50
涙が枯れることはなかった。僕の涙は、永遠にノートへと光のしずくとなって滴った。
日記は、そこで終わっていた。あとには、真っ白なページが続いていた。
彼女の最後の日記は、彼女が僕のことをおぼえていた最後の日のものだった。
「ほとんど、僕のことじゃんか……」
いつだったか、この日記には僕のことが書いてあったりするんだろうか、なんてドキドキしたことがあったけど、まさか、こんなに僕のこと書いてたなんて、知らなかった。
パラパラとページをめくっていると、ノートの間に挟まっていたらしい何かが床にパサリと落ちた。拾い上げるとそれは、折りたたまれた真っ白な便箋だった。数枚ほどある。恐る恐る開いて、一番最初の行が目に入ると、僕は「あれ?」とやたら既視感をおぼえた。
***
藤崎颯くんへ
遺書を書こうと思ってたのに、いつの間にか君への手紙になっちゃった。気が早いかもしれないけど、私の意識が鮮明なうちに、君への気持ちを残しておこうと思いました。えっと、そっちの私はもう、君を忘れちゃったかな?もしかしたら、もういないのかもしれない。けど、奇跡的に君のことをおぼえていたりしたら、そのときは積極的に話に付き合ってあげてね。
当初の予定では、君への手紙には謝罪を連ねるつもりだった。今までアルツハイマーのこと黙っててごめんとか、死んじゃってごめんとか。けれど、それよりももっと大切なことがあるから。謝罪は、ごめんなさいの一言で割愛させてください。
出会わなければよかったと、ずっと思ってた。君に会って、私は苦しみを知ったから。好きな人に好きって言えない苦しさ。好きな人からの告白にうなずけないつらさ。何もかも、君に出会って知ったものだから。こんなことなら出会わなければよかった。そうすれば、君をこんなに傷つけることもなかったなって思ってた。後ろめたかった。
けど、今はそうじゃないって言える。君に出会えてよかった。君がいたから、私は苦しみもつらさもはるかに上回るほどの大きな喜びを知ることができた。君がいたから、私はこんな不遇な人生でも幸せだって思えた。最後の最後に、世界の美しさを知った。君の教えてくれた色が、私の世界に色彩をくれた。君はただまぶしかった。太陽のようだった。しおれた菜の花を元気に立ち直らせてくれる太陽。何度だって言える。君に出会えてよかった。出会えてよかった。出会わなければ、世界のまぶしさを知らないまま、誰かを好きになることの素晴らしさも知らないまま、この世を去っていたんだよ?君は私にとって、たった一人のかけがえない存在です。これからもずっと、変わらない。
遺書だから、一応書いておきます。
私を好きでいてくれるのはもちろんうれしいけど、私以外の人を好きになって、その人と結婚してください。君一人っ子でしょ?子供必要でしょう?好きな人と結婚して、子供を授かってください。いつまでも私のこと引き摺らないでください。次の恋に進んでください。きっといい相手が見つかるよ。私にはわかるんだー。ここだけの話、最近見た夢を教えてあげる。その夢でね、何と颯くんが、ちっちゃい女の子をおんぶしてたの!きっと、生まれるのは女の子だよ。私は女の子に1億円賭ける!
あと、ちゃんと生きてください。私のいないところでも、しっかり人間関係を築いて、人と交流してください。前を向いてしっかり歩いてください。私のいる場所に、いつまでも居続けないで。君はまだ、進めるんだから。私が進めなかった分まで、進んでください。
最後に、泣いてください。
私が死んだら、たくさん泣いてください。そして、どうして逝っちゃったんだとか、もっとああしたかったとか、たくさん文句を言ってください。そうしてまた、立ち上がってください。前を見て、ひたすら前を見て。けど、疲れたら、そりゃあちょっとは休憩して。忘れないで。前を向いて進んでいく君の隣に、いつでも私が寄り添っていること。
さようなら。あなたに出会えて幸せだった。
ありがとう。
愛しています。
愛しています。
蒼城菜乃葉
「出会わなければよかったって、そういう……」
僕が彼女にもらった手紙は多分、僕に渡す予定のものじゃなかったんだと思う。彼女は書き直した手紙の存在を忘れ、僕に間違ったほうの手紙を渡したんだ。僕は胸がいっぱいだった。恥ずかしさ、もどかしさ、苦しさ、嬉しさ、いろんな色が混ざり合って対流した感情で胸がいっぱいだった。
”出会わなければよかった。でも、出会えてよかった”
君はそんな風に、思っていてくれたんだ。それだけで僕は、不確定な未来に向かって歩いていく勇気をもらえた。
礼を言うのは、僕のほうだ。彼女は僕に、数えきれない多くのものを残した。彼女がいなければ、僕は人とのつながりの大切さを知らないままだった。彼女なしでは、いけていけないと思っていた。けれど、それも今では違う。僕は、もう大丈夫だ。今度こそ、大丈夫。ちゃんと、前を向いて歩いて行ける。彼女が教えてくれたんだ。世界の美しさを。この世界にありとあらゆる花が咲き誇り、そしてそれらが互いに指を結びあって、成長していくこと。この世界はいつしか、色とりどりの花が咲き乱れる大きな花畑になる。その真ん中で、黄色い菜の花と紫色の藤の花は寄り添いあい、流れる時間の中で静かに眠るだろう。
彼女のことを忘れないっていうのは、決して自分の歩みを止めることなんかじゃない。歩きながら、ちょっとずつ前に進みながら、時折ふと思い出したように立ち止まって、彼女に思いをはせること。彼女と過ごした切ない日々を、追憶すること。
雪が降りそうな冷たい空に、彼女へ祈りをささげた。
――君もどうか、そっちで進んでいけますように。
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