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 「藤崎颯くん、だね」


 菜乃葉のお見舞いから帰るところ、病院の廊下で、1人の男性に声をかけられた。


 「そうですが……」


 「会うのは初めてかな。蒼城菜乃葉の父です」


 ***


 菜乃葉のお父さんは、少し話をしないかと言って、僕を病院1階のラウンジへと連れてきた。空いているテーブル席に、2人向かい合って座る。

 

 「妻や娘から、話は聞いているよ。いつも世話になっているようだ」


 「い、いえ!こちらこそ、菜乃葉さんにはいつもお世話になって……」


 僕が委縮しつつ答えると、


 「はは、そう畏まらなくていいよ」


 と朗らかに笑った。笑った時の目元なんかが、菜乃葉に似ていると思った。


 「いつか直接、会ってお礼を言いたいと思っていたんだ。君と知り合ってから、娘はずいぶん明るくなった」


 「え……菜乃葉さん、1年生のときから明るい性格だったんじゃ……」


 「学校ではね。ただ、家に帰ってくればいつも部屋に閉じこもり、泣いてばかりいたよ。三者面談で娘さんはクラスのムードメーカーで、なんて言われて、僕も驚いたんだ」


 そう、だったのか……。


 「とにかく、いつも悲観的に物事を見る子だった。病気が発症する前は、それでも元気に過ごしていたんだが……。アルツハイマーだと分かってから、人と接することが、苦痛になっていったんだろう。友達と話すたびに、自分は何かを忘れていないか、相手をいやな気持ちにさせていないか、常に気を揉んでいた。当然、精神面での疲れが出て、帰ってからは私たち夫婦とほとんど口を利かずに自室にこもっていた」


 僕は泣きそうになった。目頭が熱くなった。彼女は1年のときから、いや、きっともっと前からそうやって苦しい生活を強いられてきたんだと思うと、胸が締め付けられた。


 「そんな顔をするな、これでもあの子は、君のおかげであんなに明るくなったんだ。君がいなければ、あの子は笑うことすらなかったかもしれない」


 「そんな……そんなこと、ないです。僕の方こそ、彼女に助けられてばっかりで。色んなことを、教えてもらってばっかりで」


 本当に、彼女に助けてもらったのは僕の方だ。彼女がいなければ僕は——友達の必要性を知ることなんてなかった。


 「あの子が、君に?……そうか」


 それだけ言って、お父さんは優しく微笑んだ。けれどその表情に少しだけ、陰りが見えて、僕は緊張した。


 「今日はお礼ともう一つ、伝えたいことがあったんだ」


 そしてお父さんは、僕にゆっくりと頭を下げた。


 「っ……⁉︎」


 「……娘と会うのは、これっきりにしてくれないか」


 「えっ——」


 背筋が、凍りついたように冷たかった。うまく息ができない。


 「君に会うたび、娘は辛い思いをする。君が帰ったあと、娘は決まって泣いてしまうんだ。『彼は私の大切な人のはずなのに、どうして私にはその記憶がないのか』と」


 「…………」


 声も出なかった。何も言えなかった。吐く息が震えた。


 「あの、どうか頭を上げてくださ」


 「お願いだ!これ以上、あの子の苦しむ顔を見たくないんだ。君に酷なことを言っていることは重々承知している。だが、もうあの子は限界なんだ……」


 「ぼ、僕は……約束したんです、彼女と」


 涙が、頬を伝った。


 「彼女が僕のことを忘れても、僕が必ず、何度でも会いに来るって……」


 そう告げた後の、菜乃葉の安堵したような顔。僕はその顔を脳裏に思い起こしながら言った。

 けど、お父さんの言うことも、分からないなんていうことは全くなかった。菜乃葉が苦しんでいるのも、事実なんだろう。僕が会いに行くことは、彼女に失くした記憶を否応なしに意識させることになる。それは当然辛いことだ。僕では、計り知れないほどの。


 「……そう、か。すまなかった、藤崎くん。君たち2人で決めたことなら、私に口を挟む権利はないだろう」


 お父さんは頭を上げて、けれど疲弊しきった顔でそう告げた。言葉では僕を尊重してくれているけど、実際はすごく複雑な感情なんだろうなと思う。目の前にいるのは、娘を傷つけている張本人なのだから。


 「——わかりました。僕、彼女と会うのはもうやめます」


 だからこそ、僕は彼女が最期まで幸せでいられる道を選んだ。僕が会わなければ、彼女は僕という存在が自分の記憶にいたことも意識し得ないはずだ。


 「君は、それでいいんだね」


 「約束を破るのは心苦しいです。けど……彼女の涙は、もう見たくないので」


 ***


 病院を出て、つい、ため息がこぼれた。全身の力が抜けた。


 “彼女と会うのはもうやめます”。もう、会えないのだと思うと、急に胸が苦しくなった。菜乃葉が僕を忘れた瞬間よりも悲しかった。果てしない虚無に襲われ、心に空いた穴を埋める術も知らずとぼとぼ歩き続ける。歩き続けてそこがどこなのか分からなくなった時、ふと、泣けてきた。

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