんな彼女をただ見下ろし、手も何も差し伸べないのがこの僕なのだ。なんて最低なんだろう。友達が窒息しようとしているのを、黙って見過ごすなんて。僕には到底できない。でも、やがて僕はそうすることになる。嫌でも彼女を見殺しにすることになる。傍観者A。僕はそうして、すべてを忘れていく彼女を諦めるのだ。
彼女が病院のベッドの上で記憶も何もない植物状態となっている間、僕はどこかの大学に行くだろう。卒業したら、どこかの企業に就職して、平凡な社会人にでもなっているだろう。平凡に年を取って、平凡な人と結婚して、平凡な家庭を気付いて、平凡に囲まれて、平凡に死んでいく。その中でたったひとつ明らかに眩しい光を放ち輝き続けるのは、菜乃葉だけだ。
菜乃葉ただ一人が、僕が死ぬまでの平凡な思い出の中で強く色濃く存在しているだろう。
けれど、それでも、そんな平凡すらも味わえない少女が一人。それが、菜乃葉だった。
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