forget me not
41
「こんにちは」
「……誰?」
背後でドアを閉めながら、僕は言った。
「初めまして。僕は藤崎颯。蒼城さんのクラスメイト」
この初めましては、ここ1週間で4度目。
「そう……。用件は?」
「先生から、プリントを預かってるんだ」
あの夜から、1週間が経っていた。彼女は僕の名前を忘れ、その翌日には僕という存在自体忘れてしまったらしい。
2学期になり学校も始まったけど、椎名たちクラスメイトは菜乃葉の入院を盲腸として認識している。学校が口裏を合わせてくれているようだ。病院がどこかは公表されていないので、今の状態の彼女に会ってアルツハイマーを疑われるということもない。
菜乃葉は時々、こうして僕や証梨のことを忘れている。そうではない日もあるけど、大体は忘れていることの方が多い。
「藤崎くんは……私と友達なんですか?」
「うん……よく喋ってたかな。勉強教えたりもしたよ」
ここで例えば互いに恋をしていたとか言っても今の彼女はただ混乱するだけだろうからそういうことは言わないようにしている。
「私が、君に?」
「まさか。僕が君に教えてたんだよ」
彼女は意外そうな顔で驚いた。けれどその後すぐに表情を曇らせて、
「私が……アルツハイマーだから、ですね」
嘆息を吐いた。
「数学のテストは、僕が負けたりもしたんだ」
僕は苦笑しながら彼女に言った。
「そうなんですか?」
「ああ。教えたのは僕なのに、君は僕より高い点数をとってたよ」
「へぇ……。それは何だか申し訳ないです」
敬語じゃなくていいと言っても、翌日には戻っているのはこの1週間で思い知っている。
「藤崎くんは、どうして来てくれたんですか?ここにいても、つまらないでしょう。君のことをすっかり忘れた私と会話するのは」
「それでいいって、約束したから」
彼女は何のことだか分からない、というような顔をしていた。
「蒼城さんがどんなに僕のことを忘れても僕がずっとそばにいる」
だから死なないで、生きてほしい。
「そう、約束したんだ。君と」
「それは……素敵な約束ですね」
彼女は微かに唇の端を上げた。
***
「この前のパンケーキ、あれ、誰に持っていったの?」
バイト中、休憩時間に椎名が尋ねてきた。
「あー……入院してる友達が、食べたがってたから。おいしいって言ってた。ありがとう、椎名さん」
「そっか。あぁ、あと椎名“さん”って、他人行儀だし呼び捨てでいいよ。菜乃葉とか証梨とかも呼び捨てで呼んでるじゃん?」
確かに、菜乃葉や証梨は出会ってからすぐに名前で呼んでいたけど、椎名はずっと“さん”付けで呼んでいた。
「じゃ……あ、下の名前なんだっけ?」
「里香だよ。椎名里香」
「それで。里香って呼ぶよ」
うん、と里香は頷いた。
「私も藤崎くんのこと、下の名前で呼んでいい?」
「ああ、何とでも呼んでくれて構わないよ」
一呼吸おいてから、彼女は呟いた。颯くん。
「はは、なんか恥ずかしいね」
彼女は照れくさそうに笑った。
「颯くん、何時にバイト終わる?」
「今日は6時上がりかな」
答えると、彼女は嬉々とした表情で
「ホント?それじゃ、一緒に帰ろうよ」
そう、言った。
「ああ、分かった」
僕もそれに頷いた。
***
「もう2学期始まっちゃったね。夏休みもあっという間だったなぁ」
隣で歩く里香が、名残惜しそうに言った。
「そうだね。結構、憂鬱」
本当に、短かったけどいろいろなことがあった。沖縄旅行の話はなくなるし、菜乃葉は入院してアルツハイマーだと明かされるし、2人で花火を見たりもした。そして、互いの感情を吐露しあって、彼女は生きることを選び、僕たちは唇をつないだ。
「そういえば菜乃葉、盲腸で入院って聞いたけど、大丈夫かなぁ。どこの病院か知ってる?」
この街で一番大きな大学病院。もちろん知っているけど、これは国家機密よりも重要だ。僕の口からは言えない。
「いいや、僕もさっぱり」
「そっか、颯くんなら知ってると思ったんだけど」
「何で?」
「なんとなく。菜乃葉と仲良かったから」
そうか。周りからはそんな風に見えていたのか。
「夏休みに入ってからは、全然会ってないよ」
このセリフが嘘に聞こえないことを、僕は祈った。
「……そうなんだ、意外。菜乃葉のことだから、てっきり颯くんをいろんなところに連れまわしてるのかと」
その推察は、あながち間違ってもいない。
「どんな偏見だよ」
僕は愛想笑いでごまかした。けれど里香は突然立ち止まって、僕の顔を真剣に見つめだしたりした。
「……里香?」
僕も立ち止まって、彼女に向き直る。彼女は数瞬後、口を開いた。
「もし、私が颯くんのことを好きだって言ったら、なんて答える?」
「……へ?」
どういう、ことだ?
「きゅ、急にどうしたの?」
「なんて、答える?」
彼女の視線はいやにまっすぐだった。僕はただ迷った。どう答えればいいのかわからなかった。そもそも、僕はこんな質問をされるなんて思ってもみなかった。もう一度聞きなおしたいくらいだ。聞き間違いの可能性だってある。
「あの、もう一回言ってもらっていい?なんて言ったの?」
「私が、君のことが好きって言ったら、颯くんはなんて答えますか?」
黒だ。完全に黒だ。なんて答えるって言ったって、そんなのは僕にだってわからない。
「えっと……」
僕が口ごもっていると、やがて彼女は細く息を吐いた。
「もしかして、菜乃葉?」
「え?」
「颯くんが好きなのって、菜乃葉?」
僕は何も言えなかった。だって、驚くほど図星だったから。
「そっか……やっぱり、そうなんだね」
彼女は切なげな目を伏せてつぶやいた。僕は何となく胸が痛んだ。
「え、えと、里香が僕を好きって、それって、ホント?」
僕は信じられなかった。だって、知り合ってこんなにも日が浅いのに、好きになるだなんて。僕は一目惚れされるような容姿じゃないし、どうやったら僕を好きになるというのか、僕自身全く見当もつかなかった。
「うん、本当だよ」
「その……理由を、聞いてもいい?」
彼女は感傷的な表情のまま、「近くに、安くておいしいファミレスがあるんだ」と言った。
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