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人はこんな状態のことを、こう呼ぶのだろう、「気まずい」。2人でテーブル席に向かい合って座り、そして沈黙する。テーブルの上には頼んで運ばれてきてからほとんど手を付けていないケーキセット。
僕はたまらず、声を発した。
「えっと……」
けれど、発した声は異様に情けなくて、僕は自分の女々しさを呪うばかりだった。
「颯くんさ、」
「は、はいっ!」
急に彼女に名前を呼ばれ、僕は思わず上ずった声で返答する。
「小学校のとき、何の委員会に入ってたか覚えてる?」
「え……委員会?」
突然の話題に僕は首をかしげたが、約5年前の記憶を頑張って思い起こしてみる。
「たしか……あれだ、フラワー委員会、かな」
僕の黒歴史の一つ。僕は男でありながら、フラワー委員会に属していた。その頃から僕は女々しい奴だったのだ。サッカーよりも野球よりも、花が好きだった。そのことを理由に、クラスメイトからは馬鹿にされていた気がする。
委員会に入ったきっかけは、小さい頃に読んだ花の図鑑か何かだったと思う。とにかく小学生時代の僕は花を愛していた。母親も花が好きだった。親子で一緒に、花言葉を調べたりしていた記憶がある。
「そんなに恥ずかしがることじゃないよ」
里香は笑って言った。けれど僕にとって、フラワー委員だったというこの事実ほど恥ずかしいものはないような気もした。
「……で、そのフラワー委員会がなんだって?」
「クラスでもう一人、フラワー委員の女の子がいたのは覚えてる?」
もう一人……言われてみれば、確かにいた気がする。名前は……。
「椎名里香……。え、里香⁉」
「正解。私がその、”フラワー委員の女の子”だよ」
そう言うと、里香はいたずらっぽく笑った。
「やっと思い出した?私は君をこの高校で初めて見た時からうすうす気づいてたよ。名前を見て確信した。あの時のフラワー委員の子だって」
***
あの頃、よく花壇が踏み荒らされていた。自分のクラスの花壇だけが、何者かによってぐちゃぐちゃに踏みつけにされていたのだ。犯人は何となく予想できたけど、先生に報告するのも馬鹿らしくて僕は黙っていた。
ある日の放課後、花壇の様子が気になった僕は1人で裏庭に向かった。そこには各クラスの花壇が数十区画並んでいるのだが、僕たちのクラスの花壇の前に、誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。髪を肩口で切りそろえた、赤いランドセルの女の子。僕は直感的に、そこにいるのは椎名里香だと思った。
「あの、大丈夫……?」
背後からおそるおそる声をかけると、女の子はさっとこちらを振り返った。その瞬間、僕はギョッとした。
「え、な、何で泣いてるの……⁉︎」
女の子——里香は目に涙をいっぱいに溜めて、「藤崎くん……」と言った。
「ごめんなさい……」
僕は彼女の隣に一緒になってしゃがみ込んだ。そして、彼女の様子を伺いながら尋ねる。
「何が、ごめんなさいなの?」
「花壇がこんなことになっちゃったの、私のせいだからっ……」
ぐすっ、ぐすっ、と里香は肩を震わせる。
「私のせい、って、別に椎名さんがやったわけじゃないんでしょ?」
そう聞くと、彼女は涙声で次のように話した。
昼休みに花壇へ水をやっていると、そこにクラスの男の子たちが3人やってきた。彼らは里香を押さえつけて、その間に花壇をめちゃくちゃに踏み荒らした。
「お前ら2人、花が好きとかキモいんだよ」
とか、
「弱虫のくせに、」
とか散々罵倒されて、里香が泣きだすと男子たちは逃げるようにその場を離れた。
***
「ひどいな……」
「私、力も弱くて、花壇がぐちゃぐちゃにされるの見てることしかできなくて、それでこんなことに……ごめんなさい、今週の水やり当番は私なのにっ……」
と、彼女はかなり見当違いな理由で泣いているわけだった。
「椎名さんのせいじゃないじゃん」
「そんなことないよ、私、怖くて声も出なかったの。先生を呼ぶとか、もっと方法があったのに、何もできなかった」
「押さえられてたんでしょ?動けないのも声が出ないのも、無理はないよ。男子3人に女子が1人で、なんて無謀すぎる」
僕が嗜めるように言うと、彼女は泣き腫らした目をこすりながら
「ありがとう、藤崎くん。もう、慰めてくれなくて大丈夫だよ」
そう言うと、花壇の花を丁寧に整えだした。
「え、何してるの?」
「花壇、綺麗にするの。こうなったの、私の責任だから」
時刻は午後4時。小学生の女の子が遅くに帰ったら、家の人は当然心配するだろう。
「もう遅いし、今日は」
「けど、こんなにひどい状態で花を置いていけないよ」
里香は黙々と手を動かした。その様子を見ていたら、僕1人だけ先に帰るなんてことはできなくて、僕も彼女の見よう見まねで花壇の土を整え始めた。
「藤崎くんは、帰っていいよ!」
慌てた様子で言う里香に、
「2人でやった方が、早く終わるから」
と告げて、僕も作業に集中した。隣で、ありがとうと小さな声が聞こえたような、聞こえなかったような気がした。
「終わった……」
小1時間ほどで花壇は元の状態、とまではいかなくても何とか形にはなった。
「藤崎くんのおかげだよ。本当にありがとう」
「いいや、僕は何もしてないよ」
実際、僕は彼女に指示を仰いで動いていただけで、言ってしまえば里香は現場監督だった。
「ううん。藤崎くんが手伝ってくれなかったら、もっと時間かかってたよ」
と、彼女はゆっくり首を振った。その時、5時を告げるチャイムが街中に響き渡った。
「あ、僕、そろそろ帰らないと。椎名さんも早く帰ったほうが」
「あ、あの、藤崎くん!」
僕が帰ろうとランドセルを背負うと、彼女は突然大声を出し、僕を引き留めた。
「今日は、本当にありがとう」
何度目とも知れない感謝の言葉を口にして、里香はにこりとほほ笑んだ。僕はなんと返したらいいのかわからず、
「……また困ったことがあったら、いつでも僕に頼って」
なんてカッコつけたセリフを苦し紛れに残し、その場を後にした。
***
「うん、覚えてるよ。たしかに僕は、小学校のころ君と同じクラスで同じフラワー委員会に入っていた」
「よかった、思い出してくれて。それだよ、私が颯くんを好きな理由」
「なるほど……ん?」
僕は一瞬腑に落ちかけたが、すぐさまかぶりを振った。同じフラワー委員というだけであって、そこに恋愛感情なんて沸くはずがない。
「えっと、ごめん。まだよく分からないんだけど…………」
「その……一緒に花壇を直したときあったじゃない。その時、から、だと思う。気づいたら好きになってたっていうか…………もう、こんな恥ずかしいセリフ言わせないでよ」
好きだと告げるほうが恥ずかしくないか?というセリフは胸の内にしまっておいた。
「けど、あれだよね、颯くんは菜乃葉が好きなんでしょ?だから、この話はもうおしまいってことで。はぁ、悔しいなぁ。好きな人、友達にとられちゃうなんて」
彼女はあくまで気丈に、早口で締めくくった。けれど言葉の節々が震えていたり、時折見せる冷たい目の色だったり、感情は口調と裏腹なんだろうなと思わせるところがあった。
たとえそうであったとしても、僕の菜乃葉に対する気持ちは本物だし、それは彼女が僕のことを忘れてしまった今でも変わらない。だから、里香に優しい言葉をかけてあげることなんて、できなかった。
「ホント、急にこんなこと言ってごめんね?困らせちゃったよね。分かってたはずなのに。こうやって、気まずい空気になるの。颯くんが菜乃葉を好きなんだってことも、十二分に分かってたはずなのに……。けど、どうしても、自分の中だけでこの気持ちを自然消滅させたくなくて、それで――」
「ありがとう」
「え?」
僕は、たとえそうでも、嬉しかった。
「僕には、もったいない言葉だ。勇気を出して、言ってくれて、ありがとう。それだけで僕はうれしい。小学生のころから、僕のことをそんな風に思ってくれている人がいたんだって、それだけで、僕は救われる」
あの頃の孤独な少年に、教えてあげたいくらいに。
「救わ、れる?」
里香はよく分かっていなかったみたいだけど、それならそれでいい。
「……失敗したな」
彼女の瞳が、つやつやと煌めいた。
「あの、好きになった瞬間に、伝えておけばよかった。そしたら、未来はどうなってたんだろう」
「……僕、もう行くよ」
彼女はいよいよ顔を伏せて、小さな肩を小刻みに震わせだした。僕はもう、この場にいるべきではない気がした。彼女は今、1人でいたほうがいい。
***
ある日、菜乃葉の病室に行くと、彼女は自分の日記を熱心に読んでいた。
「こんにちは」
声をかけると、その小さな顔をこちらに向けて、こう言った。
「もしかして……藤崎、くん?」
僕は心臓が止まるかと思った。記憶が、ある。
「菜乃葉……。思い出して……⁉」
僕が身を乗り出すと、彼女はさっと上体を退けて、僕を怖がるような姿勢を見せた。その時に、確信した。
「あ、ごめん、なさい。その、日記にたくさん出てくる男の子がいて、もしかしたら、あなたがそうなのかもって、それだけなの」
「あ、そ、そうか。ごめん」
彼女の病状は末期だ。奇跡的に回復、そんな”奇跡”はきっと、億が一にも起こらない。
「日記……どんなことが書いてあるんだ?」
僕は椅子に座って、彼女にそう尋ねた。教えてくれないかも、と思ったけど、案外すんなり、教えてくれた。
「ほとんどがあなたとの思い出みたい。焼き肉を食べに行ったとか、家で一緒にゲームしたとか」
「そう、なんだ……」
心が、やけにくすぐったかった。
「…………私はあなたのことが、好きだったみたい」
「え……」
「あなたに好きだと言われて、私自身もその気持ちに気付いたのね。自分がアルツハイマーだから、あなたと付き合えない。辛くて苦しい。そんな文章が、毎日のように書かれてる」
僕は胸が痛くなった。僕が今まで彼女を傷つけてきたのは、揺るがない事実だ。
「…………こんなに、好きだったのに。どうして、忘れてしまうんだろう」
「…………」
僕は、辛そうな表情の彼女を見て、ただ黙っていることしかできなかった。
「私の気持ち、全部嘘だったのかな。こんなに温かい記憶も今の私にはまったくなくて、空っぽなの。まるで、自分が今まで生きてきた証が、少しずつ消えていくみたい」
そのセリフを、僕はあと何回聞くことになるんだろう。そう思った時、面会時間終了のお知らせが院内に響いた。
「そろそろ、行くよ」
「また……会いに来てくれる?」
「……近いうちに必ず」
こんな状態が、2週間続いて。
彼女はやがて日記の存在を忘れ、家族の存在も、あやふやになってしまった。
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